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□風
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宮廷の奥の棟には、曲がりくねった廊下を渡り、いくつもの中庭を通らなければならない。そうしてようやくたどり着く棟の中の、さらに曲がりくねった廊下を進むと、やっと王の執務室に到着する。

そこにはめったに人が来ることはないので、王はその部屋を自分の好みに飾っていた。つまり、どの部屋よりも豪華絢爛に、である。それほど大きくない部屋はセリカ独特の赤、青、緑で塗られ、翡翠や紅玉や金などで飾り立てられていた。


一段上がったところにある玉座に、セリカの王が座っている。繊細な絹のハンカチで、流れる涙を拭いている。その前―――一段下がった赤い絨毯の上には、二人の人物がそれぞれ正反対の感情をいだいて跪いていた。


シンリャンと、宦官である。


勝ち誇り、得意げに顔をあげている宦官に対し、シンリャンは両腕を袖に通して頭上に掲げ、うつむいている。その顔は青ざめていた。

セリカの王は、龍をかたどった指輪をはめた手でハンカチをつかみ、再び涙を拭いた。

「そうか。名無しさんがパルスの騎士と…」

宦官は恭しく頭を下げた。

「さようでございます、陛下」

シンリャンは袖で隠して、宦官を睨みつけた。馬鹿な男が。せっかく姫を見張っていたのに、使用人に呼ばれて戻ってみたら姫はいなかった。宦官にしてやられたと気づいたときには遅く、王の前にこうして呼び出された。大切な大切な姫が異国の騎士と逢引きしていると知った以上、王は自分を許さないだろう―――シンリャンは唇をかむ。

「女官」
「はいっ」

シンリャンは王に呼ばれ、さらに深く頭を下げた。

「お前は名無しさんが抜け出している事に気づかなかったのか」

頭上からかけられる声が静かなだけに怖ろしい。

どう答えようか考えあぐねていると、横から宦官が男としては高い声で答えた。

「陛下、おそれながら、シンリャンには気づくことは無理でしたでしょう。姫様はそれは周到にご準備されておられました。パルスの騎士の入れ知恵かもしれませぬ。わたくしめでも辛うじて気づくことができたくらいでございますれば」

いつもなら宦官ごときが王に直接これほど話すことなどあり得ない。だが宦官は自分の手柄を余すところなく王に理解してもらい、引き立ててもらわねばならなかった。

「…そうか、傍付きの女官でも無理だったか」

王は絹のハンカチで鼻をかんだ。その様子は憔悴しきっている。シンリャンの腕が震える。宦官は更に胸を張った。

「姫様はこの雨の中全速力で駆けられまして、わたくしめも見つからぬよう、見失わぬよう必死でございました。なんとか風の塔まで追いかけましたところ、なんとパルスの騎士めがおるではありませぬか!わたくしめも心臓が止まる思いでございました」


止まってしまえばよかったのに、とシンリャンは心の中で毒づいた。

「パルスの騎士は馴れ馴れしくも姫様の腕をつかみ、塔の中へいざなったのです!姫様が鍵を開ける間も、ぴったり寄り添っておりました!」

王がハンカチで顔を覆う。隙間から嗚咽が漏れた。シンリャンはそっとため息をついた。


―――王が十六歳の娘の恋愛のために泣いてどうする。


こんな王に殺されるのかと思うと情けなくなった。


「二人が塔に入って、なかなか出て来ぬものですから、これはすぐにも陛下にお知らせせねばならぬと、急いで駆け戻ってきたのでございます」


やっと宦官の「英雄譚」ともいえる話が終わり、シンリャンは拍手してやりたくなった。


―――ごくろうさま。これで私の人生は終わりだ。


グスグスと鼻を鳴らしていた王が、口を開いた。


「それで、お前はなぜ名無しさんを止めなんだ」


部屋の空気が、軋んだ音を立てて固まったようだった。



「名無しさんが部屋を出たとき、なぜお前は名無しさんを止めなんだ。塔でパルスの騎士に会うまでに、止める機会はいくらでもあったであろう」
「へ、陛下…」

宦官が青ざめる。ハンカチの隙間から宦官を見る王の目は、水面から目だけを出して獲物を狙う鰐に似ていた。

宦官が震えながら平伏する。シンリャンは腕の震えを止められなかった。


―――生き残れるかもしれない。


王の怒りは、シンリャンではなく、宦官に向けられていた。


「お前が止めておれば、名無しさんは安全だったものを。異国人に汚されずに済んだものを。お前の機転が利かぬせいで」

王はハンカチを床に落とすと、玉座のわきにある龍の細工も美しい銅鑼を叩いた。それほど大きくもない銅鑼の音は、それでも宦官を心底怯えさせるのに十分だった。銅鑼の音に呼ばれ、控えていた兵士たちが現れ宦官の腕をもって引っ張り上げる。


「陛下!」


シンリャンは目をつむり、必死に宦官の命乞いの悲鳴を聞かぬよう努めた。



部屋から引きずり出された宦官の悲鳴が聞こえなくなると、部屋には息苦しい沈黙が訪れた。


俯くシンリャンの耳に、ぎしりと玉座がきしむ音が聞こえた。宝石で飾られた王の靴がシンリャンの視線に入る。


「女官。名無しさんに恥をかかすわけにはいかぬ。パルスの騎士にも責任を取らせねばならん」


シンリャンは頭を下げる。はい、とも、いいえ、とも答えぬほうが良い。口は禍の元なのだから。


「この時期には珍しく、砂嵐が起こるそうだ。パルスの使者団が巻き込まれてはいかん。明日にでも使者団には出立していただこう」



シンリャンは御意、とだけ呟き頭を下げた。




道中殺されるパルスの騎士のことなど、知ったことか。
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