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□風
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もしかしたら、と思った。風の塔に行けば、再び会えるかもしれない、そう思い、名無しさんは宮殿を抜け出した。シンリャンから借りた服を着て、である。おそらく今頃シンリャンは、空っぽの部屋を見て恐慌をきたしているだろう。

シンリャンごめん、と名無しさんは心の中で謝った。


一人で外出するのは初めてである。いつも多くの侍従や女官達に囲まれ、輿や馬車で移動した。そもそも外出することが少ないのだ。

活気あふれる雑多な道を歩きながら、名無しさんは最初こそ怯えを感じたが、すぐにおのれの考えを改めざるを得なかった。


―――街が倦んでいるのではない。宮殿が倦んでいるのだ。

風が吹かなくても、街は活気に満ちている。野菜や衣類で街は色にあふれている。売り物の鶏や豚の鳴き声、それを売買する人々の声、駆けまわる子供たちが名無しさんの周りをぐるっと一周して走り去っていった。


宮殿にいては分からなかったこと。自分の足で見て回らねば、わからないこと。自分は今まで素晴らしいものを見逃してきたのではないか―――。


風の塔が見えた。足早に近づこうとする名無しさんの視線に、昨日からずっと頭から離れぬ男の姿が見えた。



会ってどうしよう、何と言えばいいのだろう、と思い悩んでいたのは杞憂だった。向かい合って立ったとき、お互いが会えることを予想していたのだとわかった。男はダリューンと名乗り、隣の大きな黒馬をシャブラングと紹介した。パルス人は騎馬民族と言うが、ダリューンも愛馬をよく世話しているのだろう、馬はかなりダリューンに従順なようだった。


名無しさんはそっと手を伸ばし、シャブラングの頭をなでようとしたが、鼻息荒く首を振られて、慌てて手を引っ込めた。

ダリューンは笑って、シャブラングの首をポンポンと叩いた。

「乗ってみますか」

ダリューンが差し出した手を、少し戸惑って握る。ダリューンの黒い手袋越しに、熱が伝わる。名無しさんは息が止まるような胸苦しさに襲われた。



―――最後に誰かの手を握ったのは、いつだっただろう―――



鐙に靴を差し入れ、何とか体を持ち上げる。どこを持ったらいいのかもわからず、ダリューンに教えられるまま手綱をつかみ、やっとのことで顔をあげた。


目の前の光景に、息をのんだ。


大通りにあふれる人々。道沿いに並ぶ店々。人の波はどこまでも途切れることなく続いている。笑う人や、怒鳴りあう者、表情豊かな人々。そこには宮殿にはない暮らしがあった。


馬に乗るだけで、これほど世界が違って見えるとは―――


名無しさんは空を見上げた。いつもより空が近い。空が広い。言葉を失うとは、こういうことか―――。


「―――私、今まで色んな事を無駄にしてきた気がします」


ダリューンが名無しさんを見上げる。名無しさんは満足したように大きくため息をついた。

「いつもつまらないと思っていたけど、私、まだ経験したことがないだけだったんだわ」

高揚した名無しさんの顔を見て、ダリューンは優しく微笑んだ。

「ならば、他にやりたいことは?」

名無しさんは少し考えて、ふとダリューンを見下ろした。


―――この人は、風を纏っている―――



シャブラングは普通の馬より大きくて、名無しさんとダリューン二人を乗せても力強く走った。樹々に囲まれ、守られた「中」から外に出て、シャブラングは一気に加速した。名無しさんが「中」より外に出たのは初めてである。畑ばかりで、人影も家も数えるほどしかない。音に驚いて顔をあげる農夫たちに見送られ、馬は二人を乗せて駆け抜ける。名無しさんはダリューンの背中にしっかりつかまりながら、恐怖からか、興奮せいか、笑い声を止められなかった。


風が耳元で唸る。風の塔で感じた風とは違うものだった。人工の風ではない。地面を走る馬が作り出す、本物の風だった。ダリューンが操るシャブラングの背で風を感じながら、自分にも風が作れたらいいのに、と名無しさんは願った。


陽もほぼ沈みかけ、風の塔の先端が暗い夜空に刺さろうとしたころ、名無しさんとダリューンの乗ったシャブラングは「中」に戻ってきた。風の塔のそばまで来て、ダリューンが馬から降り、手を伸ばす。名無しさんは再びその手をつかんで、体を鞍から離した。


ふわり、と風に乗る羽根にでもなったかのように地面に下ろされた。


「また、会えますか?」


ダリューンの問いに、また明日、と応えて名無しさんは雑踏に姿を消した。暫くして振り向くと、セリカ人の大群の中に、黒馬と共に立つダリューンがずっとこちらを見つめていた。



あくる朝、ダリューンはぼんやりとセリカ風の窓から外を眺めていた。宮殿の反った屋根はしとしとと降る雨に濡れ、庭の柳の枝も濡れた葉に引っ張られるのか、いつもより垂れているように見える。

―ーこれでは遠出は無理だな。


ダリューンは昨日のことを思い出す。会えるかもしれないと思った。そして実際シンリャンと会えた時、驚くよりうれしい自分に苦笑したのだ。シンリャンの身のこなしは優雅で軽やかで、そのくせ馬に乗った時は怯えて緊張していた。馬と共に生きるパルス人のダリューンにとって、それは新鮮だった。

外を眺めるダリューンの視線に、遠くの廊下を行く複数の女官たちが見えた。ダリューンは急いで立ち上がり、廊下へ出る。鮮やかな青や赤や緑に塗られた装飾で飾られた廊下は、何度歩いても迷ってしまう。

やっと女官たちを見つけ、ダリューンはシンリャンのことを尋ねた。

「シンリャン?」

クスクス笑いながら袖で顔を隠す女官たちの中から、気の強そうな女官が意外だ、と言う顔でダリューンを見上げる。

「シンリャンならあちらの棟で仕えてるけど」

女官が指さす方向を見やって、ダリューンは礼を言って歩き出した。背後から女たちがシンリャンの名を囁くのが聞こえた。


廊下を渡ると、その棟の扉は他より格段に豪華だった。シンリャンは王族付きの女官なのだろうとダリューンは思った。扉を守る宦官にシンリャンを呼んでもらうよう頼む。男はじろじろとダリューンを眺めた後、中へ入っていった。


一人残されたダリューンは、後悔し始めた。


会って何を言うのか。いやそもそも、会いに来ると言うのはどうなのか。


手を首に当て、迷いに迷って、やはり戻ろう、と決心した時、扉が開いてしまった。


だが―――


「何か用?」


そう言ってダリューンを見上げる女官は、全くの別人だった。
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