うんざりするほど胡散臭く陽の光の射さない陰鬱とした館にも、探せばいいところはある。たとえば朝に早起きをしなくていいこと、夜更かしが咎められないこと。壁時計がなくとも体内の感覚で時間を割り出せるようになったこと、とか。部屋数が無限に増え続けているから探索に飽きが来ない、などなど。挙げてみると無性に悲しくなるのだが、だけどその中でもここは、飛び抜けて、いい。この部屋においては正真正銘いいところだと手放しで言えた。

 承太郎は扉を押す。

 見た目にはこじんまりした扉を抜ければ、その小ささからは想像もつかない空間が広がっている。いつ見ても大きな部屋だった。面積はこの館内でも一番かもしれない。ただ、とにかく密度が濃いので広いとは感じられない。代わりに圧倒されるのだ。世界中の情報が集まっているような、重々しい雰囲気がある。ある本は棚に押し込められ、ある本は床に積み上げられて。生理整頓されていない雑多な感じがまた、膨大な歴史の積み重なりを思わせてくれる。圧巻だった。決して気圧されたり疲れたりせず、むしろ癒しを求めて、承太郎は訪れている。書庫は、『ひとり』になれる秘密の隠れ家だった。

 前回来た時に読んだやつ、旅に関するものの中でも、その移動手段について詳しくみっちりと書かれていた体験記、あれはよかった。船での世界一周だなんて心踊らねえ男はいないだろう。さて、手を伸ばして取れる範囲にあるものはもうあらかた読み尽くしてしまった。今日はどんな本に時間を渡そうか。

 「船……あぁそうか、海もいいな」

 旅の最中に仲間と見て、触れて、感じた青さを、今でもよく覚えている。海、海洋学……英語の綴りを思い浮かべて歩き出す。新しい出会いを求めて動く承太郎の脚は軽い。こんな風に没頭している間は何の枷をも感じていない。肉体は見えない鎖で館の中に繋がれていようとも、思考は海を泳いでいるのだ。広大な知識の海を。

 「む」

 そんなお気に入りの場所で、気に入らない黄色いかたまりを見つけた。連なる棚と棚の隙間には本を読むためのスペースがある。ちょうど学校の図書館に置かれているような長方形の机が一つ。上に本が散らばっているのはいつものことだけれど、その合間に見えたのだ。黄色……それよりももっと目に美しい黄金色が。肩が下がった。承太郎は脱力した。がっかり、していた。情けないと思う。だけど分かってくれとも思う。だって。

 「隠れ家は見つかったら秘密じゃあなくなるんだぜ」

 しょっちゅうガキだガキだと言われてきたが、それを言うのならそのガキの夢を壊すな。

 癒しの夜がお預けされた腹いせに黄金色を小さく小突く。

 本と一緒に机へ横顔を埋めている『それ』は、一度見たら忘れられない鮮烈な目を、今は閉じている。おかげで辺りは薄暗い。元々電灯も壊れかけている部屋なので蝋燭は必須だ。『それ』の傍に燭台を置いて、いつもこそりとポケットに忍ばせているライターで火を灯した。光源を得れば、いかなる苦痛もあらゆる悩みもない穏やかな顔が、蝋燭の灯に照らされて白く浮かび上がる。

 「お疲れか」

 すやすや、なんて可愛い呼吸音は間違っても聞こえないが、近くから覗き込んでも大人しい。安らいだ表情はぴくりとも崩れない……眠りこけていると結論付けるには十分だった。

 「自慢の寝床はどうしたよ、DIO」

 DIOが居眠りをする場面、滅多に見られるものではない。承太郎が知る限り、夜明けの到来に合わせて棺桶に入るか、巨大なベッドでごろごろしているか、どちらかだ。だけど、そういえば以前にぼやいていた。

 『棺桶が狭く感じてかなわん、貴様とベッドで過ごすようになってから』

 たしかに、ごろごろターイムの時には一緒にいることが多かったけどな……だがあれは。

 あれはDIOに引きずり込まれているのであって、ゆえに、責任を問われる謂われはない。断じて、ない。

 DIOの我儘を思い出すと苛々した。でもその気持ちも、だんだん沈んでいく。やはりこれでも結構堪えているらしい、と承太郎は微笑む。気落ちする自分への、精一杯の苦笑だった。

 「このやろう、何で居るんだよ。ひどい男だな」

 寝不足の相手へ、しかも相手の所有する館の中で、こんな悪態吐くのは理不尽か……いいやこれぐらい言わせてもらう。今宵は、「来い」とも呼ばれず「おはよう」との来訪もなく、月が綺麗で静かないい夜だった。久しぶりに自由を満喫できると思った。まだ読んでいない、読みたい本を発掘しようと、これでも浮足立って歩いてきた、暗い廊下を。会いたくない、顔も見たくない……そこまで強く拒絶するほどにはまだ精神を病んではいないけれど、楽しみにしていたんだ。自分の時間が欲しかった。予想外の遭遇に、僅かな楽しみのほんの一時まで取り上げられては、落ち込みもする。

 「おれの全てを奪わなければ嫌だって言うならてめぇこそガキだ」

 大体DIOがここに居ること自体、かなり珍しい。埃っぽくて古い紙の匂いに満ちる書庫は、多少大げさだが謂わば砂漠のオアシス、承太郎はここに居ると落ち着く。対して、DIOは真逆だ。古臭さが好きではないようで普段はまず近寄らない。そのくせ本自体は好きな読書家だから読みたいものがあれば部下に取りに行かせている。まったく大した帝王だった。この間も、あれとそれとこれを持ってこい、と当然のように執事に命じていた。

 

 有名な古典だったのでどんな本か、承太郎には分かった。当然執事も察しただろう、だから青褪めたのだ。彼もDIOも承太郎も数冊がどれだけ分厚く殺人級に重いのかを知っていた。大人の男でも数冊持てるかどうか。力に特化していないスタンドにも持ち切れないのではないか。別に、執事を助けるつもりもなかったけれど、誰にでも発揮される横柄な態度にいい加減物申したくなり承太郎は待ったをかけた。DIOが渡そうとした走り書きのメモを執事に代わって横から取り、DIOへと突き返した。

 「てめーの館のてめーが集めたてめーの本だろうがてめーで行け」

 DIOは盛大に嫌そうな顔をしてから、それを誤魔化すように嘆息した。

 「はッ」

 目の前のメモをくしゃくしゃに丸め、遠くへ放った。

 「昔何度も行った。黴の臭いもさんざん嗅いだ。だからもういいんだ。行かなくても」

 その日はそのまま横になった。


 
 「あれは不貞寝だったよな」

 黄金頭をつつくのにも飽きた。手が暇だったから、無造作に開かれたままとなっている本のページを撫でる。

 「どれ、何を読んでいた?」

 雑食のDIOが今晩の共に選んだものとは。単純な好奇心から英字をなぞっていく。知らない単語は、多分、専門用語。それが多くて中々に難解だ。気付けば熱中していた。図解や絵が描かれていたのは助かった。分からない部分もニュアンスで読み進められた。

 「動物の求愛行動について……わけが分からねえぜ」

 どうして読もうと思ったんだこんなもの……個人的にはえらく興味を惹かれるが。

 「これを読みたくて、わざわざ来たのか?」
 「ん、ああ、うん、そうだな」

 どくんと心臓が跳ねたが、DIOはまだ眠っている。ただの寝言だった。DIOは言った。もういい、もう行きたいとは思わない……そう言いながらも、今、過去と似た場所に居るDIOは夢を見ているのかもしれない。昔の、夢を。

 「昔何度も、ね……こういう広い書庫もあったんだろうな。ジョースター邸は」

 何といっても貴族だもんな、と、遠いようで近い昔話を一から思い返してみる。勇敢だった紳士のお話。母や祖父が子守唄として聞かせてくれた冒険譚を幼い頃の承太郎は好きだった。また聞かせてほしいと無邪気にねだっていた。そこで流された血や涙も知らずに。子供の頃はお伽噺として、少し前までもにわかには信じ難かった、一族の歴史。凄惨な出来事。全ての始まり。祖父の祖父、ジョナサン・ジョースターの物語。彼だけじゃあない、彼と。

 「DIO……ディオ・ブランドー」

 もう片方の椅子を引いてDIOの隣に座る。黄金色……色素の薄さから生まれる金色の髪を見つめて、そこから一房つまむ。手触りの良いそれはあっという間に指から零れ落ちていった。火の明かりを吸収して煌めく、日本人にはない色。外国の色。『イギリス生まれの青年』の色。同じように机へ上体を倒して、額にかかる前髪を梳きつつ、もっと近くでDIOを観る。百年を生きる化物、最強を謳うスタンド使い、そういった先入観をしまってしまえば、こんなのは吸血鬼の面じゃあないな、と思えた。何のことはない、数歳年上の若者だ。大学生の居眠りだ。露出の激しい衣装を改めて、一度シャツにジーンズでも身に付けてみればいい。眼鏡をかけていないことが逆におかしいほど、今のDIOは普通だ。

 生まれた時は人間だった。人間として生きた年月もそれなりにあった。頭では『そういう日々があったこと』を理解している。だけどDIOが本当に普通の人間だった頃のこと。

 「何も知らねえ」

 話に聞いたこと以外は何も。いや聞いたことも、想像をするしかない。逃れられない宿命、因縁に巻き込まれるどころか、すっかり当事者となっているというのに。

 「おれは知らねえ」

 この男の、今の罪はこの目で見てきたけれど昔に犯した罪を知らない。

 「どんな男だったんだろう、な……きっと、我儘でプライド高くて一番が好きで外面は良くて。そんな感じかな」

 気にならないと言えば確実に嘘となる。しかし気にしたところで最早知りようもないことだ。分かっていながら承太郎の手は止まらなくなっていた。撫で心地の良い髪から、寝顔へと指が移る。人間をやめた瞬間から時を刻むこともなくなった顔。今の笑顔はすぐに思い浮かぶ……昔は、どんな風に笑ったのだろう。

 「ふ」

 と、遠慮なく触り過ぎたらしい。こうもぺたぺたしていればさすがに安眠も続かないか。

 「ふう、んん」

 鼻にかかった声を出して起きる。DIOが起きる。起きたら、その後はどうするかを考えて、承太郎は髪で遊ばせていた手を離した。このままだと見つめ合うことになるからちゃんと座り直して、背筋を伸ばして、完全に目が覚めるのをじっと待つ。さっきは文句も言ったけれど、出会ったからには仕方がない、諦めて開き直って……偶には読書をして過ごす夜があってもいい、そんな気分になっていた。背中合せに好き勝手本を読む、そういう小さなことで構わないから、DIOのことをもう少し知りたい、と思った。

 勿体ぶるように緩慢に、DIOの目は開いていく。現れる瞳が一瞬、青く輝いて見えた。全身に悪寒が走った。

 青、だと?

 驚いて、体が引けて、椅子の足が嫌な音を立ててずれる。その音にも言い知れぬ不安を感じて承太郎はDIOへ見入る。

 「うーん。いつの間にか寝ていた」

 目蓋を擦るDIOは机に頭を預けたままの状態で承太郎を見上げた。おいなんだ、と唇を曲げるDIOの表情や声色が子供っぽくて違和感を覚えた。だがそんなものは序の口に過ぎなかった。

 「人の顔をじろじろ見ているんじゃあないぜ、ジョジョ」

 DIOは絶対に、頑なに、呼ばなかった……呼ばないようにしていた、愛称。

 「でぃ、お?」
 「だからなんだよ」

 お前、どっちだ?

 承太郎の思いは声にならず、前触れなく蝋燭の灯は消えて、舞い戻った暗がりの中で立ち尽くす。見知らぬ過去に見つめられながら。





 「主人の危機には執事が面倒を見るもんだ、部下の中でもお前が一番付き合い長いんだろう」
 「何を仰る。過ごした時間の密度ならばあなたが一番濃い。違うとは言えないと思いますがねぇ」

 執事がちらと見たのは首だった。そこには色が付いている。学ランの襟で隠し切れない皮膚に残る鬱血の痣がある。もちろん『わざと』付けられた痕、を、承太郎はさり気なく手で覆ってから失敗を悟る。無意味なことをした、と。もう見つかっているものは隠しようがないし、一人寝とは無縁の吸血鬼と夜な夜なベッドに籠り何をしているか、なんてことは館では周知の事実だろう。

 見られて減るもんだったら良かったんだけどな。

 承太郎は思い切りよく首から外した指を、その勢いで慇懃無礼な執事へと突き付ける。

 「言い方を変えるぜ。何とかしやがれ」

 揺らがぬ瞳で執事を捉えながらも承太郎は自分自身に呆れている。どんなに格好付けて決めたって、できることなどこの程度、まさに『押し付け合い』だ。

 「ですからそう色々と振らないでくださいよ。わたしは医者でも何でもない、ちょっとゲームが得意なだけの一介のスタンド使いに過ぎない」
 「ならどいつの仕事なんだこういうことは」
 「それは……世間一般では、やはり医者でしょう」
 「じゃあ簡単だ。医者を呼べ」
 「そんな簡単に……あの方に医者? 本気で言っています? 大人しく問診を受けるとでも?」
 「なにイラついてんだ……よ」

 呼び付けた時点で既に半分切れかかりやけくそ気味だった執事に鬼気迫るものを感じて、不覚にも引いてしまった。それがマズかった。ますます強気になってさらに一歩踏み込んでくる。承太郎が手出しできないのをいいことに指まで突き付け返した。

 「いいですか、わたし達はあの方がこの世界に在る限りあの方の命令に従っていればいい。多少違った部分があっても」

 執事の視線がおそるおそると動く。その先に在るのは、人の生き死にも狂わす絶対的カリスマと他の追従を許さない力で形作られた男だ。

 「最強の力と支配力が備わった、悪人にとっての『王』であるのならば構わない。そんな我々には『これしきのこと』瑣末だと言ってもいい」

 『部屋の奥』へと気遣わしげな眼差しを送る一方で、顔を寄せてきた。『部屋の奥』には聞こえることのないよう最小限に潜められた執事の囁きが、承太郎の耳へと届く。

 「『この事態』に焦るべきはあなただ。どうにかしないと、あの方とあなたとの間で交わし合った約束も、無効になってしまう」

 脅しめいた台詞だけれど離れていく執事の表情に悪意はなく最後まで淡々としていた。魂そのものへうったえるように、かもしれませんよ、と、付け足して、

 「では、あとをよろしく空条承太郎」

 ばたん、と響くのは出入口が閉ざされた音……脱出経路が絶たれた音。外から鍵がかかっているわけでもないのに閉じ込められた感が否めない。

 あのゲーマー執事、ごちゃごちゃ言いながら結局のところ面倒事から逃げやがった。

 手に負えないと分かれば綺麗さっぱり切り捨て置いていく逃げ方は、いかにも小悪党らしくていっそ潔いけれど、しかしどうやら押し付けられたことに間違いはなさそうだ。むざむざ逃すことはなかった。てめぇの仕える男の一大事だぞと凄み、無理矢理引き留めるぐらいのことは今の承太郎にもできた。追おうと思えば追えた。追って、部屋を出られたなら良かった……だが現実は追えなかった。

 追えないまま、扉から目を離せない。それは振り返ることにためらいがあるからだ。振り返って確かめるのが、少し、恐かったのだ。執事が吹き込もうとしたことは、元より言われるまでもなく懸念していた。ああそうだとも。母の無事を『約束』したのは、百年を生きた吸血鬼なのだから。

 「置いていかれたな」

 『部屋の奥』……後ろから流れてくる軽い笑い声の持ち主は、どこまであの吸血鬼と同じなのか。違いがあるのだとしたら、それによっては『約束』も、意味を成さなくなるのではないか。

 『貴様に興味がある。わたしの下に留まるのなら母親を助けるための知恵を貸してやる』

 それは『あの吸血鬼』が持ちかけたこと。

 「おれ達二人きりだ」

 『この吸血鬼』を前にして、そんな『約束』が通用するのか。

 「なァ、まだ知らないことがたくさんあるんだ。イロイロ教えてくれないか、このディオに……若きジョジョよ」

 今となっては呼ばれる機会もなかった響きに振り返ってしまう。肩越しに見やれば、欲望の隠し方も『まだ』知らない瞳がぎらぎらと燃えている。

 「さっきのあの男、あれが今のおれの執事か。見たところ人間のようだが教養があり思慮深い印象……ワンチェンよりは使えそうだ」

 誰だワンチェン。

 「今の時代にも生きているだろうか、あいつ、ワンチェンは元気か?」

 知らねぇよワンチェンおれに聞くなワンチェン。

 「やれやれだぜ」

 もう一人の館の住人、盲信の忠臣も今日に限って留守。よって、訪ね人が来ることはなく、ノックされることもない、沈黙を貫く扉。その前にいつまでも立っていたって事態は好転しない。解決手段を丸投げされた、もとい託されたからには何が何でも『どうにか』しなければならなかった。もしも万が一が起こった時、割を食うのは自分だけ……そうとはいかず、大切な身内に害が及ぶのだ。

 だけど、おれにできるのか。できることは、あるのか。

 「殴って元に戻ったりしねぇかな」

 心の疲労が脚に出て、ふらつくついでのようにベッドへ腰掛けた。

 「波紋も練れぬモンキーには無理なこと。無駄無駄ァ」

 ブランドーの姓を名乗る青年が肩を震わせて笑うのでベッドが軋む。四つん這いでもして傍に寄ったのだろう、距離が縮まっていた。承太郎の横には彼がいる。ちょっと顔を傾けたらばっちり目が合うだろう。DIOの姿をしたディオと。

 執事に見捨てられる主人とは哀れな、などと同情している場合じゃあない。解決手段を丸投げされた承太郎は、せめてどうしたら治るのかと聞いておくべきだったと執事の見解を反芻する。記憶喪失、それとも幼児退行。独りごとのように執事が呟いたキーワード。現実感はないけれど、受け入れなければならないだろう。今日はまだ一回も、名前を呼ばれていないことを思えば。



 あれから、書庫じゃあどうにもならんと踏んで、移動をしていた。来いと言って素直に聞くとはとうてい思えなかったから、スタンドの力も借りて引っ張ってきた。スタープラチナに掴まれて、驚愕と戸惑いが滲む目にはスタンド像が映っていないようだった。記憶が変われば精神エネルギーも変質するのだとすると、ザ・ワールドも出せないということになる……スタンドはスタンドでしか倒せない……今ならやれる……と思いはしても実行に移すだけの余裕が承太郎にはなかった。男と同じくらいに戸惑っていたのだ。DIOが消失してしまった事実に。そうして着いたのがここ、DIOの寝室だ。言葉の通り、寝るためだけの一室。だが言うまでもなく不必要なほど広いし、一見シックな、実は桁違いに高価な年代物の調度品がそこかしこに置かれている。ここでなくてもよかった、執事の元へ直接連れて行く選択肢もあったはずなのに、しかしここしか思い浮かばなかった。承太郎にとってDIOと過ごす夜といえば、ここしかなくて、ここが全てだった。

 豪勢な部屋の主は今、中央のベッドに座っている。承太郎と一緒に。毎晩のように寝転んだシーツは今日も体重を受け止めて柔らかく沈む。承太郎は脚を開き堂々と体を預けている。けれど部屋の主兼ベッドの主にはいつもの悠々とした態度がない。ちょこん、という表現が似合う様子は『借りてきた猫』そっくりだ。緊張するDIOだなんて新鮮だった。いやDIOではないのか。

 「どうして波紋を受け継いでいない? お前らの時代、吸血鬼は脅威ではなくなっているのか」
 「じじいは教えちゃあくれなかった。必要ないと思ったんだろう。そういう意味じゃあ、そうだな、吸血鬼なんてのはフィクションの産物だった」
 「じじい……ジョセフ、はジョナサンの孫だったか。エリナとの子、の子。ふうん」

 執事の退出を見送ってからというもの、自分の知っている単語を口にしては承太郎から何かしらの反応を引き出そうとしている。『現在』というものを把握しよう、と考えている。DIOは……ディオは、ディオなりに不安なのだと承太郎は思った。未知の『未来』を恐れているのだ。

 「こっちを向いてみろよ」

 隣同士座ってはいるものの互いに相手を警戒していたので、これといった接触はなかった。承太郎は『どうにか』を考えることに忙しかった。だから最初に行動したのはディオの方だった。学帽を奪われて、手が出そうになったのを必死に堪える。承太郎の忍耐にもディオは無関心だ。自分の前にいる者がジョナサンでないと分かっても、ディオは大きく首を捻っている。ううむ、という演技めいた唸り方。『今』よりも『昔』の方がオーバーリアクションだったことが分かった。ディオは承太郎の顎を取って、それこそじろじろと、角度を変え『観賞』して、

 「どうやらおれが知っているやつもおれを知っているやつもいないらしい。ん〜孤独な未来を知ってしまったぞ。悲劇の男の気分だよ」

 笑う。若々しさゆえの凶悪な、活き活きとした、承太郎が見たことのない笑顔。見た目はDIOだ。それはそうだ、これはDIOなのだ。だが違う。DIOとは違う。顔つきが違う、喋り方が違う、性格も、

 「おい……おい、ジョジョの子孫。呼ばれたら返事をしろ、このディオを前にして生意気なガキだ」

 性格は……あまり変わっていない。というか、こいつ在ってのあいつ、と表現するのがしっくりくる。生まれながらの強烈なパーソナリティに乾杯だ。

 「てめ……あんたはおれを呼んじゃあいない。名前を呼ばれなきゃ、返事のしようがねえぜ」
 「なんというんだ」

 間髪入れずに返されて承太郎はまばたく。てっきり一笑に付されるものと思っていたのに、反して、自分を見つめるディオが真剣だったから言いよどんでしまった。隙を得たとばかりにディオが詰め寄ってくる。この距離は唇が触れ合える……DIOならそれをする距離だ。ディオは、何もしてこなかった。

 「知らないんだと言っているだろうが。教えろ」
 「う」

 いきなり腕を引かれてひっくり返った視界に天井は映らない。ディオで埋められて、ディオに支配されている。

 「お前の名前。教えろよ、少年」

 言わなきゃあ離してやらない、と、まるっきり虐めっ子の口調で、意地悪く目を細めて見下ろしてくる。押さえつけられた手首はびくともしない。下肢も巧みに圧迫されて易々とは抜け出せない。ディオが『DIO』を自覚している以上スタンドを使って抵抗することも『約束』に抵触しかねず危うい。観念して、間を置いてから承太郎は発音をする。言いにくくてものにするのにどれほどの時間がかかったか、だが今じゃあどうだ完璧だろう、とDIOが自慢げに語った名前を。

 「承太郎」

 ディオが追いかける。

 「ジョータロー」

 間延びする音。

 「承、太、郎」
 「ジョオ、タ、ロオ」

 そんなに難しいのだろうか……DIOもこうして苦心しつつ舌に口にと馴染ませていたのか。むず痒くなるような胸の甘い疼きを抑えて、承太郎は何度もゆっくりと言い直した。

 「じょうたろう」
 「じょおうたろおう」

 誰が女王太郎だ。

 「どうやらあんたには難しいようだ、諦めな」
 「そうみたいだな……んん、ならばちょいと別のことをしよう」

 拘束の力が増したこと、軋んで悲鳴を上げる手首の痛みに否が応にも気付かされ、目を見開く承太郎へ、ディオが牙を見せた。顎で示したのは首の痕。

 「お前は『DIO』のものなんだろう? だったらおれのものでもあるよなァ?」

 味わわせろよ、と告ぐよりも早くディオの舌が口を割って入ってきて、承太郎は総毛立つ。





 生温かくぬるつき、欲望に任せ好きなように蠢く舌。気を取られている間に別のところでは別の異変が起きている。腕や脚が動かせないのは、ディオの手に、ディオの脚に、上から押さえつけられているからだ、と思っていた承太郎は、ふと肌を撫でていく冷たさに震えた。辺りが冷えている。寒い。部屋に冷房など付いていない。なのにとても寒い。得られる温もりはディオとの口付けだけとなる。次第に震えが大きくなっていってもディオは解放してくれず、口付けは続く。寒さと酸欠とで頭が霞み始めて承太郎は溜まっていた唾液を飲み込んだ。ディオの舌に、応える。自らの意思で絡めることを、ディオが待っていると、そうしなければ窒息するまで続くと、分かっていたから、そうせざるを得なかった。

 「ん……ふ、んん」

 落ちるぎりぎりの、一歩手前な意識の中、口内の舌を舌で舐める。先端が触れたのを切っ掛けにそこから激しく絡み合う。承太郎は目を閉じていたけれど、闇の内側で強く感じていた。口付け一つ取っても違う。唇の弾力や柔らかさ、混ざり合う唾液の味は同じでも、舌の与える愛撫が違う。DIOとは違う、と。

 「まだガキなのに」

 ひとまず満足したように舌舐めずりをするディオは承太郎の口の端を突いた。流れた涎を指摘し、加虐の余韻を楽しんでいる。

 「お前、十分仕込まれているな……おれに、か?」
 「は、はあッあ」

 ディオが離れた途端、承太郎は血を吐く勢いで酸素を吸い込む。

 「か、はッ」
 「ああそれほど好かったかい。もうひとつ、くれてやろうか」
 「いらね、え……それより」

 首を振り必死の思いでディオから顔を逸らし、横を向く。ショックなんか受けない。今更、だ。口を塞がれても大したことじゃあない。だけどこれ以上、『違い』に動揺する自分が嫌だった。それに、それよりも、今は寒くて堪らない。

 「なんだ……こいつは」

 真横を見て絶句した。制服が氷と化している。身に纏う学ランは、ベッドと一体化して凍っていた。いつの間にかディオの手は手首を掴んでおらず、ベッドに広がる学ランをなぞっている……なぞった端から、次々と凍っていく。承太郎は自分の周りを覆う無慈悲の結晶を凝視する。こんな力は、初めて見る。

 「スタンド能力ッ?」
 「おっとォ! 下手に動くなよ。加減を誤ってしまうぜ」

 砕け散って死ぬのは痛くないが無様だ、とディオが汗を掬って拭う。承太郎の頬を掠めた指は襟首から鎖へ下りて、それも硬く凍らせた。肌のすぐ近くを通り停止させていく冷気に、冷や汗は止まらない。動くな、と言われても溶けない氷に固定されては身動きのしようもない。

 「立っているぞ。男のくせに、立つのかよ」

 性別に拘りを見せるところにも若さを見せるディオに胸元を弾かれ、承太郎は歯を食い縛る。

 「ジョナサンから受け継がれた星も、堕ちたものだ」
 「てめぇがッ」
 「なんだよ」

 お前が、未来のお前が堕とそうと躍起になったから、馬鹿な真似を繰り返したから、という口答えができるはずもない。シャツやズボン越しに兆す昂ぶりを揶揄されても黙ることを選んだ。そんな承太郎を蔑み見下ろすディオの目は赤い。それだってDIOの赤い色とは違うのだ。見下すにしても嘲笑うにしてもDIOはもっとねっとりとした、熱のある目を向けて……やめろ、違いを探すことはやめろ、と承太郎は己に言い聞かす。

 「ふん……ここも随分と、可愛がられていたようだな。楽に入る」
 「ひ、あッ冷た……てめぇ遊びにしても度が、ぁ、過ぎるぜ」
 「少年時代、子供らしいことをできなかった分、おれは遊びが大好きでね……おお、おれの指をかたく拒んでいるぞ。どうしてだ? ジョータロー」

 違う。そんなつたない呼び方をあいつはしない。水気の足りないそこに、潤滑油だ、と氷の塊を突き入れられてただでさえ苦しいのに、違和感が増せば余分な力が入って余計に辛くなる。苦痛の汗を流す承太郎が穴の口を締め付けても、ディオは頓着しない。拒まれていると知りながら遠慮なく指を増やしていく。氷のせいで体を捩ることができない承太郎は一気に三本も咥え込まされる。内臓を弄られて吐き気をもよおす。DIOは違う、DIOだったら夜の時間をたっぷりと使い一本一本を食べさせていく、DIOは、DIOなら、DIOならば……思いが全部、声に出てしまいそうだ。承太郎は外側にいるディオと内側の自分、二人と戦わねばならなかった。

 「い、やめろ、と言っているんだ、ぜ、へたくそが」
 「なぜ? 嫌だからか?」
 「ああッ、や、んッぐう」

 じわじわと体温が下がる中、挿入されるモノはまるで灼熱だ。食い千切られそうだ、とディオが眉を顰めるが、承太郎も懸命に強張りを解こうとした。けれどできない。心身共に異物を拒絶する。

 「お前をここまでぐずぐずに溶かしてきたおれも今お前を犯しているおれも同じ『ディオ』なのに。外見だって指の形だって変わらないのに。どうして嫌がるんだ」
 「やめろッいやだ」
 「嫌? イイ、だろう? イイよなァ?」

 よくない、いやなんだ、と心の底から思う……が、本当に言いたいことはそれじゃあない。誰でも好いわけがあるか。おれは許していない。人には人の、個人の世界がある、それを害す権利は誰にもない。おれは許さない。それでも唯一の例外があるとすれば……ずかずか土足で踏み込んできて残した靴痕から種を芽吹かせたのは……許したのは。

 「DIO!」

 寒さに凍えながら、伸ばせもしない腕を戦慄かせて、承太郎は呼ぶ。唯一を。

 「やっと」

 弧を描く唇が、

 「やっとわたしを求めたな。承太郎」

 流暢に紡ぐ呼び声、優しく降り注いで氷を溶かす。呼応して、力がふっと抜けて、承太郎は体内の熱へ存分に感じ入り、深く息をする。ああこれだ、と呟いたのは同時だった。DIOが承太郎の最奥まで入り切る。





 「よしよし。承太郎、よく頑張ったじゃあないか」

 悔しい。髪を撫でるな。うっとうしい。ガキ扱いするな。ガキの振りしていたくせに。溶けた氷で体はびしょ濡れ。声も枯れている。おれはもうぼろぼろだ。

 「お前が素っ気ないからつい気を惹きたくなってな。このDIOの想い、かわいいものだろう?」

 書庫でお前、わたしのかつての名を呼んだろう、その時思いついたんだ、我ながら妙案だった、語るに語るDIOは得意げだ。テレンスも付き合ってくれてな、わたしは演技も上手いんだ……なんだそりゃあ、種明かしにもなっていない。間抜けと罵られている気しかしない。承太郎がDIOにした時には途中でやめた髪遊び、DIOは飽きもせず絶え間なく黒髪を梳き、指に絡め、手のひらで撫でて構い倒している。

 「押して駄目なら、さてどうする? ふ、畜生どもには不可能な高次元の駆け引きよ」

 どこがだ。使い古された手だろう……それに嵌まってしまった。悔しい。悔しい。忌々しい。何か……何かないか。抵抗にならない程度の、かつ、DIOの鼻っぱしらを折れるほどの、仕返し。何か。承太郎は薄目を開けた。思った通りの柔い笑みがある。自分が気を失ってから今の今までずっとこんな顔で見守っていたのだろう。それも腹立たしい。承太郎の不機嫌などお構いなしで、ご機嫌のDIOは労わるように口付けてくる。承太郎も口を開けて迎え入れた。腹が立っていても、もう一度、感じたかった。これだ、と。

 「ん」

 小鳥のようなキスを交わし合ってDIOが何かを言う前に、承太郎は表情筋を最大限稼働させて、

 「おにいちゃんだあれ」

 愛らしく笑う。DIOの眼が色を変える。赤から金、金から赤へ、ちかちかと。混乱している。ざまあないな、といっそう微笑んでやった。記憶喪失? 幼児退行? 上等だ、DIOにできておれにできないなんてことはない。このまますっ呆けてしばらくその存在を無視してやるつもりだった。DIOがそうしたように。すっきりしたぜと承太郎の胸がすく直前、しかし妙な振動が伝わってきた。DIOから生じている。DIOがふるふると震えている。

 「だれか、教えてあげよう、おにいちゃんがおしえてあげる」
 「でぃ、DIO?」
 「だからもう一回、なあ」

 それきり無言になってしまったDIOにきつく抱き締められて、始まった後半戦。DIOが欲するだけ、さんざん、「おにいちゃん」と鳴かされて。承太郎の腰は数日間の休養を余儀なくされた。



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