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□霧
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叙任式が終わると祭りが始まった。そもそも首都エクバターナのような大都市ではないため、貴族や軍人、自由民たちの間の垣根もそれほど高くはない。この日は無礼講で、普段なら目にすることのない階級の人々が同じテーブルに着いている。
楽しい宴ではあったが、なにせ人が多すぎた。ナスリーンが人酔いをして帰りたがったため、名無しさんがナスリーンの腕を支え、侍女たちと広場を離れた。人ごみをやっと抜けたところで、ほっとしたのもつかの間、また人々が歓声をあげて寄ってきた。みると、近くでシャプールが家族とともに人々から祝福の言葉をかけられている。名無しさん達は人々に囲まれて身動きが取れなくなってしまった。困った、と侍女たちと何とか道を作ろうとしていると、
「名無しさん?」
シャプールの声だ。名無しさんがぱっと顔をあげると、人より頭一つ分背の高いシャプールと目が合った。
「おぬし、何をしておるのだ?」
シャプールが名無しさんの方へ人々をかき分けるようにしてやってくる。
「おめでとうございます、シャプール様」
もう何度目だろう、名無しさんは心から祝いの言葉を述べた。青い顔で口をハンカチで押さえていたナスリーンも、きちんと祝辞を述べたが、弱弱しい声は喧騒にかき消された。
「妹が人に酔ったようで…これから屋敷へ戻るところです」
そう言ってシャプールを見た名無しさんは、シャプールがナスリーンを見ていることに気付き、心臓を掴まれたような痛みを感じた。だがシャプールはすぐに横に立つ弟のイスファーンにナスリーンたちを屋敷へ届けるよう言いつけた。
「生憎俺はまだ離れられん。名無しさん、イスファーンに馬車を用意させる。それで帰れ」
礼を言っているところに、年配の男性が現れた。シャプールの父親だ。シャプールよりは小柄だが、体つきはシャプールに劣らない。鋭い目つきがシャプールに受け継がれているのが分かる。慌てて祝辞を述べていると、ドン、と名無しさんの腰に何かが勢いよくぶつかってきた。そのまま突き飛ばされる格好でシャプールにぶつかる。
シャプールに抱き止められたと同時に足も踏みつけたらしく、シャプールがうめき声をあげた。
「足をどけろ!万騎長になって早速骨折しておっては様にならぬ」
苦笑いしてシャプールが言う。振り返ると、名無しさんの足に子供がへばりついている。そしてその後ろにも数人。
「あなたたち…」
名無しさんが赤くなって子供を引きはがそうとするが、離れない。他の子供たちは口々にシャプールに祝いの言葉を述べた。
「この子供たちは?」
尋ねるシャプールの父に、
「パルハームのご両親が設立した施設の子供たちです。名無しさん殿がいつも女神官たちと世話をしておられるので、なついているのですよ」
シャプールが答えた。頷くシャプールの父に、子供たちはまた次々とあいさつする。
「すみません、すぐ行かせますので…」
足の周りをグルグルまわり始めた子供を捕まえ、追いかけてきた女神官見習いに引き渡す。やっと子供たちが離れたと思えば、ナスリーンは一層青い顔をしている。イスファーンが馬車の手配を終えて戻ってきたのを潮に、名無しさん達は急いでその場を離れた。
祭りの酔いも冷め、人々がいつもの暮らしに戻ったころ――――。
名無しさんは父親に呼ばれ、居間にいた。大理石の床は冷たく、夏場は気持ちがいい。間もなくやってくる秋を感じさせる少しだけ涼やかな風が窓から入り、カーテンを揺らしている。
また見合いの話だろうか。それとも、早く結婚しろと言うお説教?名無しさんは渋い顔をして父の向かいのクッションに背を預けた。
およそ遠慮や他人の心中を忖度することのない父である。
「シャプール殿との見合い話が来た。受けるか?」
愕然と口を開けて固まる娘に、父は
「嫌か、そうだろうな、一応聞いてみたまでだ。断っておく」
言ってさっさと去ろうとする。
「ま、待ってください!」
名無しさんの悲鳴に近い声に驚いたように立ち止まる。
「何だ?」
「あの…私に?ナスリーンではなく?」
父親はナスリーンとよく似た形の良い眉を寄せた。
「ナスリーン?いや、おぬしへ持ち込まれた話だ」
名無しさんは浮かせた腰を再び下ろし、何気ないふりをして尋ねた。
「…そのお話は、シャプール様から、それとも…」
「シャプール殿のお父上からだ。先日の祭りでおぬしを見て、気に入ったらしい」
あの時、隣にはナスリーンがいた。気分がすぐれなかったとはいえ、いやだからこそ、庇護してやらねばならないような美しさがあった。それでもシャプールの父親は、自分を息子の妻にと願ったのか。
名無しさんは俯いた。
雨の中駆けてきてくれたシャプール。パルハームの親友であり、名無しさんが唯一気兼ねなく話せる男性。
今まで見合い話を断ってきた。もし今回この話を受けたら、シャプールはどう思うだろうか。シャプールはこの話を受けるのだろうか。
シャプールがナスリーンを見ていたとき感じた胸の痛み。シャプールがすぐ自分に視線を移したときに感じた安堵。
自分の気持ちは、もうわかっているのだ。
名無しさんは父親に、頷いた。