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□霧
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翌朝、少しのどが痛むと思ったら、昼過ぎに見る見る熱が上がった。名無しさんは女神官たちに断って屋敷に戻り、寝台に入った時には悪寒で体が震えるほどだった。昨日雨に濡られたのが理由とわかっているので、とにかく休んで体力を戻すしかない。一晩ゆっくり寝るとずいぶん楽になったが、大事を取ってこの日はそのまま寝台で横になっていた。

本を読んでいると、扉が叩かれた。

「名無しさん、入ってよいか」

パルハームが呼びかける。

「どうぞ」

体を起こし、手近にあったストールを肩にかける。

「シャプールもいるのだが」
「!?」

待って、と言う前にさっと扉が開けられた。パルハームに続き、シャプールが入ってくる。こちらは一晩熱を出してそのままだから、化粧はもちろん、髪もまとめていない。大慌てで髪を手櫛でとかし、ストールの端で顔を隠し、目だけを出す。

「いきなりなんですか!?」

怒る名無しさんに、シャプールはにやりと笑う。

「気にするな。俺は気にせん」

パルハームが大声で笑う。

「この臭い…二人とも、酔ってますね」

パルハームがシャプールの肩をバンバン叩き、肩を組む。

「酔わずにおれるか!名無しさん、シャプールに何が起きたと思う?」

今私に起きていることほどひどいことじゃないでしょうね、とつぶやき、絹の薄い布団のしわを伸ばす。しっかり体の線が分かるので、落ち着かないのだ。

「シャプール、お前から言ってやれ」

シャプールは照れ隠しをするように腕を組み、わざとらしく、そっけない態度で言った。

「万騎長に叙任された」

さりげない言い方とは対照的に、隠しきれない笑みがシャプールの顔に広がる。ストールがずり落ちて顔が丸見えになったが、名無しさんは気づきもしないほど驚いた。パルハームがおめでとう、よくやった、と言いながらシャプールの背を叩く。シャプールが礼を言って、パルハームと抱き合った。

名無しさんは置いてけぼりになってポカンと寝台の上で二人を見つめていたが、名無しさんの顔にも笑顔が広がっていった。

シャプールと目が合った。名無しさんは素直に祝いの言葉を述べた。

「おめでとうございます、シャプール様」

再びパルハームと肩を組んだシャプールは、まだ笑いながら名無しさんに言った。

「なんだ、珍しいな、てっきりまた皮肉を言うかと思ったが」
「おめでたい時に皮肉は言いません」

実際すごいことなのだ。パルス軍は膨大な数の兵士を抱える。百騎長でもなかなかなれないのに、若くして千騎長になった。名家の出としても異例のことだし、むしろ家柄で昇格したと言われぬよう、たぐいまれな努力をしていることはこの街の人間ならみんな知っている。そしてついに万騎長となった。技術も当然だが、部下から親しまれる人柄でなければ務まらない。誇らしくて当然だろう。

「本当に、おめでとうございます」

シャプールは意外そうに眉をあげると、子供のような笑顔でそれに応えた。

「名無しさん、明日は街中をあげて祝いの祭りが催される。お前も明日までには熱を下げておけ」

気合でどうにかなるような言い草をし、パルハームは名無しさんの肩に手を置いた。

にこやかに笑いながら扉を出ていく二人に、明日必ず参加します、と告げると、シャプールが振り返って大きく微笑んだ。

−−−−いつもむっつりしてるのに。

考えてみれば、シャプールがこんなに笑っている姿をみるのは初めてだ。名無しさんは寝台を出て、窓から外を見る。しばらくすると、中庭に面した回廊を二人が歩くのが見えた。男の子のように、押し合ったり肩を組んだりしてふざけている。

シャプール様ほどの人でも、無邪気に喜ぶことがあるんだな…。

名無しさんはあそこまで仲の良い友人はいない。いたとしても、ああまで楽しくなるだろうか。男性ならではなのかもしれない。ふと、シャプールと一緒にいるパルハームをうらやましく思った。



次の日、街は朝からお祭り騒ぎだった。女たちは総出で食事を作り、男たちは街中を飾り付ける。子供たちは訳が分からぬまま走り回り、怒られる。街の中心にはミスラ神を称える神殿があり、前の広場を囲むようにテーブルがずらりと並べられ、女たちの作った食事が置かれた。店も無料で麦酒を提供し、早速酔っ払いたちが現れる。音楽隊や大道芸人、道化師たち。

神殿の入り口の左右には神官や街の有力者たちが並んだ。神殿の右側に神官、左側に貴族や武家、大商人たちだ。当然名無しさんも並んでいる。

「シャプール様は、お兄様のご友人でしたわね?」

ナスリーンがパルハームに尋ねる。

名無しさんは例のオレンジ色のドレスに、髪を結いあげ真珠で飾っている。同じく真珠のネックレス以外には装飾具は身に着けなかった。ナスリーンはごく薄い青色のドレスに、青系の花で作った花冠で髪を飾っていた。神殿のステンドグラスから飛び出してきた神の使者のようだ、と人々が噂するほど美しかった。

「幼馴染で、腐れ縁だな。努力家だが、まさか万騎長になるとは。もしかしたら、大将軍にまでなるかもしれん」

まるで自分のことのように喜んでる、と名無しさんは微笑んだ。

「お姉さまも、シャプール様にはお会いになったことが?」
「…ええ」
「ナスリーン、名無しさんはお会いになったどころか、シャプールとは犬猿の仲だぞ」

名無しさんが目を見張る。

「…シャプール様が、そうおっしゃいました?」

パルハームが名無しさんの表情に気付いて口を開いたとき、ひときわ大きく歓声が上がった。



人々が左右に開き、道を作る。甲冑に身を固めた騎士たち十人ほどが広場に入ってきた。馬が美しく飾られ、騎士たちが掲げる槍の先には色とりどりの房が風になびいている。その一団の先頭を行くのが、シャプールだった。

冑をわきに抱え、片手で手綱をもって馬を進める。遠目にも、誇らしげな表情が分かる。シャプール達が神殿の階段の下に到着した。名無しさん達が席を立つ。神殿に向かって一礼した後、シャプールが一人階段を上る。群衆が声を張り上げてシャプールの名を呼ぶ。振り返ることはないが、シャプールの顔にまた大きな笑みが広がった。

階段を上がり、名無しさん達が並ぶ神殿の前にシャプールがたった。これから神殿の中で国王からの使者から叙任の命を受け、後日首都エクバターナに赴き、宮殿で叙任式を行うことになるのだろう。

名無しさんは、少しシャプールが遠くなった気がした。

シャプールが名無しさん達の前を通るとき、シャプールがパルハームに向かってほほ笑む。パルハームは軽く頷くだけだったが、この二人はそれだけで通じるのだろう。そして通り過ぎる時、ほんの一瞬だが、シャプールが名無しさんに どうだ、と言わんばかりに顎をあげて見せた。ナスリーンが名無しさんをちらりと見る。名無しさんはいつものシャプールと同じなのが嬉しくて、同じく つん、とした表情を作ってから、笑い顔を浮かべた。


シャプールが神殿に入り、神官たちが後に続く。その後ろを名無しさん達がついて行く。


人々の歓声と、投げられる花びらと、色とりどりの紙吹雪と、楽し気な音楽。




この日が、名無しさんにとって人生で一番幸せな思い出となった。
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