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□猫の足
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ギーヴは山肌を這うように作られた細い道に立ち止まっていた。馬一頭やっと通れるほどの道は今にも崩れそうで、多くの旅人たちは滑落を恐れて馬を降り、手綱を引いてそろそろと渡るのが常だった。だが、今ギーヴが馬を降りている理由はそれではない。光の加減で紫色に見える瞳を凝らし、ギーヴは彼方を見つめている。その先には、見えはしないがパルスの首都がある。


―――あと数日の旅ではあるが。


ギーヴは胸に仕舞った革袋に、服の上から手を置いて厚みを確かめた。


―――少し、金が足りんかもしれんな。


ギーヴは少し考え、行き先を変更することにした。南へ進路を変えれば、大きな村があったはずだ。そこで金を「手に入れる」。

うん、それがいい、とギーヴは頷くと、舞うようにひらりと馬に飛び乗り、荒れた山道をまるで整えられた大通りを行くように軽々と進んでいった。



日もくれかけ、見事な夕陽の残滓が山際を染めるころ、ギーヴは目的の村へ着いた。家々は灯りをともし、家路を急ぐ人々が道を行きかい、食堂は呼び込みを始め、市場の主たちは商品の片づけを追え、売り上げを勘定している。

最も活気のある時間帯だ。そして人々は自分の一日を終える準備に集中し、他人のことには気を配らない。


それが幸いした。


村の中心地に張られた人相書きが己のことであると気づいたギーヴは頭にかぶっていたストールを目深に引き下げた。こんな時でも慌てふためくことはなく、むしろ小憎らしい笑みを浮かべて、大胆にも人相書きに近づいてみる。


―――やはり、本物のほうが良い男だ。


見ようによっては七割がた似ていると言えなくもない人相書きと、その横に書かれた「結婚詐欺師」の文字に不敵に笑うと、ギーヴは再び馬を進めた。


ギーヴは家を飛び出して以来、放浪の旅を続けていた。女たちに夢を見せ、その対価として金をもらう。ギーヴが去ってはじめて女たちは夢から覚め、ある者はその夢を良い思い出にし、ある者は騙されたと騒ぎ立てた。ギーヴはもちろん前者の類の女たちが良い女だと思っている。

ギーヴは村を抜け、一本道を進んだ。もう空は暗く、星が瞬いている。道は山へと続いていた。


―――やれやれ。今日はここで野宿するか。


そんなとき。


木々の間にポツンと明りが見えた。一瞬獣の目が光りでもしたかと疑ったが、それは遠くにある家の灯りだった。

ギーヴは少し考え、その灯りを目指した。美しい女がいれば泊めてもらおう。むさくるしい男しかおらねば、野宿決定だ。この期に及んで、ギーヴは一貫してギーヴだった。


茂みに隠れるようにして暫く古びた家を観察すると、井戸の水を汲みに若い女が出てきた。


―――おや。


ギーヴは目を凝らした。口元が満足げに軽く上がる。女は髪を無造作に縛り、飾り気のない黒っぽい服を着ていた。そのせいで女の肌はランプの灯りの中でも、かえって白さが際立っていた。


―――色の白いは七難隠す。


絹の国のことわざだったか?だが俺は肌の色より、容姿の方が重要だが―――


女がランプを井戸端に置き、釣瓶を井戸に落とした。前かがみになった女の顔が、ランプではっきり照らされる。


―――合格。


ギーヴは誰にともなくつぶやきながら、頷いた。ギーヴが今まで相手にしてきた上流階級の女や、豊かな家庭の娘とは違い、繊細さは欠けるが、田舎の娘としては整った顔立ちと清楚な雰囲気に、ギーヴは白いマーガレットを連想し、ふと、誰かに似ていると思った。


女が家に入るのを見計らい、ギーヴは馬を家の傍の樹に括り付け、扉を叩いた。


反応がない。


何度か試しても反応がないため、さては夜のことだし怯えているか、と開いた窓から中を覗いてみた。台所にいる女は特に変わった様子もなく、竈の前に立っている。その後ろ姿にギーヴは首をひねり、再び窓枠を叩いた。

ふと何かを感じたように女が振り向いた。人がいることなど考えてもいなかったのだろう、ギーヴを見てびくっと震え、その顔には恐怖が張り付いている。投げつけようとでもしたのか、鍋に入っていた木のスプーンに手を伸ばしたが、その手はスプーンではなく鍋に当たり、真っ白な湯気を噴き上げながら竈から落ちた。土間に当たり跳ね返った鍋から液体が飛び散り、女は飛びのくように下がると、足を押さえてしゃがみ込んでしまった。


―――いかん。


ギーヴはひらりと窓を越えると女に駆け寄り、台に置いてあった桶を手に取ると水を女の足にぶちまけた。

「そのまま動くな。こするなよ。冷やさねば痕が残るぞ」

返事など待たず、ギーヴは桶を持って外へ駆けだし、井戸の水を桶に入れて戻ってくると再び女の足に水をかけた。何度か繰り返して、ギーヴは女の足を調べた。足の甲からすねの半ばまで、湯が水滴のようにかかったらしく、いくつか桃色の水玉のような火傷ができている他は、火傷の心配はないように思えた。ギーヴが顔をあげると、女は眉を寄せ、不信感をあらわにしてギーヴを見つめている。


ギーヴはさっと前髪をかき上げ、「誠実そう」にその手を胸に当て、とうとうと語りだした。


「驚かせてすまなかった。実は道に迷い野宿する場所を探していたのだが、この家の灯りに引き寄せられ窓から覗いたところ、まるで美の女神アシの生まれ変わりかと見まごうような美女を見つけてしまい、思わず声を掛けてしまった次第だ。その雪のような絹肌、夜の雫を集めたような漆黒の髪、瞳はその夜に輝く双星のようで、声は―――」


声は―――


女はいぶかしげにギーヴを見ていたが、ギーヴが話すのを止めたのを見ると、申し訳なさげに笑みを浮かべ、右手の指で自分の耳を指し、それから口元を指し、首を振った。


―――なるほど。


ギーヴは呟いて、腕を組んだ。


―――俺の武器である美辞麗句は役立たんわけだ。




女を前に、ギーヴは途方に暮れた。
 
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