中編集
□風
4ページ/7ページ
シンリャンは爪を噛みながら、イライラと部屋を歩き回っていた。先ほどパルスの騎士がやってきて自分を呼んだが、人違いだったと謝り去っていった。だが、シンリャンはピンときたのだ。
―――あの夢見がちなぼんやり姫君め。
昨日一日部屋を抜け出したと思ったら。あのパルスの騎士と逢引きでもしていたんだろう。私の名前を使って。
カリ、と爪を噛み切ってしまい、ペッと吐き出した。
まずい。もしもこのことが王に知れたら、自分もただでは済まない。豚の餌になどなってたまるか。
シンリャンがうろうろと歩き回って悩んでいると―――
「シンリャン?」
隣の部屋から名無しさんが出てきた。
「今、誰か来てた?」
また自分のものだった女官服を着ているのを見て、シンリャンは眩暈がしてつまずいた。
「姫様…なぜまたその恰好を?」
「動きやすいもの。誰か来た?」
「働くための服ですからそりゃあ動きやすいです。ええ、下男が洗濯物を取りに」
目に見えて名無しさんがしゅんとする。
シンリャンはふーっと荒い鼻息をついた。
長く仕えてきた姫である。ぼんやり外を眺めていたのも、足りすぎて逆に足りぬからだともわかっている。望んだ物や者が難なく手に入る者にとって、手に入れた瞬間それは無くなったことと同じになる。実際この姫君は望むならなんでも手に入れられる。
だが、姫はずっと何も望まず生きてきた。
その姫が、久しぶりに望んだものが異国人とは―――
まあ力任せに手に入れようとしないだけましか、とシンリャンは今度は納得のため息をついた。
「さあ姫様。そんな衣装は脱いでくださいまし。この雨では今日は外出は無理でございますから」
名無しさんは振り返り、窓から見える外を眺めた。しとしとと音もなく、雨が降り続いている。
ダリューン―――
名無しさんは窓際へ寄り、じっと鼠色の空を眺めた。
昼食を追えても、雨は止まなかった。名無しさんは落ち着かぬ風で、窓の前を行ったり来たりしている。
―――来ているわけはない。
雨も降っているし、時間を決めたわけでもない。でも。名無しさんは窓ガラスに手を当てた。小雨になっている。空も少し明るくなってきたようだ。
行って、彼がいなければそれでいい。わからぬのが不安で、嫌なのだ。もしも、もしも彼が来ていたら。そして、自分が来ぬことに―――少しでも残念がってくれていたら。
だが今日はシンリャンがずっとそばにいる。女官の衣装から普段の服に着替えさせられ、いつものとおり、窓辺に座らされた。夢見がちなぼんやり姫君として。
名無しさんはこつんと額を窓にぶつけた。
宦官は時間を持て余し、机に小石を置いて遊んでいた。白い石と、黒い石。囲んで取って、仲間につけて、裏切って。
いつもはそれなりに熱中するが、今日は他ごとが頭に浮かぶ。
パルスの騎士。姫付きの女官。動揺した二人。
そういえば昨日は、ぼんやり姫は見なかった。もともと部屋から出歩く姫君ではないが、置物ではないのだ、人間一日中窓辺にいられるわけもない。
宦官は机の中心に置いた小石の中から、一つを指でさーっと上へ移動させた。
烏合の衆から、抜け出せるだろうか。
ダリューンは厩舎でシャプールの体にブラシをかけながら、ぼんやりと考えていた。
つまり、偽名だったわけだ。
シンリャンを呼んで、やって来たのは似ても似つかぬ女性だった。自分を見て、不可解そうな顔をし、そしてハッとして見る見る青ざめた。だが青ざめていたのはこちらも同じだっただろう。お互いしどろもどろで、何と言ったのかは覚えていない。
あの棟は他よりひときわ豪華だったし、扉には宦官が守衛のようについていた。シンリャンがあの棟の女官なら、そのシンリャンの名前を騙った彼女は―――
ありえるだろうか。ダリューンは愛馬にブラシをかける手が止まっていることに気付かず、立ち尽くしていた。
ダリューンは風の棟のひさしの下に立ち、空を眺めた。結びきれない前髪の幾筋かから、雫が垂れた。人々は雨を避け、家にこもっているのか、いつもの賑やかな雰囲気は消え、まばらに通る人は傘を差し、うつむいて足早に消える。店もほとんどしまっており、風の塔で雨宿りする異国の男に注意を払うものはいなかった。
ダリューンはため息をつき、思わず自嘲した。来ていないからとがっかりするなど、馬鹿馬鹿しい。来ていないだろうと思いながら、それでも来てみたのだ。
―――もしかしたら、彼女が来ていて、自分が来ぬとがっかりしているかも知れぬと思って。
前髪をかき上げ、雨の降る中、一歩踏み出した。そして―――
「ダリューン」
振り向くと、そこに「姫」が立っていた。