忍足と囲碁

□第6局
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プロ試験予選最終日。

やばい!!寝坊した!!こんな時に!!
今日の対局に負けると私は予選落ち。プロ試験本線には出られない。
少し遅刻したくらいなら大丈夫だから、今から急いで行っても5分遅刻程度で住む。大丈夫だ。
私はとにかく走っていた。
こんなに急いでいても、それは嫌でも耳に入ってきた。

「きゃあっ!!」

女性の悲鳴だ。道の真ん中でうずくまっている女性がいた。
周りの通行人はちらちらと見ながらも、我関せずといった感じに誰も声をかけようとしない。しかも良く見るとその女性はお腹が大きい。…妊婦さんだ。私は走っていた足の向きを彼女の元へと変えた。

「大丈夫ですか?」
「あの…えっと…」

良く見ると彼女の足元はこんなに晴れているのに水浸しで。

「破水!?」
「ど、どうしよう…」

元の私と同い年くらいの彼女は、突然の破水に混乱しているようだった。
この時既に私の頭の中にプロ試験の文字はなく、彼女を助けることだけで頭がいっぱいだった。

「初産ですか?お名前は?」
「はいっ…。えと、財前、です」
「財前さんですね。気持ち悪いとか呼吸がしづらいとかありますか?」
「大丈夫です…」

私は彼女の脈拍を計り、顔色を窺う。
脈は少し早いけど貧血もないし青白くもない。

「お腹に痛みは?」
「ありません……」

陣痛はまだか……でも破水したからにはすぐくることだろう。

「一先ずタクシーに乗りましょう。捕まえるので少し待っててください」

破水や陣痛の場合、母体に以上がない限り救急車は呼べない。
私はタクシーを捕まえて彼女と一緒に乗り込んだ。
羊水で車のシートが濡れるといけないので、とりあえず私の鞄の上に座ってもらった。

「あ、あの…急いでたんじゃないんですか?大丈夫ですか?それなのに私…里帰り出産の予定で主人は大阪に残ってて会えないので、心細くて…混乱しちゃって…」

ごめんなさい、と財前さんにそう言われ、私はそこでやっとプロ試験予選のことを思い出す。
病院に着いてからでも間に合うだろうか。
しかし、財前さんの不安そうな顔を見ていたら、プロ試験よりも彼女の傍にいなきゃと思った。

「大丈夫ですよ。私は来年もあるけれど、この子は今日産まれるしかないんです。一緒に頑張りましょう」

ありがとうございます、と何度も頭を下げられた。
そうだ、私には来年もある。
もっと力をつけて、来年また頑張ればいいのだ。

「うっ…」
「どうしました?大丈夫ですか?」
「…だんだんお腹が痛くなってきました…」
「いきんじゃダメですよ!息を長く長く吐いてください!」

陣痛が始まった。
初産だから結構時間がかかるかもしれないが、ここから長丁場の戦いの始まりだ。頑張れお母さん!
時計を確認しながら、陣痛の間隔をはかる。
8分だ。
財前さん本人に病院へ電話してもらい、破水したこと、8分間隔で陣痛がきていること、既に病院へ向かっていることを伝えてもらった。

病院に着いてからはもうあっという間で、歳が若いお陰もありお産の進みは早かった。
陣痛室にいる間に財前さんの実母が到着し、私は入れ替わりで帰らせてもらうことになった。
どんなに断ってもお礼がしたいとしつこく連絡先を聞かれたので、住所と名前と電話番号を渡して、帰りのタクシー代まで貰って、帰る頃にはすっかり空はオレンジ色に染まっていた。
予選が終わったら電話すると言ってあった侑士に連絡ひとつ入れないままになっていたので、急いで電話をかけた。

「もしもし?侑士?」
────『もしもし?灯ちゃんお疲れ様』

どないやった?とは聞いてこない。侑士は私から話すのを待っている。

「あー、えっと、その…」

行かなかった、と言ってしまえばいいのに、今更になって言いづらくなってしまった。応援してくれていただけに、申し訳ない。

────『灯ちゃん、今どこや?』
「市ヶ谷だよ」
────『ほんなら迎えに行くから待っとって。駅のスタバにおってくれる?すぐ向かうわ』
「あ…うん、ありがとう」

多分ダメだったことは察してくれている。いつもだったら、いいよいいよと断るのだけれど、今日は無性に侑士に会いたかった。

40分程経って、侑士は顔を出した。

「待たせて堪忍なぁ。…大丈夫か?」
「大丈夫だよ、来てくれてありがとう」

ぎゅーと、侑士に抱き着く。侑士の匂いを体いっぱいに吸い込んだ。

「よし、充電完了」
「なんやそれ、青学の菊丸みたいやん」

誰だ。

「ねぇ侑士…」
「なんや?」

とりあえず負けたわけではないことを伝えよう。

「私今日、負けたんじゃないよ。だから落ち込んでない」
「えっ?ほな…」
「ごめん、勝ってもいない」

一瞬嬉しそうな表情をした侑士を牽制する。

「行かなかった」
「…………なんか理由があるんやろ」

ぽんぽん、と頭を撫でてくれる侑士の手が優しすぎて、泣きそうになる。

「市ヶ谷の駅を出て棋院に向かう途中で、妊婦さんがうずくまってて。破水してたし、不安そうだったから一緒についててあげたの」

私は先程までの出来事を詳しく話した。

「後悔しとる?」
「えっ?」
「その妊婦さん助けて、後悔しとるか?」
「してないっ、全くしてないよ!良かったと思ってるくらい…って言ったら、応援してくれてた侑士に失礼かな…」

誰よりも、1番近くで応援してくれていた侑士。侑士は、私のファン第1号なのに。

「なら良かった。俺は、間違うてへんと思うよ。むしろ、俺医者を目指す者として、灯ちゃんを誇りに思うわ」
「侑士医者になりたいんだ」
「おん。親も医者やし、昔から自然と目指しとる。せやから、俺そういう灯ちゃん大好きやで。自分を省みず人を助ける灯ちゃん。俺の嫁さんに欲しいくらいや」
「本当?嬉しい。私、侑士のお嫁さんになれるかな」
「なれるよ。もろたるもろたる」

さらりとプロポーズされたな。
中学生だけにどこまでが本気なのかわからないけど。
でも、素直に嬉しいな、侑士にそんなこと言ってもらえて。

「よし、侑士。せっかく来たんだし、棋院寄ってかない?」
「棋院って…いつも灯ちゃんが研修しとるとこ?一般の人も入れんねや」
「うん。入れない場所もあるけど、私がいつもどんなところで勉強してるか見たくない?」
「見たい!案内してや」
「よし、行こう!」


きっと今年プロ試験を受けられなかったのは私の実力不足と、何か理由があるんだ。私は昔から、物事には全て理由があると考えてきた。
もちろん、いちいち理由を考えていたらキリがないけれど、そういうふうに考えるていると、いつまでもぐずぐずと落ち込んでいるのがアホらしくなる。
きっと、これで良かったと思える日がいつか来る。
そう信じて、また頑張ろう。
あーでも、和谷に怒られそうだなー。
何予選落ちなんかしてるんだって。
ごめんごめん。
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