「タハミーネ」 シリーズ
□タハミーネ 〜シャプール編〜
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過分な賃金を渡された男は土煙を巻き上げながら城下町を馬で駆けていく。
その様子を窓から見送った後、シャプールは使用人たちに指示を出し、戦支度を始めた。シャプールが城の守りでなく、前線で戦う決定を聞かされたイスファーンは一瞬絶句したが、すぐシャプールの武運を祈る言葉を口にした。
義母弟の疑念は分かる。城の守りについたサームは城の構造全てを知っていると言われているが、あくまで書類上のことである。一方シャプールは数年にわたり城の守りについていた。実際敵の攻撃にさらされた場合、サームよりもうまく働く自信がシャプールにはあった。
だがアンドラゴラス王の決定に異議を唱えることなどシャプールには考えもしないことだった。
―――あの男が一刻も早くギーヴに手紙を届けてくれればよいが。
手紙に書いた女性の名を想い、シャプールは思わず壁を拳で殴った。壁に掛けられた鏡が外れて落ち、床で粉々に砕け散った。物に当たる無様な自分にいら立ち、革靴の底で鏡の欠片を踏みつける。靴の下でジャリジャリと不愉快な音がした。
―――タハミーネ。
自分が短気なのは子供のころから知っている。だから問題を起こさぬよう、冷静で思慮深くあろうと常に努力してきた。
なのに、そうやって造り上げた自分が、あっけなく壊れた。
その美貌で男を誑かし、ついにバタフシャーン公国の公妃にまで上り詰めた妖婦ときいていたのに、実際はそんな女性ではなかった。権力や地位や金など興味がない人だった。自分自身の命にさえ、興味がないようだった。
それが、シャプールの言葉に笑った。口を押え、顔を赤らめ、十代の少女のように、本当に楽しげに笑った。そして、恐れることなく敵将を見上げていた。
―――妖婦ではない。運命に翻弄されながら、それでもまっすぐ立とうとしている女性だ―――
シャプールは壁に当てた拳に額を置き、大きく息をついた。
あの日以来、自分は自分で無くなったのだ。
ともすれば任務中にもタハミーネを思い出す。あの時アンドラゴラス王にタハミーネを引き渡さなければ。馬車に乗せず、共に逃亡していれば。オスロエス王が崩御された後、騒ぎに乗じて連れ去っていれば―――
自分は狂っていくのだと思った。
タハミーネにすればシャプールは故郷を滅ぼしたパルス軍の一人なのだ。あの露台で死なせずに、過酷な運命の続きをタハミーネに送らせている張本人なのだ。
それなのに、狂った自分があり得ないことを想像する。時折目が合うことに意味があるのではないか。あの時城の庭でタハミーネの指先が自分の手に触れたのには意味があったのではないか―――
出産に怯えるタハミーネは小さく震えていた。子供のころ、巣から落ちた小鳥を両手で包み込んだように、タハミーネを抱きしめたかった。
―――あり得もせぬことを。
シャプールは姿勢を正すと、外套に袖を通した。タハミーネのいる城は守れないが―――
シャプールの手が止まった。
―――アルスラーン王子。
シャプールは決意を込めて拳を握った。
―――タハミーネを守れぬなら、せめて戦場でアルスラーン王子をお守りしよう。
愛する女性の血を引いた、愛された王子。
あの時タハミーネの中にいた御子が、もう初陣を飾るお年になられた。
シャプールはそっと微笑んだ。
―――タハミーネ王妃の御子に祝福を。
シャプールはタハミーネへの想いを抱いて、アトロパテネを目指した。