「恋煩い」シリーズ シャプール編

□Datura 〜ダチュラ〜
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カーテンの隙間から陽の光が漏れて、部屋をぼんやりと明るくしていた。寝台の上で寝返りを打ち、独りで寝るには大きすぎる寝具の上で、しばらくぼんやりとする。鳥の声と、使用人たちの立てる音が聞こえ、ようやく頭がはっきりしてきた。身を起こし、そっと素足を石造りの床におろし、冷やりとした冷たさに一瞬足をすくませ、今度は革のサンダルの上に足を下ろした。

もう夏の盛は過ぎ、朝晩は冷えるため、名無しさんは軽く上着を羽織り、カーテンを開けて陽の光を浴びた。窓を開けると冷たい空気に触れて肌がピリッとしたが、それもすぐ太陽の光に温められ、名無しさんは ほう、とため息をついた。

すぐに顔を洗い、着替えると鏡の前に立つ。黒くて長い髪を器用に編み、美しい石で飾られたピンでとめる。ピンはシャプールから贈られたものだ。鏡の中できらりと光るピンを見て、名無しさんは ふふ、と笑った。

別に誕生日でもないのに、急に「街で目に付いた」と言って買ってきてくれたのだが、渡すときもそっぽを向いてポン、と投げるようによこしてきた。礼を言う名無しさんの声にも ああ、とぞんざいに応え、さっさと部屋へ行ってしまった。そこまでがシャプールの限界だったのだろう、と思うと再び笑みが浮かぶ。名無しさんは背筋を伸ばすと、朝食のために部屋を出ていった。


夏の間は直接陽の当たらぬ風通しの良い部屋で食事をとるが、最近では南向きの明るい部屋を使うようになった。床石が見えぬほど隙間なく厚い絨毯がひかれ、部屋の端には冬に備えて暖炉の中にすでに薪が入れられている。だが出番には少し早い。暖炉の中はしんとして、火の気配はなかった。

シャプールと名無しさんが向き合って座る間に低い机が置かれ、パンにチーズ、オリーブ、トマトの卵とじ、ハムなどがそれぞれ小皿に載せられて置いてある。ほぼ食べ終えたころ、シャプールが思い出したように言った。

「そろそろイスファーンが帰ってくる。部屋の用意をしてやってくれ」

頷きながら、もうひと月経ったのか、と名無しさんは思った。イスファーンは中隊を率いて国境の守りにつき、そろそろ戻ってくる予定だった。イスファーンにとっては初めての大掛かりな任務で、本人も晴れがましい様子で出立し、シャプールもそんな弟のために喜んでいるようだった。

「きっといろんなお話を聞かせてくださいますね」
「そうだな。お前にも土産の一つも求めてくるだろう」

名無しさんは再びピンを思い出し、手で触れた。真面目なシャプールに対し、弟のイスファーンの方は社交的で、義姉の名無しさんにも時折贈り物をくれる。もちろん値の張るものではなく、花や菓子など、あくまで義弟の域を越えるものではない。贈り物に慣れている義弟と違い、シャプールがこのピンを買うだけでも大変だったのだろうな、と微笑むと、シャプールと目が合った。自分の贈ったピンが毎日名無しさんの髪に飾られているのが嬉しいのか恥ずかしいのか、シャプールは仕事に行く、とさっさと立って行ってしまった。置いて行かれ、ポカンとしたが、給仕についていた使用人と顔を見合わせて思わず噴き出した後、名無しさんはシャプールを見送るために急いで部屋を出ていった。


数日後、イスファーンより手紙が届いた。シャプールの留守に届いた手紙は名無しさんが開封することになっている。封を開け、手紙のほかにさらに封筒が入っているのに名無しさんは不思議に思い、その封筒を引っ張り出した。宛先はシャプール、筆跡はイスファーンで、裏を返すと、しっかりと蝋で封をし、その上からイスファーンの印まで押してある。

―――軍の機密?

だが、もしそうなら兄のシャプールではなく、宮廷や大将軍へ送るはずだ。ではこれは「私的」な密書?

名無しさんは不穏なものを感じはしたが、その封筒はそのままシャプールの書斎の机の上へ置いた。盗み読みなどする趣味はない。けれど、イスファーンの帰る日を知らせる手紙を読みながら、もう一通の封筒の存在は棘のように名無しさんの心に引っかかっていた。


その夜、帰ってきたシャプールにイスファーンの戻る日を告げ、さらにシャプール宛の手紙も届いたことを告げると、シャプールは当然のように内容を尋ねた。軍事以外のことはすべて名無しさんが任されているからだ。

「封がしてあったので、読んでおりませんので…」

マントを脱いで使用人に手渡していたシャプールが、振り返った。

「封が?」

少し考えて、書斎へ向かう。名無しさんは夕食の準備が済んだ部屋で待ったが、シャプールは戻ってこない。名無しさんは床に座り、手の付けられていない食事をじっと眺めた。

―――あの手紙。

イスファーンはシャプールに何を知らせてきたのだろう。名無しさんは無意識に髪に留めたピンを触る。荒く削られて光を反射する石の角を指で押す。鈍い痛みを感じながら、じっと座っていると使用人が部屋に入って告げる。

「シャプール様がお呼びです」

名無しさんはしばらく座ったまま唇をかむ。そしてゆっくり立ち上がると、絨毯のひかれた廊下を一人で歩いた。廊下の窓から見える空はすでに暗く、星がきらめいている。壁につけられた燭台の灯りで名無しさんの顔がガラス窓に映る。

不安げな顔をしている。自分を呼びつけるとは、何があったのだろう。自分には何も覚えがないが、かといって自分とかかわりのある者などそれほど多くもない。では、イスファーンに何か起こったのだろうか。

考え考え、シャプールの書斎の前へ来た。躊躇した後、扉をノックする。


「入れ」


シャプールの声がいつもと違うように聞こえるのは気のせいだろうか。扉を開けると、椅子に座ったシャプールがいた。

シャプールの書斎は小さいが過ごしやすいよう手が掛けてあった。窓は大きく陽がよく入り、向かいの壁一面に書棚が作りつけられ、大量の本が納めてあった。空いた壁には飾り棚が置かれ、舶来品のガラスの椀や黄金の剣などが飾られている。ランプの灯りの中、椅子に腰かけたシャプールは足を組み、いつもの癖で右手のこぶしを口元にあてている。その表情は影になってうかがえない。

名無しさんが机によると、隣に来るようシャプールが目で示す。名無しさんは胸に錘が沈み込んでくるようで、苦しげにキュッと眉を寄せた。

「イスファーンから手紙が来た」

シャプールはゆっくり顔をあげ、名無しさんの目を見る。名無しさんは黙ってうなずいた。

「客人を連れてくる。お前にも関係あることなので、伝えておく」

私に関係のある、客人。

「イスファーンが任務先で偶然出会った」

名無しさんの頭の中に、何人かの顔が浮かんだ。

ファルズィーン卿?受け取った金貨を使い果たして無心に来るのだろうか。それとも、母?ファルズィーン卿に売られて以来、連絡も取っていない。母に何かあった?それともシャプール様のいとこのカザール様だろうか。また会おうと言っていた…



じっとシャプールを見下ろして立つ名無しさんの手を、シャプールが握った。びくりと名無しさんの体が震える。


―――嫌。


今までこんなことをシャプールがしたことはない。こんな表情を見たことはない。何かすごく嫌なことを言おうとしているんじゃないだろうか。


シャプールが握る手に力を込めた。




「連れてくるのは、ダルヤだ」



顔も知らない踊り子が、闇の膜となってゆっくり自分に張り付いてくるように感じられた。
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