薄桜鬼
□1週間前の幸せ
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手元から、ファイルに挟んであったプリントがバラバラと滑り落ちた。
冬のまだ薄暗い早朝の電車内は、人の数もまばらである。一(はじめ)は、毎日この時間に通学する。通勤ラッシュを避ける目的と、授業開始1時間前には教室にいないと落ちつかない性分のためである。
自分の偏差値よりも少し背伸びして入学した憧れの高校である。だから、受験に受かった時は両親も年の離れた兄も、一の合格を心から祝福してくれた。
家族は一を大切に育てていたから、一の第1希望がたまたま男子校だったとはいえ、悪い虫(女)がつかなくて済むという意味でも密かに安心していた。
覚悟はしていたが、自分の学力より上の学校に入学したことで授業についていくのが大変だ。
毎日の予習復習は欠かせない。
だから、早い時間の空いている車内で通学時間を利用して勉強している。
けれどこの日は不覚だった。
静かな車内、心地よい揺れ、足元の暖房…
プリントから顔を上げ、つぎの停車駅を確認する。
………大丈夫だ。あと10分だけ。
テスト明けの疲れのせいか、少し目を閉じるだけのつもりが完全に意識を手放してしまった。
深い微睡みの中、右肩をつつかれる。ハッとしてそちらを向くと、ひとり分の座席を空けて座る男性がいた。その人は右手に文庫本を持ち、左の人差し指で一の足元をさした。
見ると、手に持っていたファイルから何枚ものプリントが床に散らばっていた。
「ぁ…」
軽く会釈して、プリントを拾い集める。残り1枚に手を伸ばそうとした時、電車が揺れてバランスを崩した。後ろに尻餅をつくかたちになると、目の前にプリントが差し出された。
「ぁ…ありがとうございます。」
プリントを受け取りながら、さりげなくその男性を見る。兄と同じ位の歳だろうか。きっちりした黒のコートと光沢のある黒の革靴が、印象的だった。顔は、失礼なのでしっかりは見れないが端正なのはわかる。
………普通のサラリーマンではなさそうだな。
勝手にそんなことを思っている。一は、マフラーを巻きなおして斜め掛け鞄を体に通すと電車を降りる準備をする。
電車を降りる間際、ちらりと座席を見ると足を組んで読書を再開した様子の男性がいた。
まるで、先程の一とのやりとりなんか何も無かったかのようである。
その横顔だけは、はっきり見ることができた一は、何故か少し残念な気持ちになった。