薄桜鬼

□黒の恋衣
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人は、不吉なものに出会う日が、生きているうちに何度あるだろうか。おそらく、そう滅多にない。もしあっても、いつもと変わらないまま、一日を終えるだろう。それを見た時は、不吉だ!と思うかもしれないが、然して気にせず過ごすのが普通である。

それが、迷信やら言い伝えやらという類いのものにまるで感心がない人間なら尚更…







日差し照りつける炎天下、息を切らして漸く落ち着ける場所を得た。
そこは木陰で、暑さに弱った体力を幾らか回復する事ができそうである。黒の着流しはすっかり汗を吸って、色を変えていた。
右に差した両刀を抜いて腰を下ろす。


一息吐いて、空を見上げる。木々の青々とした葉の隙間から、眩しい光が差し込んできて、目を細めた。汗が、首筋を流れて伝う。

目を閉じれば、すぐ傍で激しく鳴り響く木刀と怒号。腰を下ろした地までも揺れている。


………ここは道場だったのか。


あまりに質素で、世辞にも立派な道場とは言い難かったから、気がつかなかった。ここはその裏らしい。


こんな田舎にも道場が、と思いつつ疲弊した身体を道場の壁に預けた。壁を伝ってくる振動が心地よく、蝉の声がぼんやりと遠退いていった。







ーーーー



土方はこの三日間、家伝の薬を売り歩きながらぶらぶらしていた。流石に今日は家に帰らないと不味いなと思いつつ、試衛館に立ち寄る。歩いて来た方向は、道場の裏側だったから表へ回ろうと行きかけると、その足を止めた。


この蒸し暑いのに、真っ黒の着物をきっちり着込んでいる男がひとり、座り込んでいる。
土方は眉を潜めた。
つい先ほど黒猫に行く手を横切られたばかりだというのに。また似たようなものに出くわすとは。
そっと近づいてみる。



「……」


この辺りでは見かけない容姿をしている。どうやら眠っているらしい。立派な両刀が傍らにある。浪人だろうか。よく見れば、着物は所々擦り切れ、髪も足袋も汚れが目立った。
とにかく、こんな不審な奴をここに置いてはおけないと思い、道場主の近藤に報せに行こうと一歩踏み出した土方に、白刃が降り下ろされた。


「く…っ!!」


咄嗟に身をかわした土方は、商売道具と共に持ち歩いている竹刀を素早く取り出し、相手の手首を打った。


「っ…」

男の手からが刀が落ちたから、土方はそれを蹴り飛ばした。それを見た男は刀を目で追ってから、土方を鋭く睨み付けた。打たれた左手首を右手で押さえている。


………なんて目ぇしてやがる。


怒りだけではない。人を信じていない目。恐怖の色を映している。恐怖心故に攻撃に出たのかもしれない。

男は、膝をついて踞った。相当弱っているらしい。


土方は黙って男の横を通り過ぎると、飛ばされた刀を手に取り戻った。男の横に立つと、男はびくりと肩を揺らした。


「見事な抜き打ちだな」

「……」


男は黙ったまま顔も上げないが、土方は構わず続けた。


「てっきり寝てるものだと思って油断した」

大したもんだと、土方は男の前に刀を置くと、バッとそれを自分の身体に抱え込んで再び踞ってしまった。

それを見た土方は、何だか獣を相手にしているような気分になってきた。


「…俺は何もしねぇよ」

「……」

「ほら、そんな身体じゃぁ何もできねぇだろ」


土方は、荷の中から握り飯をひとつ男の前に差し出した。すると、顔を上げた男は土方の手からそれを奪うようにひったくって口に押し込んでしまった。


「げほっ…」

「馬鹿野郎」


男の背中をさすって落ち着かせながら、土方は考えた。上手くコイツを手懐けたら、自分の子分にしてもいいと思っている。多分、剣は相当使えるに違いない。


………しかし懐くかどうか。


男を見ると向こうも顔を上げて、一瞬ふたりの目が合った。不気味な雰囲気を纏っているわりに、澄んだ色の目を隠し持っていた。

男は直ぐにぎこちなく目を逸らしてしまったが、土方が思っていたより彼が若いのと、今は汚れているがその顔は結構な器量良しである事に気づいた。
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