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□風
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パルスの使者団の出立準備は慌ただしく行われた。通常なら前夜に酒宴が設けられるものだが、急きょ砂嵐のため決定されたことなので、それもなかった。まるで追い立てられるような感じにパルス人たちは狐につままれたようだったが、セリカ王より丁寧な詫びと、道中の無事を祈る言葉を賜ったため、皆納得し、急ぎ荷物をまとめ始めた。ダリューンが宮殿に戻ったのは、その最中であった。

「おぬしも早く準備をしておけよ。明日の朝は早い」
「なぜ急に決まったのです?出立は三日後の予定では…」
「なんでも砂嵐が向かってきているらしい。パルスにはそんなもの起こらんが、セリカではよくあることなんだと。嵐を見張るための物見やぐらが各地に設置されていて、連絡が来たらしい」



―――本当だろうか。



ダリューンは完全には信じられずにいる。名無しさんと自分が会っていたことをセリカ王が知ったのではないか。


―――名無しさんは大丈夫だろうか。


ダリューンは丸いセリカ風の窓から名無しさんがいるであろう棟のほうを見やったが、もう夜のとばりに覆われてそこには何も見えなかった。



シンリャンの話を聞いた後、名無しさんは椅子に座り込み、動かなかった。シンリャンは言ってもしようのないことを言ってしまったと後悔しつつ、傍に控えていた。

「姫様、もう夜も遅うございますから、お眠りになったほうが…」
「シンリャン」

名無しさんの声が思いのほかしっかりしていて、シンリャンは名無しさんの顔を見た。

名無しさんは唇を固く結び、何も置かれていない机の上を凝視している。

「シンリャン、お父様がダリューン達を襲わせるとしたら、どのあたりだと思う?」

シンリャンは机を見た。何もないが、この姫君はそこに地図を視ているのかもしれない。

「砂嵐が来ておりますから、兵たちをあまり遠出させては嵐に巻き込まれますから…」
「では、このあたり」

名無しさんが細い指で机の一点を指さした。

「セリカ内でパルスの使者団が襲われたとなればパルスと事を構えることになります。セリカの国境を越えてからでは?」

シンリャンの言葉に名無しさんが首を振る。

「お父様は確かにダリューンが死んだとわかるよう、なるべく近くで襲わせたいと思う。それに、国境外で襲って失敗したら、もう後がないもの。兵たちを先回りさせるにも時間が足りない。きっと、首都を出てすぐだと思う」

シンリャンは眉をあげた。泣いてオロオロするかと思えば、意外と落ち着いている。凡庸な皇太子より、実はよほど大物かもしれない、とふと思った。

「それで、どうなさるのです?王にやめてくれと頼むわけではないのでしょう?」

シンリャンは王の姿を思い出した。大切な姫からパルスの騎士の命乞いなどされたら、悲しみで卒倒するかもしれない。

「仰るとおり、一度は逃げられても、国境を越えるまで数日はかかります。追手は必ずかかりますよ」

名無しさんはしばらく考えてつぶやいた。


「つまり、一度目の攻撃を失敗させて、追手を出せないようにすればいい」


名無しさんは立ち上がって、シンリャンに微笑んだ。

「お父様がどうしても怒れない相手って、誰かわかる?」

シンリャンは首をひねり、結局適当に答えた。

「王ご自身?」

名無しさんは笑って頷き、付け加えた。



「それと、私よ」



まだ日が昇らず、遠い砂漠のなだらかな砂丘がやっとぼんやり明るくなったころ、パルスの使者団が宮殿を後にした。パルス人たちが長旅の先に待っている故郷や家族を思い顔をほころばせる中、ダリューンは一人寡黙に馬を歩ませていた。

昨夜遅くに訪ねてきた例の女官。名無しさんからの伝言を伝え、すぐ去ってしまった。会いたいと言っても、取り付く島もなかった。

ダリューンはシャブラングの上から宮殿を振り返る。


―――風が吹かないと言っていた。


風水に従い、樹々に囲まれたこの都は、砂嵐に襲われることもないのだろう。まだ明けきらぬ夜の空にそびえる宮殿は、伏して周りを窺う巨大な龍のように見えた。



パルスの使者団が出発して間もなく、セリカの王が露台に立った。昨日の雨が嘘のように、空には雲がない。今日は晴れるのだろう。王は満足げに頷いた。

すぐに兵たちがパルスの使者団を追いかける。そして、姫に手を出した愚か者の騎士を殺すのだ。使者団丸ごと砂に埋めてしまえばいい。旅人が道に迷い、二度と故郷に戻らぬことなどよくあることだ。


立派なあごひげを触りながらパルスの使者団が進んでいるだろう方向を眺めていると、足音もうるさく書記官が飛び込んできた。

「何事だ」
「お、王、風の塔が…」


王は急いで宮殿の反対側にある部屋へ行き、露台に出た。目を凝らさずとも―――



火柱が見えた。



風の塔が燃えている。



昨日の雨にもかかわらず、空に伸びる塔の中ほどから上が赤い焔に覆われている。焔は幾体もの龍となり、塔を駆け上り、絡みつく。


「なんだ、何故―――。とにかく、消火を」
「姫様が!」

王は弾かれた様に書記官を振り返った。跪き、袖に通した両腕を頭上に掲げ、書記官が呻くように伝える。

「姫様が、塔にいらっしゃいます。おそらく姫様が火をお着けに―――。鍵をおかけになったので、入れぬのです。姫様のいらっしゃる階より上が燃えております!」

王はあっけにとられ、再び塔を振り返った。遠くてよく見えないが、あそこに、あの燃える塔の中に名無しさんがいるというのか。



「…火を消せ」
「はっ」


王は豪華な靴を履いた足で露台を踏みしだいた。

「軍も使え!民も皆使え!とにかく、姫を無事に塔から出すのだ!」


書記官が慌ただしく駆け去った後、王は今や炎の塔となった建築物を眺めた。


―――パルスの騎士のためにか。


王は苦虫をかみしめたような顔をした。まったく、親を脅すとはいい度胸だ。


王は部屋を出ると、使者団を追っている兵たちを呼び戻すよう役人に伝えた。




「もうよろしいでしょう」

ダリューンの声に、使者団は馬を止めた。「中」を出てすぐ、使者団は馬を飛ばし、追手から距離を稼いでいたのだ。


―――焔が見えるまで、走り抜けて。


シンリャンが昨夜届けに来た名無しさんの伝言だった。追手をなんとか止めるから、とのことだったが、まさか塔に火をつけるとは。


ダリューンはなんだか可笑しくなって、笑い声をあげた。そして、使者団たちを促し、再び帰路を進み始めた。


―――いつか、また必ず。


シンリャンは、伝言を伝えてくれただろうか。





名無しさんは木が爆ぜる音を頭上に聞きながら、露台に立っていた。塔の下には人々が集まり、扉を叩き壊している。大型の龍吐水が集められている。

名無しさんは砂漠の方向を見つめた。焔は見えているだろうか。


ふと、顔をあげる。風が顔をなでたのだ。


焔が、風を起こしていた。


焔の龍が塔を這い上りながら、風を起こしている。この風の吹かぬ街に、思いがけず自分で風を起こしていた。風にあおられ、龍は更に大きくなる。


名無しさんは長い袖を大きく振った。見えるわけはない。こちらを見ているかもわからない。でも、


―――いつか、また必ず。



今や音を立てて吹く風の中、名無しさんはずっと袖を振り続けた。
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