紅色の時

□一
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     一


 その男、夜の京を速やかに駆け巡り─────己の背に迫る凶器を歯牙にもかけず─────背後に続く仇敵を撒いてゆく。入りくむ路地に身を紛れさせ、とうとう“道セ登組(ねせどぐみ)”を振り切った。
 腐った幕府の犬が。
 男は呟いた。
 幕府に忠誠を誓う警察浪士集団などと言われているようだがいったい現在(いま)の妖怪の操る見せかけの偽造幕府にそれほどの魅力が何処にあると言うのだ。
 「それにしても今夜は一段としつこかったな。少し活動が目立ちすぎたか。」俺がため息混じりに漏らすと
 「あんた攘夷志士か。」───── 誰か来た。いや、居たと言った方がいいのか。どっちでもいい。それより不味い呟きを大量にしていた気がしないでもない。俺はすぐに声の方に向き直り右の腰に左手を遣る。─────俺は愛刀の柄に手を掛け身構える。が、相手はこちらに両掌をひらひらと向けて、同志やないかい、よそうや。と言ってきたのだ。
 「わいもお前と同じ攘夷志士じゃ。わいは“皇権党(おうけんとう)”に所属しとる笹原っちゅうもんじゃ。おい。」
 男は一方的に話を繰り出してくると、首を後ろにひねり、仲間が居るであろう処に声を発した。すると奥からさらに二人の浪士がおもむろに歩き出てきた。
 「あんた、無所属なんやったら皇権党(うち)入らんか。あれだけの多勢を振りきって逃げるんや、こら相当慣れとると見た。わいはこれでも皇権党幹部や。───どうや。今度、道セ登組の局長暗殺を計画しとるんやけど。一緒にけぇへんか。」
 「あの局長を殺せば幕府が───世が変わると言うのか。」俺は彼らに少々冷たい視線を送った。
 皇権党。到幕をもくろみ、妖怪を廃し世を変えることを掲げてはいるが実際にしていることと言えばただの人斬りと爆破に過ぎん。第一、幕府の後ろにある妖怪組織は手を出すとかなり厄介だ。権力や戦力的にも我々攘夷浪士だけでどうにかできる問題ではない。俺は俺達が今できる事は目の前で起ころうとしている幕府の隠蔽や妖怪による事件を未然に防ぐことだと考えている。反政府側の俺達はただでさえ追われる身で活動がしにくい。攘夷志士の中でも皇権党はいわゆる過激派攘夷浪士集団だ。同じ攘夷を掲げても─────むしろ彼らの活動を邪魔するのが俺達“攘夷会”だ。
 「断る。」語頭に悪いがというのを入れれば良かったと思ったが、俺はあからさまにはぐらかした言い方をした。
 「局長暗殺など無意味。道セ登組の怒りを買い、民から怖れられ何がなせると言うのだ。」そう、貴様らごとき浪士集団だけでは世はどうにもならない。より多くの信頼を得ぬことには。 やめておけ、と言いかけたときだ。
 「笹原さん!間違いねぇ、この長髪、左利き!攘夷会の会頭、峅花冬珸郎(くらかとうごろう)でさぁ‼」
 「峅花だと……?じゃあ近頃毎度毎度皇権党の邪魔しとんのは貴様の処かい。」
 こうなると面倒だ。やはり変装が少し甘かったのか。
 「わざわざ変装して逃げ回っていたのにどうしてこうもすぐ気付かれるのだろうな……。」
 「その傘帽子のどこが変装なんだ。何に身をやつした気でいるんだよ。」
 逃げよう─────
 峅花は再び走り出した。言うまでもなく身の危険を察知した故にだが、べつに彼は刀を振るえないのではない。彼が会頭を務める攘夷会はいわゆる穏健派。特にこの男は反逆妖怪こそ簡単に始末するものの滅多に人を斬らない。
 普段の峅花は決して人前で物事を知悉していることや狡猾な方法も思い付くことなどという顔を見せない。
 しかも‘逃げの冬珸郎’と称されるほど戦いを好まない。それゆえ彼を信頼するものも多かった。だが先程も言ったように刀を使えないのとは違う。むしろ彼はこの時代屈指の大剣豪なのである。─────そう、彼こそ。紅(くれない)の剣士の一人である。
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