中編集

□風
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この街には風が吹かない。


自然にできた街ではない。時の権力者たちが吉事凶事天災奇跡あらゆることが起こるたびに遷都を重ね、たまたま今、ここにあるだけのことである。この首都は風水によって守られている―――らしい。東西南北に山やら河やら森やらがあり、特に宮殿のある「中」と呼ばれるこの地域は、ぐるりと周りを樹々が囲んでいる。その人工の樹の壁が、風を止めるのだ。

悪いモノが入ってくるのを防ぐという。だが、良いモノも入ってこない、と名無しさんは思うのだ。人が住む以上、邪気は生まれるのだから、出口のないこの「中」は、たまった邪気で満ち溢れているのだと思う。だが、気づかぬふりをすれば、そんなことはないことになる。実際、絹の国と呼ばれるこのセリカは、大いに栄えていた。

セリカの特産品である絹や陶磁器、香辛料などの売買で財政は潤っている。大陸航路を行き来する商人たちにとって、東の最果ての国であり、西側諸国から見れば、全く異なる文化を持つセリカはあこがれの地でもあった。

そのセリカの首都、西安の宮殿で名無しさんはぼんやり外を見ている。昨日も同じ窓から外を見ていた。今日も同じ窓から外を見ていて、恐らく明日も同じことをする。見える物はいつもと変わらぬ、青い空と飛ぶ鳥の姿と庭と宮殿を囲む壁の向こうに広がる家々と遠くに見える樹々の壁である。


何も変わらぬ。


変わらぬのになぜ外を見続けるのか、名無しさん自身にも分からない。いつかかわるとも思えないし、変われば変わったで怖ろしい気もする。ただもう本にも刺しゅうにも踊りにも興味がわかないので、とりあえず外を見ているのだ。


父王は心配した。


間もなく成人する王子は凡庸ではあるが、難なく育った。安心して後を任せられる。大陸航路は安泰、周辺国との関係も良好、国内も安定している。

心配事と言えば、毎日外ばかり眺めている王女の名無しさんだけだった。

何不自由なく育てたと、父王は自負している。当然である。セリカの王女が不自由な生活を送っていたら、国は破綻しているということだ。大勢の侍女たちに豪華な衣装に美味な食事。

馬が欲しいと言えば、五十名の騎兵からなる小隊を与えた。

劇が見たいと言えば、名無しさんの名を冠した劇場を立て、劇団を作った。


要するに、やりすぎた。父王はそれに気づいていない。

だから、名無しさんが欝々とした表情で窓辺に腰かけ外を見ていると、心配でたまらないのだ。

名無しさんは、そんな父王に感謝はするが、毎日に飽きてしまった。最近では、なるべく口を利かぬようにしている。下手に話せば、何かを欲しがってると勘違いされてしまうかもしれない。それに、もう十六歳になる名無しさんは、そろそろ縁談が持ち上がってもよいころだった。名無しさんが何か言えば、次の日には花婿候補が百人応接の間に並べられていても不思議はない。


だから黙る。父王は気をもむ。堂々巡りが続いている。


―――お父様は好きなんだけれど。


名無しさんは外を見ながらため息をついた。


ある日、名無しさんは失敗してしまった。いつも通り窓から外を見ていたら、父王がやってきた。侍従たちに山ほどのお菓子を持たせて。礼儀程度につまんでいると、父王が常々疑問に思っていたことを名無しさんに尋ねた。


「窓から何を眺めておる?」


名無しさんは父王の質問に戸惑った。自分でもわかっていない。再び窓から外を見て―――やはり、何も変わっていなかった。


「特に何も」

名無しさんは呟いた。

「ただ、いつもと同じ景色を見ているだけです。毎日何も変わりません。あそこに飾られた旗も風がないから、たなびくこともありません」

名無しさんは宮殿の屋根に掲げられたセリカの国旗を指さした。そして―――自分の失敗に気付いた。


「風か」

父王は黒くて豊かなひげを触り、何か思考している。

「お父様―――」

父王が手を叩いた。

「待っておれ。風を見せてやろう!」

そういって、侍従たちを連れて慌ただしく出ていった。


部屋には、ぽかんとした名無しさんだけが取り残された。



しかしそれから何もなかった。父王は何も言ってこなかったし、何も届けられなかったので、名無しさんはほっとし、やがて忘れた。


だが二月後。


父王がやってきて、嬉しそうに告げた。

「風の宮殿をお前のために建てたのだ。行ってみなさい」


―――風の、宮殿。


名無しさんは眉をひそめた。


大勢の侍従たちを連れて風の宮殿にやってきた名無しさんは、なるほどと思った。街のどの建物よりも高い、宮殿と言うよりは、塔だった。最上階まで昇ると、そより、と名無しさんの顔に風が当たった。


―――自然の、風。

でも、人工の塔に昇って感じるそれは、結局は造り物の風のように感じられ、名無しさんは少しがっかりした。


それでも代わり映えのない、風のない風景を宮殿で見続けるよりはましだろうと、名無しさんは毎日足を運んだ。塔の上部は開放的だが、地面に近い階は外から見られぬよう、親指一本やっと差し込めるくらいの穴を開けて編まれた竹の目隠しが張られている。その宮殿は「中」の本当に中心に建てられていたので、まわりは店や家がひしめき合う、活気あふれる通りに囲まれていたから、人々の行きかう姿を見るのも名無しさんには楽しいことだった。



ある日、外国から使者団が来ることとなった。もちろん名無しさんには関係のないことなのだが、列強一の国、パルスからの使者たちを見てみたくて、名無しさんはこっそりと少数の侍従を連れて、風の宮殿へやってきた。塔の半ばに設けられた露台に椅子を置き、目隠しの絹を張った衝立の陰に隠れて使者団を眺めた。


変わった服を着ている。セリカの男たちは皆長い髪を頭上で丸くまとめているのに、パルス人は思い思いの髪形をしている。騎馬民族だけあって、馬に乗った兵たちは皆立派な体格だった。


その時―――



目があった。薄い絹ごしに、確かに目が合った。あっと思った瞬間、名無しさんが生まれて初めて経験する強風が吹き、衝立を倒してしまった。

名無しさんの姿が丸見えになり、慌てて侍従たちが衝立を直す。棒立ちになった名無しさんを、その男はまだじっと見上げている。

男は肩までありそうな黒髪を後ろで結んでいるが、幾筋か結びきれなかった髪の束が、風に舞っていた。まるで、風を纏っているかのようだった。

男が視線をそらし、何かを追うように顔を巡らせた。その時初めて、名無しさんは自分の顔を覆っていたベールが飛ばされていたことに気が付いた。

黒馬に乗った男は一団から離れ、空中をひらひらと舞い落ちる名無しさんのベールをつかんだ。再び男が名無しさんを見上げる。


弾かれた様に、名無しさんは駆けだした。侍従たちの声が後ろで聞こえるが、気にせず階段を駆け下りた。一階まで降りて、竹の目隠しにしがみついた。

小さな隙間から覗くと、黒馬に乗った黒衣の騎士がこちらへ向かってくる。名無しさんのいる部屋は暗い。明るい外を黒衣の騎士はまっすぐ進んで―――


名無しさんの目の前で止まった。


「どうぞ」


男はパルス語でそういうと、ベールを差し出した。名無しさんが指でつかんでいる穴の一つに、ベールを近づける。名無しさんは男の琥珀色の瞳から目を離さず、ベールを指先でつまんだ。


一瞬、指先が触れ合った。ほんの一瞬、けれど、お互いの体温を知るには十分な時間。


名無しさんはゆっくりと、ベールを引っ張った。


しゅるん、とベールが穴から抜けきった時、男は少し表情を動かした。



「―――」


男が口を開き、何か言おうとした時、バタバタと侍従たちが追い付いてきた。名無しさんが振り返り、再び前を向いたときーーー



もう、男はいなかった。




宮殿に戻ると、父王が忙しそうに部下たちに指示を出していた。名無しさんの姿を認めると、パルスの使者団たちに見つからぬよう、部屋に入っているように言った。セリカの王からすれば、パルス人なども大した文化を持たぬ蛮族扱いである。


だが、名無しさんの様子がおかしいことに気付き、傍へ寄った。

「どうした、名無しさん。何かあったのか?」


名無しさんが父王を見上げた。そして、紅潮した顔をベールで隠して、はっきりと言った。その声に含まれる興奮は消しようもなかった。


「お父様、私―――、風を見ました」



訝し気に眉を寄せる父王を置いて、名無しさんは急ぎ足で己の部屋へ向かった。
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