main1*色彩と音

□あの子の音色
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ー小さな手が、あの日奏でた音色ー









風が淡い緑に色づいている、初夏の昼下がり。
朱(あけ)は閑散とした道路の脇を歩いていた。この時間は時折車が飛ばして抜けていくだけだ。

黒いブラウスの袖を適当に捲りあげた彼女の手には、財布を入れた小さなバッグがひとつ。十年前に離婚した夫から貰ったものだった。
携帯を忘れて出てきた事には、今しがた気付いた。
「別に、使わないし…」
本音である。これから朱は、この街ではない遠くへ消えるのだ。
居なくなれる訳はなくとも、居なくなった気分で逃げたいのかも知れない。



ただの逃避だと言われても、今更どうでも良いような気がしていた。
ーなんだか、どうして此処に居るのか分からないんだ。
ひと月前、随分と会っていない昔の友達からの電話に、ぽろりとこぼした一言。
その言葉が出てしまったとき、今いる世界から遠い場所へ、行ってしまおうと決心した。



細い道を出て駅に向かう道の途中、朱は様々な音を聴き、風景や人を観た。
行き交う車のエンジン音や、制服で笑いながら歩く子たちのローファーの足音。昔よく通った古い喫茶店の看板を、丁寧に拭いているウエイター。
今日でここは最後だからと、無意識にいろいろなものを感じ取ったのかも知れない。いずれにせよ、普段なら気にもしないものばかりだった。
感覚が、少しばかり敏くなっている。
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