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□霧
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シャプールは自室の窓から川を見下ろしていた。天気のいい日の日課のようなものだった。川にかぶさるようにして茂る大木の葉の隙間から、子供たちが水浴びする様子が見える。ちらちらと女性の姿が見えるが、名無しさんではなく、まだ十代の女神官見習いのようだ。今日は名無しさんは来ていないのだろうか。シャプールは川をしばらく眺めた後、部屋を後にした。

弟のイスファーンと馬を並べて街へ向かう。川沿いの道は木が太陽の光を遮断してくれるので、西日に苦しむことなく進むことができる。

「兄上も、ついに万騎長になられました。私も鼻が高いですよ」

幼いころにシャプールに命を助けられたイスファーンが誇らしげに言う。

「さらにご婚約もされて、父上もご安心されたことでしょう。気に病んでいらっしゃいましたからな、兄上がいつまでも独身でいらっしゃることに」

シャプールは苦笑しただけで何も言わなかった。万騎長への叙任式の夜、急に父から名無しさんとの婚約を提案され、戸惑ったのは事実だった。名無しさんはあらゆる見合い話を断ったらしいから、この話も断られると思ったのだ。だから次の日名無しさんの父から承諾の連絡が来たとき、驚きのほうが勝ったのだ。

「私はパルハーム殿の妹後にお会いしたのはあの時が初めてですが、だいぶんと雰囲気の違うお二人ですね。名無しさん殿はどこか町娘のような雰囲気があって親しみやすい方のようですが」

イスファーンはそう言って、視線をシャプールに向けた。

「私はナスリーン殿が兄上にお似合いだと思っておりました」

シャプールは思わず手綱を引いた。

「ナスリーン殿?なぜそう思った」

イスファーンも馬を留め、肩をすくめて笑う。

「そんなに驚かないでください。ただ思っただけです。兄上も万騎長になられたし、もしかしたら大将軍にだってなられるかもしれない。そうなったとき、お相手はナスリーン殿のほうが、なんというか、ふさわしいような気がしただけです」

イスファーンがはっきり言わない言葉の裏には、二人の持つ雰囲気のことがあるのだろう。庶民的な名無しさんと、高貴な雰囲気のナスリーンと。


だが、シャプールが窓から見続けたのは、名無しさんだった。


シャプールは手綱を軽く引き、再び馬を進めた。

「もう決まったことだ。今更あれこれ言ってもしようのないことだ」

イスファーンが続いて馬を歩ませたとき、


くしゅん。


と子供のくしゃみが聞こえた。


二人は馬を留め、周りを見回す。陽に灼けた白い道、その道に沿って茂る木々と、地面に生える緑の草に、いくつかの岩。人の姿も気配もないが、確かに聞こえたのだ。

「誰だ?」

イスファーンが誰何する。砂利を踏む音がかすかにした。シャプールはそばの大木に当たりを付け、馬を寄せた。




大木の後ろに、名無しさんが腰を下ろし、幼子の背中に顔を埋めている。居心地の悪さに幼子が体をよじるが、名無しさんがしっかり抱き止めていて、動けない。

「…名無しさん―――」

イスファーンが馬を寄せ、しまった、と舌打ちする。

「すみません…」

弱弱しく名無しさんが謝る。背中で話されて、くすぐったいのか幼子がくすくす笑う。

「…何を謝っておる。勘違いするな。俺は」

名無しさんが震える声でシャプールの声を遮る。

「お父様に、妹と代えてもらうようお願いしますから…」

違う、とシャプールが声をあげる間もなく、名無しさんが幼子を抱き上げ、森の中に駆け込んでいく。木々に邪魔され馬では入れず、シャプールが馬を下りたときには、すでに名無しさんの姿は森の奥に消えていた。




あくる日の朝、シャプールは急いた様に馬を走らせていた。三叉路へ着き、名無しさんの屋敷の方へ馬を向ける。曇り空の下、ぼんやりとした道の向こうに、馬に乗る人の姿が見えた。シャプールはその人物を認めると、駆け寄った。

「パルハーム!名無しさんは屋敷か!」

パルハームは片手をあげ、シャプールの馬を止めた。パルハームの表情を見て、シャプールは次の言葉が出ない。

パルハームは苦笑いを浮かべていた。

「おぬしには、名無しさんの方が似合うと思ったのだがな」

パルハームはため息をついて、片手で首の後ろを撫ぜた。

「名無しさんが昨日、父上に婚約の話を断りたいと言いおった。そして、ナスリーンを代わりにしてくれと。父上のお気に入りだからな、最初は父上も納得しなかったが、名無しさんが珍しく強硬に訴えてな。万騎長の妻になるのはナスリーンの方がふさわしいと。最後には父上も折れた」


名無しさんが婚約を断った。


「…名無しさんは―――」

「名無しさんか。女神官になるそうだ。まあ我が家から女神官が出れば名誉なことだし、身分もあるからあいつも出世できるだろう」

シャプールの額から汗が伝い落ちた。

「女神官…そのようなこと、名無しさんから聞いたことは…」
「私もだよ、シャプール」

パルハームはシャプールに複雑な視線を向けた。

「言っておくが、私や名無しさんを標準的な貴族だと思うなよ。ナスリーンは、良くも悪くも『貴族的』だ」

言って、パルハームは馬を下りた。シャプールを見上げ、姿勢を正す。

「シャプール殿、父に代わり、妹名無しさんとの婚約話を解消させていただきたく参った。かわって、勝手ながら下の妹、ナスリーンとの婚姻をご検討いただきたい」




男たちの甲冑が音を立てる。馬の嘶きや、兵たちの声が霧の中で響く。近隣の町や村から集めた歩兵も含め、一万余りの兵を率いて、シャプールは戦場に向かう。生憎厚い霧が立ち込める日の出立となったが、兵たちの家族が沿道に並び、勝利と無事を祈った。


三叉路まで来ると、シャプールは霧の向こうに目をやった。神殿も、隣の施設も霧に埋もれて見えなかった。シャプールは少し馬の歩みを遅らせる。沿道には女神官たちの姿はない。女神官はめったに神殿を離れることはないから当然だが、シャプールは己の胸がふさぐのを感じた。



もう、妻のナスリーンと話をすることも、顔を合わせることもほとんどない。パルハームの言う『貴族的』なナスリーンにとって、武家の妻と言う立場は満足いくものではなかったのだろう。


全ては自分のせいだとわかっていて、どうにもできない。あのとき無理にでも名無しさんを追いかけていれば、今とは違った事になっていただろう。


自分の背後に並ぶ兵たちの中には、あの施設で育った者たちもいる。此度の戦では、必ずこの者たちをこの街へ生きて戻らせる。そして、名無しさんの元へ帰そう。


贖罪にもならんが、とシャプールは苦笑する。



シャプールは背を伸ばし、前を見据えた。今から万騎長として、初の戦が待っている。パルス国王が率いる大軍に合流すべく、シャプールはアトロパテネを目指した。
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