薄桜鬼
□妬くだけ想って
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斎藤は満足していた。
日々の隊務は充実している。何より心と、若い身体も満たされていた。
では何故、このような状況になっているのか。
気が付いたら、艶やかな着物を自分の下に組敷いていた。男所帯の屯所では無縁の、甘い香りが鼻腔をくすぐれば、ふだん悪酔いなどしない斎藤だったが、たまにはこんな日もあるらしい。
………俺も男だったというだけのこと。あの人も気にはしないだろう。
着物の艶やかさに負けないくらいの、真っ赤な唇が何か言葉を紡いだが、すでに斎藤の耳には音として届いていなかった。
「大変だ、土方さん!」
「……」
今夜は久しぶりにゆっくり休めるはずであった土方は、勢いよく開け放たれた自室の先に視線を向けた。
「…一声かけやがれ」
不機嫌丸出しになるのも無理はない。今まさに、至福の時につこうとしている所に怒鳴り込まれたのだ。
床の準備をしていた土方は、ドカッと胡座をかいて永倉を睨み付けた。
「あ、悪ぃ…でもよ、酔っちまって大変なんだよ」
そう言う永倉もかなり酒臭い。どうせいつもの顔ぶれで、島原通いに違いない。まったく、こっちは月が顔を出している内に床につくのが何時ぶりだったと思っているんだ。
「原田か、平助か」
大事になっていないだろうな、という意を含めて永倉を見据えた。
すると永倉は、まったく思いがけない名を上げた。
「ちげーよ、斎藤のやつだよ」
「は…?」
まったく予想だにしない名を耳にして、土方が自分なりに話の筋道を読もうとしていると、
「あいつがあんな悪酔いするなんてな…。佐之と平助は、斎藤の酒を止めてる」
心底疲れきった様子の永倉の言葉は、嘘や冗談ではないだろう。けれど、斎藤は酒好きだが、羽目をはずすような飲み方は決してしないはずだ。
とにかく来てくれと言う永倉に、土方は袴を着け直して屯所を出た。
「あいつ、潰れちまってから土方さんの名前ばっか繰り返してんだよ」
島原に向かう道の途中で、永倉はしぼんだ声でそう言った。人騒がせな事もやらかす永倉は、けれど仲間思いのいいやつでもある。
「だから土方さんが迎えに行ってやれば、何とかなると思ってさ」
二人は足早に、島原への最後の角を曲がった。
ドンッ!
「悪い」
出会い頭に、土方の胸に勢いよくぶつかってきた相手に謝罪する。
しかし直ぐに、
「…平助じゃねぇか」
「ふぃじかたさん…」
ぶつけた鼻を両手で押さえながら、顔を上げた藤堂の両肩を掴んで落ち着かせる。何時になっても子供のような落ち着きのなさが抜けない藤堂は、同じ齢の斎藤を見習わなくてはいけない。
「どうしたんだ、平助」
「一君、あれから妓と部屋に籠ったきり出て来なくて。相当酔ってるから、心配で。かといって、その、開けるわけにはいかないし…」
おろおろと顔を赤らめて事情を説明する藤堂を、土方は遠い目で見つめていた。
「斎藤に限って乱暴な事はあり得ないと思うけどよ、一応急ごうぜ、土方さん」
永倉が島原大門に足を向ける。
「…やめた」
「「 え? 」」
永倉と藤堂が揃って土方を振り返る。
「斎藤の事だ、心配いらないだろう。門限までにはまだある。落ち着いたら斎藤を連れて帰って来い。ただし、お前らはもう飲むんじゃねぇ」
永倉と藤堂の酒はすっかり抜けている様子だ。もしもの時に、四人ともが酔ってもらっては困る。
「それと…この件が俺の耳に入った事は斎藤には言うな。あいつの顔も立ててやらねぇとな。どうせ、あいつは誰に言われなくても過ちを犯せば俺に謝罪にくるさ」
原田にも伝えろ、と言いつけて土方は来た道を戻って行った。
いくらか歩くと、先に二人組の二本差しがこちらに向かって歩いて来る。顔は辺りが薄暗くてよく見えない。擦れ違いざま、土方は意識的に路の左に避けた。
二人組は避けない。
擦れ違う。
『おい待て』
「……」
やはりな、とうんざりしながら足を止めた。
『刀が当たった、謝れ』
一人が、当たったらしい場所を指でさしながら言い寄って来た。
土方が無言でいると、
『おまえ、新選組だな』
もう一人がそう言って土方と距離をとると、刀の鯉口を切った。
『なにっ、仲間をさんざん斬りやがって』
最初に言い寄って来た方は、すでに抜刀して土方に向き合っている。
土方は刀に手もかけずに言った。
「俺を新選組副長の土方と知っての上でやろうってんなら、相手してやるが…」
『なにっ、土方…』
「俺は今、虫の居所が悪くて仕方ねぇ。そんな相手に八つ当たり同然に斬られても命の無駄になるだけだろう。主人に申し訳ないと思わねぇのか」
もしこのまま斬り合いになれば、不逞浪士の征伐云々よりも、ただこの腹立たしさをぶつけるだけの、酷い斬り方になると土方は確信していた。
尚も退かない二人組に、土方が刀に手をかけようと動くと、
『…くそっ、新選組、いずれ覚悟しておけ』
二人組は二三歩後ずさったあと、刀も納めずに走り去って行った。