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□黒豹と薔薇姫
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「妹の名無しさんは俺より大分と年下で、母親も違うし、何より女だからな。俺や兄ガーデーヴィの敵になりうるわけもないから、仲は良かった。俺に似て美形だったぞ」

本当ならギーヴが馬鹿にするのだろうが、黙って聞いている。ラジェンドラの様子から、無理をして深刻にならぬよう話しているのが分かるからだ。だがそこでファランギースが口を開いた。

「だった、とは?」

ラジェンドラは扇の取っ手を顎に当て、言葉を探すように言った。

「母親の不注意で顔に火傷を負った。母親は責任を感じて自殺し、父上は名無しさんの傷を恥じて部屋からあまり出ぬよう命じた」

もちろんそんな簡単な話ではなかっただろう。それぞれが抱えたあらゆる感情を除いて話をするのがラジェンドラにとっては一番楽なのだ。

「だが名無しさんはもともと明るい子でな。本人は傷のことは気にしていなかった。名無しさんが部屋を出る時は使用人たち総出で宮殿中の鏡を隠したのだが、名無しさんは陰で笑っておったわ。まあ鏡など見ずとも、触れれば己の顔がどんな状況かわかるというものよ。それでも名無しさんは明るかった。いつの間にか火傷痕の様子から『薔薇姫』などと呼ばれるようになったが、本人は気に入っておったわ」

月は高く上がり、開け放たれた窓から入る涼風が絹のカーテンを揺らす。たくさんのランプの中で揺れるろうそくの灯が光と影を幻想的に踊らせる。遠くから聞こえる人々の話声と音楽が、むしろこの場所が世俗から隔離された特別な場所であるかのように思わせた。

酒と雰囲気に酔ったのだろう、ラジェンドラは離し続けた。

「だが傷を気にせずおれたのも、子供のうちだけだった」




「誰です」

誰何する言葉はきつかったが、顔に浮かぶ好奇心は隠しようもなかった。突然のことにぼんやり立ち尽くすジャスワントを少女はじっと見つめていた。我に返りジャスワントは慌てて片膝をつく。

「申し訳ございません。部屋を間違えてしまいました」

俯くジャスワントの耳に、少女が歩み寄る音が聞こえ、冷や汗をかく。


―――ここで問題を起こして宮廷を追い出されれば、目的を達成することができなくなる―――


だが少女はジャスワントの前にしゃがみ込み、明るい声で矢継ぎ早に質問をしてきた。

「あなた、初めて見たわ。誰?兵士?使用人?いつからここにいるの?前はどこにいたの?」

ぽかんと見つめるジャスワントを、少女は大きな目で見返す。うきうきした表情は―――顔半分には表れない。


ジャスワントは視線をそらし、そして自分を恥じた。


「…ジャスワントと申します。近衛兵の一員として、宮廷に勤めております」
「お父様の兵士ね。前はどこにいたの?」

ジャスワントの脳裏に故郷が浮かんだ。広く豊かな土地は部族を裕福にした。だがその分税は重く課せられた。

我々だけでも自治区としてやっていけるのではないか―――

ジャスワントの父にそう思わせるほど、故郷は豊かだった。



だが、もうない。皆散り散りになった。


「…私の出身地は、もうなくなりました」

少女はそれをどう理解したのか、ふうん、とつぶやいた。



「何をしているのです!」

様子を見に来た侍女が声をあげた。ジャスワントは再び頭を下げる。

「部屋を間違えちゃったんですって」

侍女はジャスワントに去るよう言いつけると、自分のストールでさりげなく名無しさんの顔をジャスワントの視線から遮った。


その瞬間―――ジャスワントは、名無しさんが顔を歪めるのを見た。



怒り、悔しさ。



その感情は、ジャスワントが故郷を失ってから抱くものと同じだった。

振り返り、微笑んで手を振る名無しさんに頭を下げて部屋を出てから、ジャスワントは名無しさんの顔から目をそらしたことを後悔した。




「つまり、ジャスワントは謀反人の息子か。よく宮廷で近衛兵として務められたな」

ダリューンが困惑したようにつぶやく。ラジェンドラはふふんと鼻で笑い、手にした杯を乾杯するように持ち上げた。

「わが父は慈悲深いお方だったのだ…ではなく、考えてもみろ。部族を一つつぶしたのだ。奴隷になったものもいた。当然反乱を企てる者もいる。誰彼構わず頭にいだいて蜂起を繰り返させるより、一番の要となる部族長の息子を生かしておいて宮廷に置き、見張る。一種の人質のようなものだったな、ジャスワントは」
「シンドゥラにも…奴隷制度があるのですか」

アルスラーンはラジェンドラに尋ねた。だがナルサスが答える。

「パルスの奴隷制度とはずいぶん違うと聞いております」

ラジェンドラは嬉しそうに手を叩いた。

「さすがは名相と名高いナルサス卿よ。よく知っておるわ!」

所詮は同じ民族である。言語や文化が多少違っても、同じ神を信じ、共に生きていれば平民や奴隷の境界線は薄くなり、親しくなる。奴隷の多くは使用人と変わらぬ扱いを受け、そして平民と同じく暮らし始める。政府も取り立てて厳しく対応することもなかった。

「そんなわけで、ジャスワントは宮廷にいた。もともと剣は使えたようだが、更に腕をあげて、近衛兵に取り上げられたというわけだ」

そこで、ラジェンドラは再び口を閉じた。複雑な表情をしている。

「…それで、ジャスワントは妹君に出会った、と」

ギーヴの言葉にラジェンドラは頷く。

「劇のように、お決まりの話だ。後に二人は―――恋に落ちた。そして、名無しさんはストールをかぶり始めた。惚れた男に痕を見られぬようにな」
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