「タハミーネ」 シリーズ

□タハミーネ 〜サーム編〜
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「シャプール卿がよろしいかと存じます」


言ってからサームの唇は冷たくなった。常に正しく、真摯に生きてきたのに。体は冷えているのに額にうっすらと汗が浮かぶ。こめかみを流れ落ちようとする汗をそっとぬぐった。

目の前の玉座に座るアンドラゴラスの視線が己に刺さるようで、サームは拝跪の姿勢のまま、うつむいて顔を隠した。


―――己を恥じることなど、今までなかったのに。


人とは変わるものだ、とサームはどこか冷めた部分で思った。


「わかった」


アンドラゴラスの低い声が響き、サームは思わず顔をあげた。

「城の守りはおぬしとガルシャースフに任せよう。シャプールは予と共にアトロパテネへ行かせる」



―――決まった。俺は生まれて初めて、私利私欲のために動いた。己の欲のために友を売った―――

サームの胸に、嘔吐をもよおしそうなほどの自己嫌悪と同時に、暗い歓喜が巻き起こった。




サームは子供のころから王家への忠誠を誓っていた。自分の暮らすパルスが豊かなのは強き国王のおかげであり、その国王に忠誠を誓うのは当然のことと思った。正確に言うと、それを意識はしていなかった。あまりにも当たり前のことだから考える必要もなかったし、それが当然のように育てられもしたのだ。



だから、気づかなかった。



ルシタニア軍がアトロパテネに進軍したとの急報がもたらされたとき、サームは違和感を感じた。ルシタニアごとき蛮族はパルスの敵ではない。そのルシタニア軍が、パルス側に有利な平原に進軍した。武人としての勘がサームに囁いた。


―――この戦は、熾烈なものになるやも知れない。


だが恐れたわけではなかった。万騎長としての実力があると自負していたし、もとより死を恐れるものでもなかった。だが―――

「サームよ。戦で留守をする間、城の守りをおぬしかシャプールに任せる。どちらが予と共にアトロパテネへ来るか」

その時に気付いたのだ。




己がタハミーネを想っていることに。



アンドラゴラスが「戦利品」としてタハミーネを連れて戻った時、美しいとは思った。タハミーネの美貌を思えば、誰もがそう反応するだろう。その後オスロエス王の死、それにまつわる噂、アンドラゴラスとタハミーネの婚姻と続き、タハミーネの悪評が宮廷にあふれた。真実はサームには分からなかったが、サームにとって王を批判するなどあり得ないから、ただそのまま事実のみを受け入れ、タハミーネを王妃として扱った。



だが、アンドラゴラスがサームとシャプールのどちらが適任かと尋ねたとき、霧が晴れるように理解したのだ。己がタハミーネを見ていたことを。

タハミーネが時折見せる悲しげな表情。タハミーネが露台で一人、滅んだ故郷の方角を眺めていたこと。妊娠に怯え泣いていたこと。子供が生まれてから一層無表情を装ったこと。そして―――

タハミーネの瞳が、常にシャプールを探していたこと。



王なら良い。王に対して反抗する気持ちをサームは持たない。だが、タハミーネが己の意思で、自分ではなく他の男、シャプールを望むのは―――



「おぬしか、シャプールか」


―――今回の戦は、多くの死者を出すかも知れない―――



「シャプール卿がよろしいかと存じます」






サームはルシタニア軍の捕虜となったシャプールを見つめた。シャプールはみっともなく命乞いなどしなかっただろう。シャプールはタハミーネの想いを知っていただろうか。タハミーネは今、シャプールの姿を見ているだろうか。シャプールの運命はサームが望み、恐れたようになった。


シャプールが叫んだ。


―――そうだな。おぬしはいつも清廉で、正しく、強い。俺とおぬしとはこうも隔たってしまった―――

兵たちがシャプールを射ようと試みるが、矢は届かない。兵たちの必死さから、シャプールが慕われた武将だったとわかる。タハミーネが想いを寄せたのも、無理はないとサームは思った。


城の屋根にしなやかな猫のような男が立った。弓に番えた矢は、シャプールを狙っている。



―――シャプールよ。あの世ですべてを知ったら、俺を連れに来い―――


矢が放たれた。兵たちの感嘆と、悲痛な嘆き。





―――俺は、堕ちた。



兵たちのざわめきの中、サームは己の友の姿をただじっと眺めつづけた。

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