短編集

□ザンデの恋
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ザンデがその人を見たのは、ヒルメスを先頭に荒野を行軍していたときだった。前方にゆっくりと、輿を囲むように徒歩で進む一団を見つけたが、味方でなくても敵でなければ用はない。さっさと脇を駆け抜けようとしたとき、呼び止められた。

輿から降りてきた人物は、まさにたおやかと言う表現がふさわしかった。こんな荒れ地に少数の供だけを連れ、何用かといぶかしんだが、ヒルメスを探していると聞いてザンデは驚いたが、そのヒルメスが無関係を装ったことにも驚いた。どうやら子供時代に知り合ったマルヤムの内親王とのことだったが、そう聞いてこの女性の持つ高貴な雰囲気に納得がいった。しかし王族の女性にしては、気位の高そうなところはなく、むしろ慈愛に満ちた印象を受けるのは、この女性が盲目であることと関係あるのだろうか。

結局ヒルメスはイリーナと名乗る女性を置いて行ってしまったが、ザンデの脳裏にはイリーナ内親王の名前と共に、その姿は強く刻み込まれた。


二度目に出会ったのは、偶然ではなかった。ヒルメスに率いられ、ルシタニア軍にとらわれたイリーナを救出に行った時だ。城中を馬で駆けまわり、見つけ出した後さっさと城を出た。ルシタニア軍から見れば、陣風が吹き去ったようなものだったろう。

盲目のイリーナを乗せた馬の手綱はザンデが握った。先頭のヒルメスが剣で敵を薙ぎ払い、退路を作っていたからだ。城を抜け、再び荒野を行きながら、ザンデは何度もイリーナを確認した。盲目の身で疾走する馬に乗るのは恐ろしいだろう。事実見えぬ目をしっかり閉じ、きつく唇を閉じて馬にしがみついている。

ザンデは時折声をかけた。知らぬ男の声でも、励まされれば少しはましだろう。実際、何回目かに声をかけたときは返事があり、最後には弱弱しいながらも微笑みもした。

ヒルメスにこのまま城に戻らずエクバターナに攻め上ると言われたとき、さすがは亡き父が見込んだだけの方だと思い、そのヒルメスに自分も仕えられていることを誇りに思った。そのヒルメスの大事な女性だと思われるイリーナがヒルメスに会いたいと言った時、ヒルメスが忙しさを理由に断った時は驚いたし、己の心の中に小さな憤りを感じたことに狼狽した。その時、自分がヒルメス側ではなく、イリーナ側で考えていたことに気付いたからだ。

その後ヒルメスは首都を奪還することに成功した。だがまだやることは山ほどある。そもそもアンドラゴラス率いるパルス軍が迫っているのだ。外にも敵、街の飢えた民たちも敵と成りえ、ひと時も気が抜けなかった。

ザンデはヒルメスには伝えず、イリーナに女侍従を付けた。盲目のイリーナの身の回りの世話をする者が必要だ。まさか警護の兵たちにさせるわけにはいかない。寝る間もないヒルメスがそこに気付かぬのは仕方がないかもしれないが、いまだイリーナに会おうとしないことが腑に落ちなかった。

自然とザンデはイリーナを日に数回訪れ、不便なこと、必要なものはないか尋ねた。決まってイリーナの答えはいつヒルメスに会えるか、だった。ザンデの返事もまた決まったものだった。

お忙しいお方なので。

そのたびにイリーナは納得し頷く。寂しげな顔をして。そして次に会った時も、再び期待と不安の混ざった声で尋ねるのだ。ヒルメス様は、と。

一度、ついにイリーナは涙を流した。閉じた瞼から透明な涙が頬を伝い、声を出さず、肩も震わさず、ただ静かに泣いた。この女性は今まで何回こうして泣いて、多くのものを諦めてきたのだろう。柄にもなく慌て、一生懸命ヒルメスがいかに優れた勇将か、自分にとっていかに誇るべき主君かを力説した。イリーナは涙を流すのをやめ、ザンデの話に聞き入り、微笑んだ。そうして、ヒルメスの様子を伝えるのがザンデの日課になった。




ヒルメスがパルスの王として君臨した日々は短かった。想像しない形で終わってしまった。呆然とするヒルメスを鼓舞する言葉をザンデは持たず、ただ傍に控えるしかなかった。

夜が更けたころ、ヒルメスが動いた。てっきり反撃に出るのだと思ったが、ヒルメスはイリーナの待つ部屋へ向かった。




そこで二人が何を語ったのか、ヒルメスに何が起こったのかはわからない。ただ、しばらくして呼ばれたとき、ヒルメスは今までで見たことのない穏やかな表情をしていた。いや、穏やかと言うより、安堵といってもいい。それはまるで、迷子になり必死に母親を探していた子が、やっと母の胸に飛び込んだ時のような、そんな表情だった。

ヒルメスはイリーナと共に都を落ちると言った。どこか亡命先を探すと。

ザンデは供を願い出たが、ヒルメスは首を振った。


「俺はおぬしにも、おぬしの父にも満足する夢を見せてやることはもうできぬ。」


おぼつかない足取りで、イリーナが前に出た。床に片膝をつくザンデの方に手を伸ばす。




躊躇して、ザンデはイリーナの手を取った。



イリーナはザンデの右手を両手でくるんだ。



「ザンデ卿。」

今までで最も幸せそうな声。

「本当に、ありがとうございました。」




目の見えぬイリーナの手をヒルメスが取り、二人は部屋を出ていった。このまま馬に乗り、どこか二人で幸せになれる場所を探すのだろう。その馬の手綱をつかむのは、もう自分ではない。


ザンデは厩舎へ向かった。夜のことで見つかりにくくはあったが、特に姿を隠そうとも思わなかった。誰かに見つかれば、叩き斬ればいい。このイリーナへの想いと共に、叩っ斬って、粉々に切り刻んで、なかったことにしてしまえばいい。


だが、ザンデが城の城壁を出るまで、邪魔をする者はいなかった。新王により、城を出る者は止めぬよう命が出ていた。



ザンデは結局、想いを抱えたままエクバターナを去った。ヒルメスとイリーナとは対照的に、何のために進むのかもわからぬまま、ただ馬を走らせ続けた。

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