「タハミーネ」 シリーズ

□タハミーネ
1ページ/1ページ

タハミーネは待っていた。ただ待ち続けていた。何を、誰を待っていたのかわからない。自分を自由にしてくれる死か、自分をさらって逃げてくれる者か、わからないまま待っていた。



バダフシャーン公国の宰相と婚約したのはタハミーネの意思ではなかった。宰相に是非にと懇願され、両親が受けた。確かに中程度の家庭で生まれたタハミーネにとっては、一国の宰相に嫁ぐなど、全ての女たちが望む夢物語のようであったろう。だがタハミーネは好きで嫁ぐわけではない。何らときめきなどなかったが、話してみると宰相は優しい男だった。タハミーネと結婚できることを心から喜び、いつもタハミーネを気にかけていた。宰相だけに、賢く、知識も話題も豊富だった。

タハミーネも宰相を尊敬し、これでいいのだと思った。


だが、結婚を間近に控えたころ、バダフシャーンの公王がタハミーネを譲るよう宰相に迫った。もちろん断るだろうと思ったが、宰相は受け入れた。呆気にとられたタハミーネをさらに驚かせたことに、宰相は自殺したのだ。

タハミーネを残して。

悲しみはなかった。ただ怒りが残った。自分だけ悲観して死んで、そして私はどうなるのだ。

優しいと思った男は、単に弱かっただけだった。



公王もタハミーネに優しかった。後ろめたさからか、タハミーネのためには何でも手に入れた。宝石や絹や美味な食事。タハミーネが何も欲しくないことなどわからず、とにかく手に入るものをすべて手に入れ、与えた。

毎日気持ちが倦んでいく。タハミーネは微笑むこともなかった。

ある日、パルス軍が攻めてきた。タハミーネにとってはどうでもいいことだった。戦わずとも、バダフシャーン公国が負けることは分かっている。大国パルスに、小さな公国が勝てるはずがない。公王は露台に立ち、タハミーネに背を向けた。いかに自分がタハミーネを愛しているか、愛しているからこそ連れてはいけない、とくどくど繰り返す夫の背を押してやってもよかったのだが、そんな労力を割きたい相手でもなかった。

公王はタハミーネの名を呼んで、飛び降りた。タハミーネは形の良い眉一つ動かさず、露台に出た。風が吹いて、頭からかぶったベールを揺らす。下から殺される兵士たちの声が聞こえる。手すりに手をかけ、下を見下ろす。小さく見えるのがかつての夫だろう。

またしても、タハミーネを置いて行った。結局、夫は優しいのではなく、卑怯なだけだった。


タハミーネはぼんやりと落ちているものを見つめ続けた。下でパルスの兵たちがこちらを見上げ、口々に叫んでいる。さて、どうしようか。だが自分で何かしようとする気もない。勝手にすればいい。

軍靴や甲冑の音が聞こえてくる。私を殺すだろうか?殺してくれるのだろうか?

大きな音を立て、扉が破られた。タハミーネは振り返りもしなかった。ただじっと下を見下ろしている。

誰かが駆け寄ってくる音。

「馬鹿者!」

いきなり腕をつかまれて、引っ張られ、床に転がった。タハミーネの腕をつかむ力強い手は、痛いほどにたくましかった。

「死んでどうする!生きておれば、きっといいこともあろう。先を急ぐな。パルス軍は手荒なことはせん!」

タハミーネは、ぽかんと男を見つめた。気真面目そうな男は、タハミーネが後を追って飛び降りると思ったのだろう、真剣に怒っている。

愛してもいなかった夫の後を追うつもりなどさらさらなかったし、男の真剣さも可笑しいし、タハミーネは何だか色々と馬鹿馬鹿しくなって、笑い出した。

笑えば笑うほど次の笑いが襲ってくる。目の端に涙まで浮かんだ。顔を真っ赤にして、口を押えて笑い続けるタハミーネに男は気を悪くしたのか、ムッとした表情で、眉間に深い皺を刻んだ。

「何だ。何がそんなにおかしい」

タハミーネは必死に笑いをこらえると、男を見直した。この男がパルスの王弟、アンドラゴラスだろうか。それとも、将軍の一人?

大勢の人間が向かってくる足音がする。破られた扉に、長身の男が現れた。

「その女が、公妃タハミーネか」

声に、気真面目そうな男が膝をつく。タハミーネは、今現れた長身の男がアンドラゴラスだと知った。では、この男は誰だろう。

アンドラゴラスはタハミーネの前まで進んだ。床に座ったままのタハミーネは、アンドラゴラスを見上げる。怖いものなど無いのだから、タハミーネは臆さずアンドラゴラスの目を見返す。

「…よくやった、シャプール。この女は殺さず、エクバターナへ連れていく。」

タハミーネのそばでひざまづいていた男は、頭を下げた。


シャプール。


シャプールは立ち上がると、タハミーネの腕をつかみ、立たせた。今度は、痛くないよう、そっと。タハミーネの腕をつかんだまま、城の中を歩き、外へと連れ出す。その間タハミーネはシャプールに時折目をやったが、シャプールはまっすぐ前を見ていた。通りすがる兵士たちは皆タハミーネを見て驚き、視線で追いかける。だが、シャプールはまったくタハミーネを気にしていないようだった。

シャプールはタハミーネを馬車に乗せた。そのまま、窓からタハミーネが見える位置にとどまる。自分が自殺でもせぬよう見守っているのだ、とわかって、またタハミーネは笑ってしまった。シャプールがむっとする。その顔を見て、タハミーネがさらに笑う。勝手にしろ、と言ってシャプールがそっぽを向くが、自殺はしそうにない、と悟って、確かにほっとしているようであった。




タハミーネは、恋に落ちた。



エクバターナに連れていかれ、そのままアンドラゴラスの宮殿に送られた。妻にするという。もう慣れたもので、それ自体はどうでもよかったが、シャプールのことが頭から離れない。日が経つと、シャプールが千騎長の一人で、エクバターナで城の守りについていると知った。会えるかもしれない。だが、アンドラゴラスの妻としては会いたくない。

生まれて初めての想いを抱くタハミーネに、また知らせが来た。アンドラゴラスではなく、その兄、パルス国王オスロエスに嫁がされると。何が起こっているのか。ただ、タハミーネは乾いた笑いしか起こらなかった。



タハミーネは、パルス国の妃となった。



だが、アンドラゴラスは今までの男たちとは違った。オスロエスを殺したのだ。そして、タハミーネを自分のものにした。タハミーネの部屋に来て、連れ出した。それが当たり前のように。タハミーネが拒否することなどあり得ないかのように。


タハミーネが、愛する者などいない、ただの人形であるかのように。





タハミーネは露台に立った。ルシタニア訛りのパルス語が聞こえる。兵たちの怒りや嘆きの声。遥か遥か彼方に見えるのは、シャプールの姿だ。

傍に控える侍女に、兵たちにシャプールを射抜くよう伝えさせる。伝令が伝わり、弓箭兵たちが矢を射るが、届かない。



あれから、ほとんど話すことはなかった。会うことも少なかった。シャプールは、私の気持ちには気づかなかっただろう。私が幸せだとは思っていなかっただろうが、まさか自分がシャプールを想っているとは想像もしなかったろう。真面目で、まともな人だから。


シャプールの声が聞こえる。遠すぎて、タハミーネには何と言っているのかはわからない。初めて会った時も、ああして真剣にタハミーネにどなったのだ。


華奢ともいえる体系の、美しい男が塔に登った。弓に矢をつがい、力強く引き絞る。




早く。



早く、シャプールを楽にして。



早く、私の物思いを終わらせて。



光線のように弓から放たれた矢は、シャプールを解放した。




タハミーネは、ゆっくりと目を閉じた。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ