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□風
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名無しさんは風呂上がりで火照った体に扇子で風を送った。一日中降った雨のせいで湿気が酷く、すぐに絹の服が体にへばりつく気がする。

鏡の前で念入りに髪を拭きながら、名無しさんはパルスの黒衣の騎士のことを思いだした。

シンリャンだけでなく、入り口を守る宦官までが席を外したことに気付き、名無しさんは慌てて部屋を飛び出した。出入りの商人が使用する粗末な扉から塀を抜け、雨の中必死に駆けた。雨で人々は家に籠っていたおかげで見とがめられることもなく、風の塔に来てみれば―――




ダリューンがいた。



彼も濡れていた。荒く息をつく名無しさんを見て、驚いて目を見開いて、そして。


名無しさんは髪の束を指で触りながら、ふふ、とくすぐったそうに笑った。



ダリューンは怒ったのだ。



「何をしているんです、こんな雨の中…!」

ダリューンは慌てて名無しさんが頭からかぶっていた絹のスカーフを取ると、名無しさんの濡れた顔を拭いた。

「風邪をひきます。早く乾かしたほうがいい」



来てくれた。待っていてくれた。



名無しさんが口を開くより早く、ダリューンが言った。


「姫ともあろう方が、このようにお一人で外出なされては」


ダリューンは手にしたスカーフを見ているので、視線が合わない。それでも名無しさんはダリューンの琥珀色の瞳を探して尋ねた。


「…いつ気づいたの?」

ダリューンは手を止め、スカーフを畳み、そのまま下を向いていた。

「今朝がた、あなたに会おうと探したのです。シンリャンを呼んでもらったら、全くの別人でした。ですが確か彼女は酒宴の席であなたにピッタリくっついていた気がして。それで、確信は持てませんでしたが…」


異国人で、騎士で、王女で。


お互いが言葉を失い、どうしようかと悩む中。



くしゅん。


名無しさんがくしゃみをした。それを合図に、何となく二人で笑ってしまったのだった。








「姫様。お早く床にお入りください。雨の中走り回るなんて狂気の沙汰です」

シンリャンが名無しさんを追い立てるようにして鏡の前から移動させる。


シンリャンは名無しさんと目を合わさない。


「シンリャン、ごめんなさいね。ダリューンが来てびっくりしたでしょう?」
「名前は存じ上げません。そうですね、異国の、それもあんないかつい大男に呼び出されればびっくりしますね」

シンリャンは忙しそうに名無しさんの身の回りの世話をしている。大理石で作られた香油瓶から油を取って名無しさんの髪につけると、櫛でとき始めた。


黒くて豊かで長い髪。この姫にお仕えしてから毎日の日課だった。


王に命令されて風の塔まで姫を迎えに行ったとき、さて、どうしようと扉の前で逡巡したのだ。



―――事の最中だったらどうする。



悩んだ末、最大限の努力で大きな音を立てながら鍵を開けた。

「姫様。いらっしゃいますか?シンリャンです!お迎えに参りました!」

意外なことにすぐ返事があり、軽やかな足音と共にすぐに名無しさんが下りてきた。

「シンリャン?どうしてここがわかったの?」

宦官が後をつけたんですよ、とは言えず、勘です、とだけ答えた。シンリャンは素早く名無しさんを観察した。


髪。乱れていない。服。乱れていない。全身濡れてはいるが。


「姫様早く戻りましょう。王に知られたら大変なことになりますよ」

名無しさんは以外にも素直に頷き、階段の上に声を掛けた。

「ダリューン、迎えが来たの。もういかないと」

シンリャンは慌てて名無しさんの袖を引っ張った。

「呼ばないでくださいよ!早くいきましょう!」
「でも挨拶を」
「いいから!」

シンリャンは無理やり名無しさんを塔から引っ張り出すと、連れてきていた輿に押し込んだ。輿丁達をせかして出発する。輿の横を歩きながら、シンリャンが風の塔を振り返ると、塔の中ほどの階の露台にパルスの騎士が立っていた。


濡れるのも構わず見送るその姿に、シンリャンはなぜか俯いてしまった。






「…それで、姫様。パルスの騎士とは…」

シンリャンは聞きたいような、聞きたくないような気持で尋ねてみた。

「面白い話をいっぱいしてくれたわ。パルスからセリカまで旅していた間の話とか、私もいつかパルスまで行ってみたいわ」

にっこり笑いながら話す名無しさんに何となく違和感を感じ、シンリャンはさらに尋ねた。

「それはようございました。お話は面白かったとして、それで…」
「それで?」

名無しさんはいぶかし気にシンリャンを見る。シンリャンはぐっとつばを飲み込む。

「え、まさか…何もなかった?」
「何も?とは?」

シンリャンは頬に手を当てた。

「ですから、閨事とか」
「シンリャン!?」

真っ赤になった名無しさんを見て、シンリャンはうわあ、と思った。どっちが初心なのだ、姫か、まさかパルスの騎士か?だがそれでは―――


「まさか、本当に、パルスの騎士とやらなかったんですか?」
「シンリャン言葉使い!本当に、な、何も…」


袖で顔を隠す名無しさんを見て、シンリャンは唇をかんだ。


つまり、二人はそういう仲にはなっていない、と。パルスの騎士が姫様の身分に気付いて怖気づいたのか、本当の紳士なのかはわからない。姫様が初心なのか、まじめなのかわからない。

だが―――。



シンリャンは知っている。すぐに事を急くのではない、こういう恋愛こそ真剣で、人生で何度もあるわけではないことを。

無言になったシンリャンを不安げに見て、名無しさんが尋ねる。


「シンリャン、どうしたの、大丈夫?」

シンリャンは不安げな名無しさんを見て、心を決めた。


「姫様」


長い間仕えてきた姫だ。欲しいものが見つからず、ただ窓から外を眺めていた王女。



「パルスの騎士は、明日殺されます」
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