「恋煩い」シリーズ シャプール編
□贈り物 Hedye U
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爽やかな風が木の葉を揺らし、人々の頬をなでる夕方。陽が遠くの山に落ち始め、茜色の空に筆でひと刷毛したような雲も、陽に染まって浮いている。
店が立ち並ぶ通りの一角、とある店から出てきたのはシャプールだった。手に包みを持ち、留めてあった馬に乗る。パルス人であれば、シャプールが勇敢な万騎長と知らぬ者はいない。自由民たちにとって、お高く留まって搾取するだけの貴族より、自分たちを守るために戦う武人のほうが人気があるのは当然で、そんな中でも万騎長は更に尊敬される。真面目で公正と評判のシャプールが道行く人々から感謝やあいさつされるのは当然であった。
「兄上、お帰りですか」
声に振り向くと、歳の離れた弟のイスファーンがいた。兄のシャプールに命を救われたイスファーンは、盲目的に兄を尊敬し、信頼している。今も嬉しそうに馬を寄せてきた。
「お前は今から『御出勤』か」
イスファーンが自分と違い社交家なのは知っている。これから行く先が友人宅なのか、色事なのかはあえて聞かぬことにした。イスファーンもシャプールの意をくんだのか、少し肩をすくめただけだった。
シャプールは万騎長として堂々たる風格があり、イスファーンは若いながら武人として立派ななりである。二人が馬を並べて進むさまを、道行く女たちが眺めた。
「何をお求めですか?」
シャプールの包みを指さして尋ねた。
「…誕生日の祝いだ」
ことさら無表情を装ってシャプールが応える。
「誕生日?ああ、義姉上の」
兄上と義姉上の関係も、いまだ不思議なところはあるが、最初に比べればかなり改善されたものだな、とイスファーンは心の中で頷いた。
「そうですか、で、何を差し上げるのです?」
そう尋ねたイスファーンは、尊敬する兄の言葉に言葉を失った。
「辞書だ。」
「は、はあぁ!?辞書!?」
道行く人々が驚いて立ち止まるほどの声をあげた。
「じ、辞書!?誕生日の贈り物に、辞書!?」
「なんだ」
シャプールの眉間のしわが深くなる。いつもならイスファーンはそこでやめるが、今回は止まらない。いや、義姉上のためにも止まってはならない、とイスファーンは己の使命を感じていた。
「義姉上は兄上が髪に着けておられるビーズを贈ってくださったのでしょう」
「そうだ」
「では同じように何か身に着ける物を差し上げるとか」
「あいつはあまり装飾品に興味がない」
それを知ってるだけでも偉いですよ、とイスファーンは褒めたかったが、今はそこではない。
「…なんで、辞書なんです?」
シャプールは自信をもって答えた。
「今、あいつが最も必要なものだ」
イスファーンは片手を顔に当てた。
「…兄上、『必要な物』と『欲しい物』は違います。特に誕生日の贈り物は」
「何が違う。必要なら欲しいだろう」
シャプールが義姉上に読み書きを教えているのは知っている。確かに辞書は必要だろうが、辞書なら屋敷の図書室にもあるではないか。
マイ辞書?馬鹿な。
「…装飾品が不要なら、花はどうです。そして観劇するとか」
「お前そんなことをしているのか」
「私のことはどうでもいいのです、兄上と義姉上の話です」
シャプールはむっとしたように前方を見つめている。言いすぎか、とイスファーンは思ったが、誕生日の贈り物に辞書を贈られる姉の気持ちを考えると、折れるわけにはいかなかった。
「兄上、では私はこちらに用がございますから。その…辞書もよいですが、今一度少しお考えになられては」
イスファーンは心残りながら、シャプールと別れた。兄上が何か別のものを考えつきますように、とパルスの神々に祈りながら。
シャプールは馬を屋敷へ向かわせながら、考え込んだ。
イスファーンは自分より社交家だ。イスファーンがそういうなら、辞書は間違った選択なのかもしれない。だが、シャプールは読書は好むが、劇や音楽は全く分からなかった。
悩み続けて屋敷へ着いてしまう。馬を馬丁に渡し、自分の部屋へ向かう。そのころには、シャプールの考えも変わっていた。
−−−−−そうだな。辞書はないか。イスファーンの言うとおり、劇でも見せに行ってやるのが良いか。
そしてそう考えた途端、名無しさんに会ってしまう。
「お帰りなさいませ」
シャプールの様子を見て、いぶかし気に、それでも微笑んで挨拶する。名無しさんの視線がシャプールの持つ包みに落ちる。
「ああ、いや、…何でもない」
「何でもないのですか?」
「ああ、お前にではない」
「つまり、私にですね」
名無しさんがくすりと笑いながら言う。シャプールは観念したように目を閉じ、名無しさんに差し出した。
「つまらぬものだ。許せ。イスファーンにも怒られた。代わりに劇にでも連れて行ってやる」
シャプールが言い訳がましく言うのを聞き流して、名無しさんは包みを開いた。
革張りの表紙には、金のインクで精密な絵が描かれ、縁は金の板で覆ってあり、そこにも美しい彫刻が施されていた。表紙をめくり、名無しさんは目を見開く。
「辞書でございますね?」
シャプールは小さくため息をつきながら、ああ、と答えた。確かに十五歳の誕生日に辞書はなかろう。
名無しさんの手が止まった。裏表紙の内側を見つめている。
シャプールより、名無しさんへ
金の文字で書かれた、簡単な一文。だがその文は、簡単だからこそ、はっきりと二人の関係を表していた。
夫から、妻へ
名無しさんは思わず辞書を胸に押し当てた。
「ありがとうございます、シャプール様」
嬉しそうに微笑む名無しさんがシャプールを見上げる。
「…観劇などのほうが良いとイスファーンは言ったのだがな。俺はそう言ったことに詳しくない」
名無しさんは辞書を抱いたまま、頭を振った。
「いいえ。 いいえ、これがいいです。これが最高の頂き物です」
シャプールは名無しさんの嬉しそうな笑みにほっとし、イスファーンめ、見ろ、と心でつぶやく。
「早速、今夜勉強のときに使います。」
そういって足早に図書室へ向かう名無しさんの背を暫く見送り、シャプールは自分の部屋へ入っていった。