「タハミーネ」 シリーズ
□タハミーネ 〜ギーヴ編〜
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ギーヴは弓が折れるのではないかというほど力強く引き絞った。かなりの距離があるが、この高さと風向きならできないこともないだろう。
―――味方の矢で死にたい、ね。
あんたを殺すことは仕事のうちじゃないけどな。まあ過剰に金をもらったことだし、多少の骨折りは良しとするか。
弓がきしみ、限界まで達した時―――
ギーヴの指が、矢を離した。
ギーヴは目の前に座るタハミーネ王妃を見上げた。
―――なるほど。噂通りかなりの美女だな。
金髪に蒼玉色の瞳、肌は雪のように白い。体つきも子を産んだことがあるようには見えず、この女をめぐってきな臭い噂が絶えぬのもやむなしと思えた。
「忠実なシャプールを苦しみから救ってくれた礼を言います」
タハミーネは眉一つ動かすことなく、さらりと言った。
忠実なシャプールを、苦しみから。
ギーヴは礼をしながら、見えぬように鼻で笑った。
―――あんたは、あの男がどれほど忠実だったか知らぬだろう。そしてあの男の苦しみなど想像もできまい。強国パルスの王妃という立場の者に、痛みなど想像することは出来まい―――
ギーヴは顔をあげ、タハミーネを真正面から見た。その視線は強く、一瞬タハミーネがいぶかしげに眉を寄せるほどだった。
ギーヴが手紙を受け取ったのは一週間前のことである。かつて旅の途中に賊に囲まれ、さすがに多勢に無勢でついに覚悟を決めたとき、パルス軍の一行が雪崩のように崖を駆け下りてきて命を救われた。その一軍の将がシャプールだった。
―――礼はいらんから、いざというとき手駒になってくれればよい。
気真面目そうな男はそういって、恩を着せることなく去っていった。ギーヴは基本的に一匹狼だが、シャプールのことは気に入った。以来時折手紙で近況や居場所を知らせていたが、実際に手駒としての指令が来たのは初めてだった。
手紙を読み、少し考えてからギーヴはにやりと笑った。ルシタニア軍が侵攻してきている。アトロパテネでもしもパルス軍が退くことになれば、エクバターナはかつてない危機に直面する。それを知っていてあえて俺にエクバターナへ行けというか―――
面白い。
ギーヴはエクバターナへ向けて馬を走らせ、王妃の侍女の一人に取り入って城へ入ることに成功した。伝え聞く戦局は芳しくなく、まもなくパルス軍の大敗、王の行方不明という結果になった。
―――あの男は、どうなった?
優雅に侍女の部屋で葡萄酒や果物を楽しみながら、ギーヴはシャプールのことを考えた。
シャプールがなぜあの手紙を送ってきたのか知らない。そこまで興味があるわけではない。だが恩はある。命じられた任務は果たすが、本人はどうなった―――
城が騒がしくなった。ギーヴは剣と弓を身に着け部屋を出る。駆け足でたどり着いた塔の窓から、ギーヴは捕らわれたシャプールを見た。
―――なんてことだよ。
さすがに一瞬躊躇した。
―――どうする。
だがその時シャプールが叫んだ。
―――味方の矢で死にたい。
ギーヴはひらりと窓から飛び出すと、身軽に屋根や外壁を伝って塔の頂に立った。最後にもう一度シャプールに目をやって、弓に矢を番えた。
ギーヴはタハミーネを見つめた。
―――これが、タハミーネ王妃。
忠実な人物と言いながら、その者の死に動揺する様子もない。おそらく蚊に刺されたほどの痛みも感じていないのだろう。
ギーヴは胸元に仕舞ったシャプールの手紙を上から押さえた。
―――タハミーネ王妃をお守りせよ。
忠義心からか、他に何かあったのか知らないが、それほどの価値のある女とはギーヴには思えなかった。
―――シャプールよ。俺は降りるぞ。あんたの最後の頼みだが、この女は虫が好かない―――
ギーヴは優雅な笑みを浮かべて頭を下げた。
「旅の楽士でございます」
ギーヴはウードを抱えて心の中でシャプールに語り掛けた。
―――あんたの手紙のことは伝えん。知ったところでこの女には大した意味もあるまいよ―――
ギーヴはもういない英雄を称えるため、カイ・ホスローの武勲詩抄を鎮魂歌として歌い始めた。