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□猫の足
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朝食の片づけを終えた後、ギーヴは井戸端で洗濯する女の横にしゃがみ込み、濡れた地面に木の枝で絵を描いた。

男を描いて自分を指し、家をたくさん描き、パンやチーズの絵を描いて、ここ、というように地面を指す。村へ行って買い物をしてくる、と伝えたかったのだがどうやら通じたらしく、女は微笑んで頷いた。

ギーヴは空を見上げた。村で「仕事」をするなら早めに出発しなければならない。まさか「足を怪我した」馬に乗っていくわけにはいくまいから、徒歩となると片道3時間はかかる。

足を怪我したのは自分にすればよかったな、などと思いながらブーツの紐を結んでいると、女が何かを持って家から出てきた。見れば、小さな陶器の入れ物に入った油絵具だ。そして硬貨をいくつか手渡そうとする。

「何だ?絵具?これを買ってきてほしいのか?」

よく見れば女の指や服に色々な色の点がついている。ギーヴが絵の具を指さして首をかしげると、女がついて来いというように手招きした。

女は台所横の扉を開け、ギーヴを手招く。ギーヴは部屋を覗き込み―――息を呑んだ。



色彩の洪水。


寝台や箪笥、何より四方の壁全てに絵が描いてある。花や動物、人物、中には神話を描いたと思われるものもあった。描かれていないのは手の届かない天井くらいだった。

ギーヴは呆けたように口を開け、部屋を眺めていた。田舎の質素な小屋の中に、こんな場所があると誰が想像しただろう。絵は細かく繊細で、優し気に心をなでられるようなものだった。

つん、と袖を引かれて我に返って振り向くと、絵の具の入った入れ物と

硬貨をギーヴに差し出している。


ギーヴは黙って受け取った。


想像したのだ。何の変化もなく、誰も訪れないこの小屋で、永遠の静寂の中、一心に絵筆を握る女の姿を。女が寂しいのか、満足しているのか、ギーヴに聞き出すすべはない。だが余った時間を御喋りでもなく、読書でもなく、ただ誰にも見られぬ絵を描き続けた女の存在がギーヴの胸にしみた。

「この―――色を買ってこればいいんだな」

明るい色彩で描かれた絵が逆に胸に迫り、ギーヴは目を伏せて部屋を出た。

女がギーヴを見送っているのは感じたが、振り返ればまだ真面目だったころの自分が陰から飛び出してきそうで、ギーヴは振り返ることができなかった。



数時間歩いた後到着した村で、ギーヴは上等の働きをした。金があり、望むべくは美しい女。田舎の村とて探せば満足のいく女は見つかるものだ。むしろ大都市の女と違い、金はあるが使い道のない、単調でつまらぬ村の女はことさら簡単だった。

ギーヴが空っぽの言葉を履いて、空っぽの女はその言葉で己を満たす。何か結果を望まないのであれば、それでお互い満足だろう。

ギーヴは労せずして、金や、銀の装飾品を贈られた。退屈した女たちに夢を見せた対価として。


ふと、空を見上げた。日はすでに傾き始めており、東側の空には白い三日月が浮かんでいる。後二時間もすれば灯がなくては歩けなくなるだろう。


このまま泊まってもいい。


このまま戻らなくてもいい。


金は手に入った。十分に。この村で馬を手に入れ、エクバターナを目指してもいい。大した荷物はもともと持っていないのだから。

だが、ギーヴの革袋の中で、絵の具の入れ物がかたりと鳴る。この碧色の絵の具なしで、女は明日も絵を描くのだろうか。


多彩な色が躍る部屋の中で、碧色の絵の具がないため立ち尽くす女を想像し、ギーヴは頭をガシガシと掻いた。



―――まったく、なんでこんなことを。

女たちから送られた宝飾品を入れた革袋には、小さな絵の具の入れ物も入っていて、時折かちりと鳴る。チーズや肉も買った上に夜の暗がりの中、小さなランプしかないギーヴは悪態をつき続けていた。だがつく相手は自分しかいないのだから、結局無言になり、黙々と歩く。


―――どうかしている。


腹は減ったし、足はもうクタクタだ。それでも―――遠くに女が掲げているのだろう、灯りが揺れるのを見て、ギーヴは微笑みを浮かべた。
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