中編集
□風
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シンリャンは大いに困っていた。十二歳で雑用係兼見習いとして宮殿に上がり、十六歳で名無しさん付きの侍女になった。その時名無しさんは十一歳で、五つ下の王女はわがままを言わない素直な少女で、正直シンリャンは当たりくじを引いたとほっとしたのである。
それから五年、王女は何なら「夢見がちなぼんやり姫君」とうわさされるほど、使用人にとってはありがたい王女になった。一日中窓から外を眺めている。取り立てて何も命令されないから失敗しようもない。多少粗相をしても、どうでもいいのか名無しさんは気にせず外を眺めている。
顔が気に入らぬと斬首されたものがいる。
くしゃみを理由に狩りの的にされたものもいる。
この国の王族や貴族やらは、気が短いのか血が好きなのか、はずれを引けば毎日戦々恐々と暮らすことになる。だからこのぼんやり姫君の侍女になれたシンリャンは皆から羨ましがられた。
それがどうだ。
シンリャンは床に膝をつき、袖に差し入れた両腕を頭上に掲げ、必死に懇願している。
「姫様、どうかおやめください。絶対に国王に見破られます」
まったく、今までぼんやり暮らしてきたくせに、なぜ急にこんな風になったのだ。シンリャンは歯ぎしりする。
名無しさんはシンリャンから借り受けた侍女の衣装に着替え、髪を侍女風に結い直している。金や翡翠の装飾品は取り去り、濃い目のベールで顔の下半分を隠している。
「大丈夫。お父様は使用人をじっくり見たりしないわ」
パルスからの使者団を間近で見たいから、だそうだ。静かに窓の外を見ておればいいのに。
「もしも見つかったら、私もただではすみません」
情に訴えてみた。
「何も知らなかった、と言えば大丈夫。私が一人でしたことにすればいいわ。というか、シンリャンは本当に何もしてないもの」
シンリャンが何かしたか、していないかが問題なのではない。名無しさんが何かしたら、誰かが代わりに責任を取るようになっているのだ。
「もしも露見したら、私は手足を斬り落とされて、厠に落とされて、豚の餌にされてしまいます!」
これでどうだ。
だが名無しさんは苦笑いをしただけだった。夢見がちなぼんやり姫君め、とシンリャンは心の中で毒づいた。冗談だと思っているのか。優しい国王など、この世界のどこにもおらぬというのに。
「できた。シンリャン、あなたは仕事に戻りなさい」
「私の仕事は姫様のお傍にいることです!」
絹の衣装から綿の衣装に着替えた名無しさんのあとを、シンリャンは自身の無事を祈りながら追いかけた。
厨房はいつもに増してごった返していた。とりあえずここではばれなさそうだ。シンリャンはひやひやしながら名無しさんが盆に徳利を乗せるのを手伝った。
「姫様、お願いですから無茶をしないでくださいね」
「わかってる」
何人かの使用人と連れ立って大広間へ向かう途中、食事を持って行った使用人たちとすれ違った。
「パルス人たちは床に座るそうだから、椅子の上で居心地悪そうよ」
「箸も使えぬ野蛮人のそばになど寄りたくもない」
「みな荒々しい、獣のような姿よ。変に鼻が高くて、目が窪んでいて…」
ぺちゃくちゃ話す雀たちの横を通り過ぎる時、名無しさんの耳に気になる言葉が飛び込んできた。
「でも、一人いい男がいたわ」
「あ、あれでしょう?黒髪を結んで、黒い服を着た」
―――あの人だ。
思わず立ち止まった名無しさんの背中にシンリャンがぶつかる。
「セリカ語で礼を言ったわ」
「話せるのかしら」
「あの男なら遊んでみてもいいわ」
「パルス人と?」
名無しさんは再び歩き始める。先ほど見た黒衣の騎士の姿を思い浮かべた。黒髪に黒衣に黒い馬。その中で、琥珀色の瞳が力強く自分を見ていた。風にあおられたマントの内側のみが、鮮やかな赤で―――
騎士の髪が風に揺れていた。いや、この街には風は吹かないのだ。風の宮殿に昇らねば。ならば―――
―――あの人が、風を起こしたのか。
名無しさんの胸が激しく打った。窓から眺める変わらぬ景色。もしかして、あの人が変えるかもしれない。
名無しさん達の前にそびえたつ、大広間の扉がゆっくり開かれた。
セリカ式に飾られた大広間の卓には、片側にセリカ人、反対側にパルスの使者団がついていた。箸を使うことは諦めたのだろう、パルス人たちは持参したと思われる銀のナイフとフォークを使っている。使用人たちは袖で顔を隠して笑った。
(皿の上で調理でもするのかしら)
そんな声を聞き流しながら、名無しさんはそっと見回した。
―――いた。
卓の下座、父王から一番遠くに座っている。使者団の中でも取り立てて若そうだし、それほど位は高くないのかもしれない。名無しさんの目はこの黒衣の騎士にくぎ付けだった。
杯が次々と開けられていく。名無しさんはシンリャン達と酒を注いで回った。セリカ人の杯、特に王の杯が空くと、、シンリャンが駆け寄って酒を注いだ。
おかげで、パルス側で落ち着いて給仕ができた。そして―――
黒衣の騎士が、手にした杯を少し持ち上げ、名無しさんの方を見た。名無しさんの背中にビクンと電流が流れた。
―――心臓の音が聞こえませんように。
緊張のせいで、体を流れる血液の音まで聞こえる気がした。
男は二十歳くらいだろうか。健康的な肌の色に、軍人らしく逞しい体つきだった。装飾品の類は何もつけず、黒髪を結ぶひもも飾り気のないものだった。
―――麝香の香りがする。
西側の人々は麝香を愛用する。セリカでは香の文化が発達しているので、皆それぞれ気に入った香りを自分で調合する。それゆえセリカ人は西側の人々をみんな同じ香りがすると馬鹿にしたものだが、名無しさんはベールの内側でこっそり微笑んだ。
―――この人の麝香の香りだけ特別な気がするのは、やっぱり私の気持ちのせいよね。
男の斜め後ろに回り、そっと徳利から酒を注ぐ。
「どうぞ」
パルス語に男は少し振り返り、口角を少し上げて微笑んだ。
「ありがとう」
男はセリカ語で応え、前を向き―――再び振り返った。
琥珀色の瞳が名無しさんを射抜く。存在しない風が名無しさんの顔をなでた。
「―――あなたに、会いましたか?」
男のセリカ語は完全ではなかったが、意味は通じた。男の声は強く、名無しさんの耳に心地よかった。名無しさんは声を出さず頷いた。男が体ごと名無しさんに向き直る。見合って、言葉が出ないのは、外国語が不便だからか、それとも―――
名無しさんに声がかかった。向かい側の男たちが杯を持ち上げている。名無しさんは男に頭を下げ、去ろうとした。
「名は?」
男が尋ねた。振り返ると、男が名無しさんを見上げている。その表情は少し恥ずかし気で―――
「シンリャン」
素早くこたえ、名無しさんは酒を注ぎに行った。
背中に黒衣の騎士の視線を痛いほど感じながら。