小説(短編)

□名は知らぬ
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恋とは何か、そんなことは考えたことがなかった。私の人生に縁のないものだと思っていた。


恋とは何ぞ、と問われ
ある者は「心を豊かにするもの」と答え、
またある者は「恋こそが人生そのもの」と答えた。
私はその問に答えられなかった。皆
が“恋”と呼ぶものを経験したことがなかったから。
人を心から好きになると言うことはたいそう苦しく、そして素晴らしいものだと聞いた。
戦に生きる私には今も、そしてこれからも、関係のないもの。そう思っていた。














……






「あ、いたいた!探したんだよ」

山を散策していた私に、鳥が歌うような声色で誰かが話しかけてくる。
それが私に向けられた言葉だと知りながら、私はその人の言葉を無視した。振り返ることなく真っ直ぐ、自分の行く道を急いだ。

どうしてかと聞かれれば、その声の主が“佐々木小次郎”であるからとしか言いようがない。
彼を避けているわけではない。彼の声を聞くとひどく動揺し、彼と言葉を交えるとその言葉の意味を深く追求してしまう、そんな自分が嫌だから無視した。

「無視なんて酷いなぁ…僕は君とお話しする為に追いかけてきたんだから」

“追いかけてきた”その言葉に体が反応した。胸が痺れるような感覚が襲い、瞼を閉じる。
嬉しいと素直に言えば良いのだろう。けれど、そんな言葉は恥ずかしくて、とても言えなかった。

「…ごめん、考え事をしてて気付かなかったわ」

私は苦笑し、嘘をついた。ゆっくりと彼の方に振り返る。当たり前だが、彼は私に無視されたことに対し機嫌を損ねていた。
子供のようにむくれて、私の顔をじっと見つめてくる。
その瞬間が美しいと思った。おかしな表現の仕方だけど、本当に美しかった。彼と共有しているこの一瞬が。
ずっと彼を眺めていたいと心から思い、小次郎の長い睫毛を見つめた。髪の色と同じで、艶やな黒。
やはり、無視などしなければよかった。
彼に不愉快な思いをさせてしまったことに後悔して、私は自分の中だけで謝罪した。
あまりにも長い間小次郎の顔を見つめていたらしく、彼は少し笑って、私の頬を人差し指でつついた。呆れたような、しかし慈しむような笑い方だと、私は思う。
我に返り、急に恥ずかしくなって顔を赤に染めた。彼から目をそらした。自分でも分かるくらい顔が熱かった。

「今日は様子がおかしいよ、君」

小次郎はクスクスと笑いだした。
自分でもそれくらい分かっている。“小次郎といる時の私はおかしい”
その理由は自分でも分からない。
この感情の名前を私は知らない。
小次郎は知っているだろうか、だとしても教えてくれなくていい。
知れば、今よりも動揺する自分が目に見えている。


私達は険しい山道に立ったまま、会話を続けた。会話に夢中になりすぎて、この場所がどこであるのかを忘れるくらい、楽しい時を過ごした。
しかしさすがの私も、小石や折れた小枝が不規則に転がる山道で、長時間立っているのはきつい。
足を不自然に動かしたり、しゃがみ込もうとする私に気付いた小次郎は、近くにある廃寺に誘った。
私も躊躇いなく、今にも壊れそうなそこへ入った。

入ると埃だらけの廃寺は、カビの匂いがした。木でできている床は雨の水分を含み、腐りはじめているようだった。
しかし、そんなことはどうでもいい。
小次郎さえいれば、細かいことなんて気にならなかった。


「…そう言えば、本当はどうしたの?わざわざこんなとこまで追いかけてきたんでしょ」

私は今にも崩れそうな床に座りながら言った。床には所々穴があいているので、よく視界を凝らしながら。

自分でも刺々しい言い方をしてしまったと思う。
考えるより先に言葉が出てしまう自分の癖を恥じた。

「どうしてって…そんなの君と話したかったからに決まってるじゃない」

「どうせ、また人斬りの話でしょう?それとも武蔵の話?」

小次郎は私の発言など気にせず、笑っていた。無垢な瞳で、今までにないくらいの優しい顔で、笑っていた。
少し不思議に思った。その表情があまりにも大人だったから。
いつもの彼の表情とは違っていたから。
暫く考え、彼の瞳の光を見つめた。

その光に、私は悟った。

彼は、“化粧の下の人物”に戻るきっかけを見つけたのではないか、と。
彼の漆黒の瞳の中、ゆらゆらと揺れる光は明るかった。今までの闇の色は、消えて無くなっていた。

そんな私に何かを感じ取ったのか、小次郎は抱きつかんばかりに飛びついてきた。

「ね、聞いて、武蔵が僕と試合してくれるって!時期はまだまだ先になりそうだけど」

明るい声だった。瞳の光と同じだった。
私はその言葉に胸が詰まらせる。それは彼にとって、とても幸福な出来事。けれど、私はその先のことを考えた。
“もしも、小次郎が負けたら”
武蔵のことだから、どちらかが刀の柄を手放した時点で勝敗を決める、そう言う決まりで戦うことに決めたのだろう。だからその点に関しての心配はない。
その先、決闘の帰りに小次郎を狙うお上や他の誰かが、彼の命を奪ったら…。
考えただけで目眩がした。しかし何か、何か彼に言わなければ。伝えなければならない。本能的にそう思った。
乾いた口の中で、空気を飲み込む。


「…その後、一緒に南の島に逃げよう」


咄嗟に出た言葉は、彼への心配でも祝福でも何でもなく、そんなものだった。
自分でも笑えるほど中身が無く、私の望みでしかないそれは、小次郎にどう伝わったのだろう。
こんな時まで私は、自分のことばかりだ。
情けない、と拳を握る。
小次郎が良い方向に変わったことに対して、私は何も触れられなかった。
気が遠くなりそうな中で、私は彼の言葉を待った。否、私の心を静めてくれる言葉だけを待った。
彼と視線を交わすことさえ恐ろしく、俯いたまま。



「…そうだね、しがらみがだんだん迫ってきてる…。乱を起こしたい人も、お上も、僕に近づいてきてる」

しばらくの間があった後、小次郎は今までにないくらい真剣で、それでいて痛みを堪えるような表情で私に言った。
彼は知っていた。私が本当は、小次郎がどこにも行ってほしくないと願っていることを。
“ごめんなさい”そう言おうとした。祝福すればよかった。武蔵との決闘は彼が一番望んだことではないか、それなのに私は何を言っているんだ。
私の気持ちだけで、彼を足止めしてはいけない。
しかし私が謝罪の言葉を考えている間に、小次郎は再び口を開いた。


「君と一緒だったら、僕は剣がなくても生きられる。たぶん、過去の後悔もなにもかも、忘れられる」

「素顔の僕に戻れるかも…」


一瞬、時が止まったのかと思った。
私は目を見開き、小次郎の顔をじっと見つめる。
その言葉が本当に小次郎のものかどうかを、必死に探った。
夢でもみているのではないかと疑う程、私が待ち望んだ言葉そのものを。
しかし、その発言に嘘がないことを彼が、彼の表情が一番語っていた。
優しく笑んでいるその姿は、誰のものでもない小次郎のものだ。
あの言葉は誰のものでもない、小次郎が紡いだもの。小次郎が自分の意思で発したもの。
油断すると泣いてしまいそうで、私は唇を噛み締めた。必死に彼の言葉を飲み込もうとした。
壮大な幸福感。
胸から溢れ出る歓喜の叫びは、私の体に貫通する。
堪えきれなかった感情が、私の目から溢れ出してくる。
彼の前だけでは、泣きたくなかった。しかしもう、自分の意識と感情を操れる理性など、私の体からは飛んでいた。

「ありがとう…。武蔵との試合が終わったら、二人っきりで逃げよ」

小次郎は私の泣き顔を見て優しく微笑み、抱きしめてくれた。
その掌があまりにも温かいので、私はまた泣いた。
互いに出会ったことで救われた奇跡に、その喜びを泣くことでしか伝えられなかった。今はただ、この想いだけに浸っていよう。
嗚咽がひどく、室内に響く。
二人しかいない廃寺は、寒かった。





小次郎へ向けるこの想いを、この想いの名を、私は知らない。
知らなくても良い。私達が確かにここに生きていて、こうして抱き合っている事実さえあれば。



未来への淡い期待は、ほのかに甘く香り立つ。
今にも崩れてしまいそうな、脆くて優しい、二人の御伽噺。
この結末を私達は知らない。

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