「タハミーネ」 シリーズ

□タハミーネ 〜祝福〜
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タハミーネは目の前に立つ王子を見下ろした。
緊張で赤い顔をして、剣の稽古のことを一生懸命話している。タハミーネに、母に褒められたくて。


―――愚かで憐れな、優しい子。


「頑張りなさい」

王子を遮るように声を掛け、タハミーネは歩き出した。しばらくして振り返ると、王子はうなだれながら侍女に手を引かれて去っていく。

憐れだと思う。優しくしてやれたら、とも思う。だがそれはタハミーネには無理だった。


―――シャプールに祝福された子ではない。


そう思う度、下腹に痛みが走り、そっと手でなでる。痛みに怯えた日々がよみがえった。






アンドラゴラスは本気でタハミーネを愛した。タハミーネの意思など気にも留めなかったのだから、「物」としてではあるが、タハミーネを愛し、大切にした。


タハミーネはシャプールを想いながら、アンドラゴラスに抱かれた。



ある日、それまで城の守りについていたシャプールが配置替えとなり、遠く離れた街へ行った。滅多に姿を見ることもできなかったのに、全く会えなくなる。だがタハミーネは少しほっとした。アンドラゴラスの妻としての自分を見られるのが、たまらなく嫌だった。

美しく豪華な物に囲まれた、空虚な生活。無駄な時間だけが流れ、シャプールを想う時間のみが増えていった。



だが、そんな生活に変化が起きた。恐ろしく、おぞましい変化だった。



―――子が。




医師の言葉に、意識が奈落の底に落ちていきそうで、タハミーネは己の腕に爪を立てた。


―――おぞましい。


アンドラゴラスの子など。



つわりが酷く、タハミーネは寝台に横になることが増えた。それも腹の子の仕業と思うと恐ろしかった。間もなく腹の中からタハミーネを叩き始めた。



―――もうすぐ出るぞ。お前に会いに行くぞ―――

タハミーネは毎晩うなされ、泣いて、弱っていった。



それでもアンドラゴラスは寝所へ来る。大きくなる腹をタハミーネは憎み、時には拳で叩いたが、抗議するように腹が締め付けられ、痛みと苦しさにタハミーネは声をあげて泣いた。


食べ物を受け付けなくなったタハミーネは痩せていくのに、腹の子は大きくなった。


―――いらない。いらない。誰か助けて―――

臨月を迎え、タハミーネは痩せた体で大きな腹を抱え、庭に置かれた長椅子に横たわっていた。しきりに腹の中から叩いてくる。


―――もうすぐだ。もうすぐお前を切り裂いてやる―――

タハミーネにとって、腹の子は悪魔でしかなかった。





「失礼しました」




気のせいだと思った。ついに気が狂ったのだと思った。だが体を起こして振り返ると、シャプールが立っていた。

「誰もおらぬと思い、つい入ってしまいました。ご無礼をお許しください」

一礼して去ろうとするシャプールに思わず縋るように声をかけた。

「戻られたのですか」

シャプールは振り返り、再びタハミーネに向かって背を伸ばして向き合った。シャプールは変わらなかった。意志の強そうな目に、真面目さを物語る固く閉じられた唇。そして、宮廷の人々と違い、しっかりとタハミーネを見る視線。

「本日はアンドラゴラス王にご報告のため参りました。王妃様は―――」

シャプールの目にも、タハミーネのやつれようは明らかだったろう。

「つつがなく―――」



そのあとは続かなかった。




―――シャプール。シャプール、シャプール、シャプール。



助けて。お腹の中に悪魔がいる。アンドラゴラスの子など産みたくない―――


あざ笑うように腹の中が叩かれた。タハミーネは痛みに顔をゆがめ、手に腹を置いた。

涙があふれて頬を伝い、膝に落ちる。両手で顔を覆い、嗚咽する。



ひとしきり泣いた後、どうぞ、と声がかかった。いつの間にかシャプールはタハミーネの前に跪き、ハンカチを差し出した。

「初めてのご出産ですから、お心細いと存じます」

涙の意味を知っていたか、とも思う。まさかタハミーネが自分を想っているとは想像もしなかったろうが、タハミーネが望んでアンドラゴラスの妻となり、身ごもったわけではないことは知っていただろう。だが臣下としてそのようなことを言えるはずもなく、あくまでタハミーネは出産に対して不安を覚えているということにしたのだと、タハミーネは思う。

「私の母は常々申しておりました。私は全くの孝行息子で、分娩にかかった時間は馬で1ファルサング駆けるよりも短かったと」

タハミーネはハンカチを握りながら、くすりと笑った。

「ですが、どうやら血筋のようです。父も、祖父もそのように生まれたと聞いております。せっかちなのだと母は言いますが」

そういうと、シャプールは後ろ髪を束ねている石のビーズを取り、掌に載せてタハミーネに見せた。意味が分からず、タハミーネはシャプールを見つめる。

「下々の者たちの言い伝えでございますが、安産で生まれた者からもらった物を妊婦が身に着けると、その者も安産になると言われております。臣下の身で王妃様に物を差し上げるのは失礼でございますが、気休めにでもなれば」


タハミーネはビーズを見つめた。トルコ石を削り、精巧な模様の彫られたビーズは高価なものではないだろうが、シャプールが身に着けていたものだ。想い続けたシャプールのものだ。

タハミーネは指でそっとビーズをつまんだ。指先がシャプールの手に触れる。その温かさが、一気にタハミーネの体を駆け巡った。久方ぶりに体が熱いと感じた。


シャプールは立ち上がり、一礼した。



「王妃様のお子に、祝福を」



祝福を―――。歩み去るシャプールの背を見送りながら、タハミーネは腹をそっとなでた。今までが嘘のように、腹の子はおとなしくなっていた。


―――祝われた子。


男だろうか。女だろうか。今まで一度として考えたこともなかったことが頭に浮かんだ。男ならば、シャプールのような勇猛な騎士になるだろうか。女ならば―――いつか、私の秘めた心を分かち合えるだろうか。どちらにしても、私の唯一の味方になるのだ―――


タハミーネは慈しむように腹をなでた。


―――シャプールに、祝福された子。





タハミーネはアルスラーンの背を見つめた。シャプールに似ているわけもないが、アンドラゴラスに似てもいない。―――当たり前だ。



―――シャプールに祝福された子ではないのだから―――


タハミーネは再び腹を手で押さえた。シャプールに祝福され、抱くことのできなかった娘を想いながら、もう感じるはずのない痛みを感じていた。

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