ラッキー千石の事件簿

□フィリップ伯爵は湖で
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第五幕
『フィリップ伯爵は、湖で』

 ・壱・

 深い霧のような陶酔の中に、ファントムはいた。
何も見えない。
何も聞こえない。
ただ目的を遂げようとする意志だけが、彼を動かしていた。
 長い間かけて書き上げたシナリオだったが、ようやくここまでページをめくることができた。
小さな計算違いはあったが、それも今にして思えば、効果的な余興のようなものだった。
かえって、謎と恐怖を盛り上げる結果を生んでくれたのだから。
すべては、予想以上にうまく進んでいる。廊下の柔らかい絨毯は、自分の足音を吸い込んでくれるし、この激しい風の唸りも、これから起こる惨劇の物音を、きっとかきけしてくれるだろう。
こんな夜中なのに、少しも眠気を感じない。神経は冴えわたり、思考は研ぎ澄まされ、少しの無視やトラブルは、とっさの機転で容易く切りぬけられる気がした。
 ファントムは、最初の殺しの瞬間を思い出した。
手に後が残らないように、皮手袋をしたうえ、太目の朝紐を使った。
それでも、完全にカルロッタが息絶えるまでには、紐が食い込んだ掌が、つめたく痺れてしまった。
彼の首に巻きつけた紐を締め上げると、緊張からか、抑えていた憎しみが、吐き気のようにこみ上げてきた。そのせいで力が入りすぎたのだろう、彼の死顔は、紫色に腫れあがり口から舌がはみ出している有り様だった。
しかし、あとの処理は完璧だったし、証拠は何一つ残していないはずだ。
次も、あの時のように上手くやれるだろうか。何しろ、今度は男なのだ。カルロッタのように簡単に死んでくれるとは思えない。念のために刃物も持ってはいたが、返り血を浴びる可能性もあるし、できれば使いたくなかった。
ファントムは、目的のドアの前で、足を止めた。
ひと息深呼吸をして、ノックをする。あらかじめ電話で起こしてあったので、強くノックする必要はないだろう。
他の部屋の者達に聞こえては都合が悪いし……。
ドアが薄く開いて、フィリップ伯爵が顔を見せた。
顔色がすぐれない。
 ファントムの顔を見ると、彼は少し警戒しながらも、ドアのチェーンを外して、部屋の中に招き入れた。
フィリップ伯爵が、何か、聞き取れない声で話しながら、ファントムに背を向けた。
その瞬間を、ファントムは見逃さなかった。
カルロッタを殺したのと同じ麻紐を掌に巻きつけながら、素早く近づく。
干物中程を、フィリップ伯爵の首に引っかけて、腕を交差させた。

「――!」

ファントムは、そのままフィリップ伯爵を押し倒し、馬乗りになって、紐を締め上げた。
フィリップ伯爵は首をひねり、ファントムを見た。

 ― なぜ、自分を殺す?

言葉は出なかったが、目がそう問いかけていた。ファントムは、紐になおも力をこめながらも、顔をフィリップ伯爵に近づけ、その答えをそっと教えてやった。
フィリップ伯爵の血走った目が、恐怖と後悔に見開かれた。

「……!」

彼は、必死に形相で足をじたばたと動かした。が、それさえもファントムの膝で抑え込まれ、ままならない。両手は、喉に食い込んだ紐を引き剥がそうと、懸命にかきむしっている。
しかし、そんな抵抗もむなしく、彼の喉は、蜂の腹のようにくびれ、顔面はみるみる紫色に染まっていく。
そうやって、五分もたっただろうか。フィリップ伯爵の全身から、電池が切れたように力が抜けた。
しかし、ファントムはなおも力をいれ続ける。あと、二分、いや、三分だけ。

 ― 念には念を入れて―――。

そのままさらに、五分ほども締め続けたあと、ようやくファントムは手の力を緩めた。
のしかかっていた背中に耳を当てる。フィリップ伯爵の心臓は、もはや完全に停止していた。
ファントムは呼吸を整えて立ちあがった。

「大変なのは、これからだ…。」

囁くようにつぶやいて、ファントムは部屋の明かりを消した。
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