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□猫の足
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雨戸の隙間から入る日の光は眩しいだけでなくやんわりと温かくて、かつて愛した女性に顔をなでられた記憶がよみがえり、ギーヴは目を開けた。
起き上がり、片膝を立てて背を壁に預け、大きくあくびをした。
―――つまらんことを思い出した。
うっすら明るい小さな部屋は、数えるほどの家具しかない。小さな机、いす、半分しか埋まっていない食器棚、後はこまごました籠や道具類。それだけ。
そっと立ち上がり毛布を畳むと、竈の横にある扉を見た。その向こうの部屋に、昨日の女が寝ている。起こさぬようにそっと外へ出て、井戸で水を使った。
―――さて。
ギーヴは振り返り、明るい朝の光で家を検分した。
家というより、立派な小屋。そんな感じの家屋だった。裏に回ると小さな畑に緑の植物がたくさん植えられていた。トマトときゅうり、あとは茄子。地面を這う蔓は南瓜だろうか。畑の端には大きな四角い木箱がいくつかおいてあり、ク、ク、と鶏独特の喉の奥で鳴く声が聞こえた。
女一人なら暮らしていけるのだろう。つまり、ギーヴのエクバターナ行きの路銀は手に入りそうにない。
ふむ、とギーヴは顎に手をやった。
―――ここを拠点に村まで遠征して稼ぐのもありか。
女にうまい具合に取り入って、しばらく滞在させてもらえばいい。
そこでギーヴはふっと笑った。昨夜のことを思い出したのだ。
ギーヴは自分を指さし、「ギーヴ」と言ってみた。女が自信なさげにうなずくので、ギーヴは台所の土間にフォークで ギーヴ と書いて見せた。が、女は申し訳なさそうに首を振る。
―――なんてこった。読み書きもダメか。
だが一人で生活できるくらいだ、理解力がないわけではなかろう。ギーヴは再び女を見た。黒い瞳には知性がある。それは暮らしぶりを見てもわかることだ。きちんと掃除整頓された部屋は、己で己の面倒を見られる自立した人間のものだった。
ギーヴは部屋を眺め、書籍の類が全くないことに気付いた。
ギーヴは自分の名を伝えることも、女の名を知ることも諦め、今度は地面に絵を描いた。
馬の絵を描き、その足を指でつつき、しかめ面をして首を振った。馬が足を痛めたので進めない、という嘘をついてみたが、女は果たして微笑んで頷いた。
―――通じた。そして騙せた。
よし、とギーヴは再び土に描き出した。
元気に走る馬を描き、自分とこの家を描く。馬が元気になるまでここにいさせて欲しい。そして胸から革袋を出して、少ない中から銀貨を一枚取り出して渡した。ここでケチって追い出されては新たにアジトを探さねばならない。ギーヴはさっさと「仕事」に取り掛かりたかった。
女は金を受け取ろうとせず、何度かの無言の押し問答の後、ギーヴが食料品を買うことで落ち着いた。そして、居間で寝させてもらったのだ。
暫くすると、部屋から女が出てきて、ギーヴを見て微笑んだ。少し照れているような、少し警戒しているような。
女は籠を持って外に出て、鶏たちの鳴き声が激しくなったと思うと、籠に卵をいくつか入れて戻ってきた。女が戸棚から出したパンをギーヴが切り、朝食の準備が始まった。
もくもくと食事をしながらギーヴは時折チラリと女を盗み見た。女はうつむきがちに食事をしている。その様子はギーヴの存在を気にしていないようにも見えたし、他人の存在を恐れているようにも見えた。時々女と目が合うと、女は困ったときにする曖昧な笑みを浮かべ、視線を落とす。
そうして、時折目を合わせては、お互い少し微笑み合う。
敵意はないですよ。居心地悪くはないですよ。
膨大な言葉を使って女たちの鎧を剥いでいったギーヴにとって、ただ微笑むだけで相手を穏やかにできるというのは驚きだった。
―――いや、そんな女性がいたな。
ギーヴは窓から明るい外を眺めた。緑がまぶしい。時々鶏が横切り、鳥の声がする。ギーヴはぼんやりと、何も考えず外を眺めつづけた。
同じころ、遠い町に男が一人到着した。フードを目深にかぶった男は、「結婚詐欺師」の情報を求める掲示板の前に、じっと佇んでいた。