中編集
□霧
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屋敷に戻った名無しさんはすぐ自分の部屋へ向か会った。せっかく川でびしょぬれにはなったが、屋敷に戻るまでの間に、また汗をかいた。まだ少し早いが、ハマムで汗を流そうと思っていると、階段で声がかかった。
「お帰りなさい」
見上げると、妹のナスリーンが階段の踊り場に立っている。壁にはめ込まれたステンドグラスの色とりどりの光がナスリーンの髪に踊り、白い肌に映えて、名無しさんは素直に美しいと思った。
「ただいま。出かけるの?」
「お父様とお母様と観劇に。お姉さまもお誘いしたのに」
「ガラじゃないもの」
階段を上がる名無しさんの髪にナスリーンが目を留め、葉っぱがついてる、といって指でつまんだ。白く細い指でつまんだ葉を名無しさんに渡す。
「では、行ってきます」
「楽しんできてね」
ナスリーンは微笑むと、階段を下りていった。髪を結いあげているので、細い首筋があらわになっている。硝子のビーズで飾られたドレスは均整の取れたナスリーンの体を嫌味がない程度に見せつけていた。
ふと思いたって、部屋に戻ると衣装箪笥を開けた。ナスリーンが着ていたドレスと一緒に、自分のドレスも作ってもらったのだ。硝子のビーズがつけられ、金糸で裾を飾られたドレスを体に当て、鏡を見る。日に灼けた肌は何ともしがたいが、健康的な色の肌に、鮮やかなオレンジ色のドレスが映える。ナスリーンとは違った美しさがあるが、名無しさんはそうは思っていなかった。卑屈な感情でそう思うのではない。華やかで可憐なドレスより、動きやすく、質素なドレスのほうが好みなのだ。なにより、観劇や音楽鑑賞などより、子供たちと遊んでいる方が、よっぽど楽しい。
名無しさんはドレスを元に戻し、着替えをもってハマムへ向かった。
次の日、西の空は少し暗く、生暖かい風が吹き付けていた。せっかく気温が下がっても、湿った風が吹いていれば、結局は不快な気分に人々は顔をしかめることとなる。シャプールは曇り空を見ようと窓に寄った。晴天も日差しが強くて困りものだが、この湿気もたまらんな、と窓から外を覗き込んだ時、下の川にまた名無しさんと子供たちの姿が見えた。
川上で雨が降れば、一気に増水するのではないか、とシャプールが思った時、ぽつりと雨粒が硝子窓を打った。シャプールが再び川を見下ろすと、名無しさんが子供たちを川から上がらせている。子供たちが服を拾い集めると同時に、シャプールの視界は雨で遮られた。
「早くこっちによって!」
名無しさんが大声をあげるが、雨音でかき消される。体に当たると痛いほどの大粒の雨が地面に当たり、小さい子供の背丈ほどの高さまで、白く見えるほど撥ね返っている。みんなそれぞれ木の下に入るが、あまり意味がない。降る雨と撥ね返りで上からも下からも濡れて、見る見る服が重くなっていく。子供たちを確認しようにも、姿を見るのも難しかった。
名無しさんの耳に、小さく雷鳴が聞こえてきた。木の下にいるのはまずいだろうか。だがこの雨の中、幼児を抱えてどこに移動できるだろう。名無しさんは空を見上げた。
ふと、呼ばれた気がした。
左右を見回すが、雨で視界が曇ったようになり、誰も見えない。だが再び自分の名を呼ぶ声が聞こえた。大人の男の声。兄のパルハーム?声が聞こえる方に一歩踏み出す。顔に痛いほど当たる雨に目を細め、強烈な雨によって霧が立ち込めているか、と言うほど白い空間を見つめた。
それは、一陣の風が吹いたようだった。
雨の幕を斬り落としたように、黒い影が飛び込んできた。激しい雨音に負けぬほどの馬蹄の音を響かせ、男が名無しさんの前に突如現れた。
「−−−−−シャプール様!」
「名無しさん、無事か!」
全身ずぶぬれになったシャプールが馬上から声をかけた。叫ぶようにしないと声も聞き取れない。
「子供たちは何人だ!」
「五人です。二人は私と一緒にいます!」
シャプールは馬を下りると手綱を名無しさんに渡し、再び雨の向こうに消えた。名無しさんは木に背を押し付け、自分と子供たちの前に馬を立たせた。雨がかなり防ぐことができ、子供たちも少し落ち着いたようだ。あたりを見回すと、再びシャプールが現れた。子供を一人抱いて、もう片手を二人の子供が掴んでいる。名無しさんと同じように馬と木の間に滑り込む。
「−−−−すごいな」
「本当に…」
こんな雨は経験したことがなかった。降り出してしばらくたつが、雨足は全く弱まらない。一瞬空が光り、しばらくして雷鳴が小さく響く。子供たちが泣き声を上げる。
「大丈夫だ。光って雷鳴が聞こえるまでの時間が長いほど、雷は遠い。この雷は遥か彼方だ」
名無しさんがシャプールを見る。
「だからどうしてお前はそういう目で俺を見るのだ!」
「疑ってませんよ?」
「目がそう言っておる!」
「物知りだなぁと思ったんです」
年長の子供がしらけた顔をして、空を見上げる。そして驚いたように、
「シャプール様、名無しさん様、少し小降りになってませんか?」
二人同時に空を見上げる。確かに、空も少し明るくなってきたようだ。雷鳴も聞こえないし、風も収まっている。
「やむんでしょうか」
「そのようだな」
そう言う間に、雨が霧雨のようになり、黒い雲は風に流され、一部青空が見え始めた。あれよあれよと言う間に、雨は完全に止み、雲はちぎれ飛んでほとんど青空のみになった。
「虹だー!」
子供たちが叫んで木陰から飛び出す。名無しさんもシャプールもポカンと虹を見上げた。
「嘘みたい…」
先ほどの大雨が信じられぬ天気のよさだった。だが名無しさんもシャプールも川に飛び込んだようにびしょぬれだし、足元は大地が吸収できなかった雨水が小川のように流れている。陽に照らされて、一気に蒸し暑くなってきた。
「…まぁ、帰るか」
前髪から水滴をこぼしながら、シャプールが言う。白いシャツは濡れて、剣で鍛えた体にぴったり張り付いている。名無しさんは何だか気恥ずかしくなり、大声で子供たちを呼び戻した。
泥道のようになった道を歩き始めた。シャプールは子供を二人馬に乗せてやり、自分は手綱を引いて歩く。
「シャプール様、ありがとうございました。おかげで助かりました」
「かまわん。それにあのような雨は誰も予想できん」
地面からむっとした湿気が手を伸ばしてくる。服が体にへばりつき、不快さを増す。
「まっすぐ帰れよ」
そういってシャプールは馬から子供を下ろした。この三差路を右へ行けばシャプールの城へ、左に行けば、子供たちの施設へ続く。
「はい。本当にありがとうございました」
シャプールと別れ、子供たちと一緒にしばらくシャプールの広い背中を見送る。それからわいわいと子供たちと道を進む中、名無しさんはふと、シャプールはなぜ自分たちがあそこにいることを知っていたのだろう、と不思議に思った。