弱虫ペダル

□狗尾柳
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ボロボロだ、なんて言われなくても気づいていた。
力をいれても痛みが走るばかり、まともに動かず痙攣を続けるこの足は、もうペダルを回せないのだろうか。
そんな考えが過るのは、もう何度目だろう。
炎天下、俺はそれでも今日も今日とて、置いていかれないように、
息を切らしてペダルを踏む。


はっ、はっ…荒い息遣いと共に汗が流れる。
目に汗が入った痛みに顔を歪めながら、片手でそれを拭って歯を食い縛った。
ジャァァ、と低い音を立てながら、コンクリートで舗装された山道を走る。
ガードレールに体をガンガンとぶつけながらカーブを曲がった先に目を凝らす。
開けた視界の先、道の先には新開と福富と東堂が並ぶようにして走っていた。
お互いを超えるために、それぞれがダンシングで必死に走っていて、近づけない。
「くそが…!」
叫んだ荒北は、更に姿勢を前傾に倒すと、より早く走り始めた。
ぐん、と三人との距離が僅かながらに縮まったような気がした。
それでも、荒北はもっ早く近づけるようにと必死になってペダルを踏む。
歯を食い縛りすぎて奥歯が欠けたが、気にしている余裕もないまま、それを吐き捨ててまた荒い呼吸をした。
と、目の前の三人がまばたきの間に消える。下り坂まできたのだ。
あともう少し、消えた三人を追おうとした荒北は、さらに姿勢を前傾にしてペダルを荒々しく踏みつけた。
ふ、と視界が遠くまで見渡せるようになり、坂にたどり着いたのだと気付いたとき、前方の三人を見つけ、荒北は口角を上げた。
振り向いて、気づいた新開が荒北に笑顔で手を振った。
その新開に気づいた福富と東堂も振り向いて、三人と目があった瞬間。
ざわ、と荒北のなかで、なにかが駆け抜けるような感覚があった。
風が耳元で唸るような音を立てる程、今までにこんな早く走ったことがあっただろうか。
荒北は快感に呑まれるように、もっと早く先に進もうと体を前につきだした。
瞬間、体が自転車ごと宙に浮いていた。
新開と東堂のめいいっぱいまで開かれた目がやけに鮮明に見えて、荒北もようやく姿勢を前傾にしすぎたために、坂で浮いてしまったのだと気づく。
手が自転車から離れていくのを、宙で逆さまになった状態で見て、荒北は離すものかと手を伸ばした。
だが、時すでに遅し。
手から離れたロードは荒北より早く地面に落ち、ガシャァン!と坂に音を響かせる。
直後、頭部にガヅンッッ!!と重く痺れるような衝撃が与えられ、首から嫌な音がした。痛みに目を見開く間もなく、続いて背中がコンクリートに叩きつけられる。
尾てい骨をそのままの勢いでコンクリートで削るように打ち付け、軽く曲がった膝まで痺れるくらい強く踵を打ち付けた。
だが勢いは止まることなく今度は右肩から打ち付け、横向きに落ちていく。
自転車をとめた新開達が駆けつけたとき、荒北はうつぶせになって荒い息を繰りかえしながら、それでも首をもたげて、坂の途中にあるロードに手を伸ばしていた。
それを見た新開は固まり、福富は僅かに眉を下げたあと荒北に向かって歩いていった。
「荒北」
福富がしゃがんで荒北の名を呼ぶと、荒北はビクン、と大袈裟な程体を跳ねさせて振り向いた。
「ふく、ちゃ」
その目には、明らかな怯えの色が含まれていて福富は思わず伸ばそうとしていた手を止めた。
硬直がようやくとけたのだろう、かけよった新開はそれに気づかないまま、荒北のヘルメットをとると、仰向けに寝かせた。
だが、そこで新開も荒北の異変に気づき、再度固まった。
「今すぐ学校に連れていって手当てをしよう」
先生を呼んでくる、新開はここにいてくれ。
と付け足して福富はロードをとめてある方に歩いていった。
それと同時に、荒北のロードを引っ張って帰ってきた東堂が、苦々しい顔をして報告をする。
「こっちは少しの傷ですんだみたいだが」
フォルムを指先で撫で、様々な角度から見回したあと、顔を上げた。
「荒北」
血と傷にまみれ、薄い胸を上下させて顔をしかめて傷みに耐える荒北を見て、東堂はしゃがんで眉根を寄せた。
「なぜ、あんな無茶な走り方をした」
「…無茶な、走り…?」
荒北は、それに僅かに目を見開いておうむ返しのように尋ね返す。
「あんなに坂で前傾姿勢になれば、こうなることくらいわからなかったのか」
東堂も、気づかないうちに責めるような口調になる。
だが、それが荒北の身を案じての事だとわかっている新開は、何もいえないまま俯く。
「なんも考えてなかった」
ぽつり、荒北は呟いた。
「ただ、もっと速く走らないと」
下唇を強く噛んで、泣きそうになるのを堪えながら、荒北は静かに言った。
「見捨てられる」
震える腕をあげ、新開達から逃れるように目もとを覆ってから、更に続けた。
「…まだ、走れるからァ…」
半ば子供のわがままの様な言い方をする荒北に、新開は荒北の中学時代を思い出した。
「靖友…」
新開がゆっくり動き、そっと荒北の腕を退けると、再度震えた荒北の前髪をあげて、額にキスを落とした。
ぴたりと震えが止まったのを確認し、耳元に口を近づける。
「大丈夫、置いてったりしないから」
囁くように言うと、荒北は一度目を大きく開いたあと、何か言おうとして、瞼をおろした。
あれだけの衝撃を受ければ当然だ。
気絶した荒北は、きっと気力だけで倒れまいとしていたのだろう。
そっと頭を撫でて、新開は荒北の目を覆った。


気づくとそこは自室だった。
ぼんやりとしばらく天井を見ていた荒北だったが、ふと夕刻のことを思いだして、はっとすると、体を起こす。
否、起こそうとした。
全身を巡る激痛が、起き上がれないほど体に流れ、起き上がれなかったのだ。
あの坂を、あの勢いで転げ落ちたのだから、当然だ。
しかし納得しきれないような顔で、「ふざけんな」と独り言を呟いた荒北は、今度は歯をくいしばって、無理やり体を起こした。
「ぁ、ぐぎ…ぃ"、あ"、は…ぁ"、っ…」
くいしばった歯の隙間からもれる嗚咽が、その辛さを表していた。
なんとかベッドから下りると、壁伝いにドアまで歩く。
ふらふらになりながらドアを開け、廊下に出ると、窓から月明かりが射し込み、薄暗い廊下を再び壁伝いに歩いた。
階段を何度か途中で転びそうになりながらも降りきるが、一息つく間もなくまた荒北は歩きだす。
目的地は、箱根学園自転車部の部室だ。
あそこにいけば自転車もあるし、ローラーもある。
今日は倒れたせいで、練習量がまるで足りていない。
「まだ…ッ…走れんだよ…」
歯をくいしばり、荒い息を吐きながら荒北は呻いた。
ロビーまで来て、時計を見れば門限ギリギリだ。今から出ていけば、最寄りのコンビニでも帰ってこれない時間帯だ。
だがそんなことに構ってなどいられない。
玄関を出て、ようやく慣れてきたのか壁から離れて、芝生を歩く。
垣根をくぐり、ようやくたどり着いたとき、荒北はやっと立ち止まった。
身体中がいたくてたまらないし、汗が染みてガーゼが蒸れる。
目に入った汗をぬぐって、自転車置き場まで歩いていけば、傷のせいでところどころメッキが剥がれたビアンキがヘルメットと共に、吊るされていた。
すっかり日は落ちていて、あたりは真っ暗だ。
それでも構うことなく、除夜灯に照らされている自転車に手を伸ばした荒北は、ふいに視界に映った人影に息をのんだ。
「は、」
青い瞳が、荒北をじっと見つめていた。
いつか屋上で話したときの様な、あの射抜くような目線が突き刺っている。
「何してるんだ?靖友」
荒北がくる前からいたのだろう、木に寄りかかって、腕を組んでいた。
パワーバーはくわえていない。
いつもより低い声に、一瞬びくり、と体を硬直させた荒北だったが、すぐにいつものように新開を睨み付けた。
「てめぇには、関係ねぇだろ、が」
息を切らしながら返すが、新開は怯む様子もなく近づいていく。
思わず後ずさった荒北は、足がもつれたのか尻餅をつくが、構わず近づいていく新開の目の冷ややかさに、目を見開いて硬直した。
(その目で俺を見んな)
ドッドッ、と心臓が大きく早く跳ね上がって、痛いほどに脈打つ心臓が、逃げろと警鐘を告げる。
尻餅をついた状態で、新開から目を必死にそらしながらずりずりと後ろに逃げようとした。
あの目に、嫌というほど見覚えがある。
もうここにお前の居場所はないといい放ったアイツの、役立たずといったアイツの、アイツ等の目が新開と重なった。
ぞわり、吐き気が込み上げてきて口元を覆う。
一瞬それを抑えようとするあまり、新開の事が記憶の隅に追いやられた。
踞りながら片手で口を抑えて、もう片手で胃の辺りの衣服を握りしめる。
「靖友」
上から声が聞こえた。
はっとして上を向いた荒北に、向けられていたのはやはりあの目。
「…ぁ」
上擦った声が荒北の口から漏れた。
刹那、胃の辺りが突沸したようにぼこぼこと蠢き、一気に逆流する。
慌てて口元を抑えるも、間に合わずとうとう口から酸っぱいものがこぼれ出た。
びちゃびちゃと土の上に落ちる吐瀉物の臭いに、また数回えづくがもう胃は空っぽで、黄色い胃液が出ただけだった。
「はっ、はっ、あ」
苦しさから目には生理的な涙まで浮かんでくる始末だ。
喘ぐように酸素を取り込んでいると、視界に見慣れたスニーカーがうつる。
ようやく新開の方を見上げようとした荒北だったが、温かく柔らかいゴツゴツした何かに目元を覆われた。
荒北がそれを手だと理解したのは、それがゆっくりと離れていき、目元を拭ってからだった。
「大丈夫だから」
そっと、手が背中に回される。
片手で四つん這いになっていた体を起こされ、表情を見ない内に抱擁されていた。
温かい新開の腕が、子供をあやすように荒北の背を撫でる。
「置いてったりしないから」
耳元で、そっと囁くように呼び掛けた新開に、その逞しい肩に頭をのせる形になっていた荒北は目を見開く。
「靖友の居場所は無くなったりしない」
きらきらと月明かりの光を受けて荒北の目が揺れ始める。
つんと鼻が痛み、目頭が熱くなっていく感覚に、奥歯を噛み締めた。
「待ってるから」
だが、それを聞いた荒北の目が、とうとうゆるやかな弧を描くようにして、閉じられいていくと、涙が頬を伝った。
「だから、今は休んでくれ」
懇願するような言い方ではなかったが、有無を言わせないような強い声。
普段の新開からは想像ができないそれに、一層荒北の目から涙が溢れた。
途端、ずっと強張っていた力が抜けたのか、激しい脱力感に襲われる。
倦怠感や睡魔が、ドッと押し寄せてきて、荒北は自嘲するような心持ちになりながら、うっすらと目を開けた。
「待ってろ」
一言、上ずった声で言った。
それは、弱々しい声であることに変わりはないが、強い意思を持っていることが分かる。
そして、その声で言葉を紡いだ。
「必ず、追い付いてやるよ」
ぴた、と新開は荒北の背を撫でていた手を一瞬止めたあと、笑った。
振動が荒北にも伝わり、その微妙な揺れにとうとう堪えきれなくなって瞼を下ろした。
暗闇に沈んでいく中、小さな声で「ボケナスが」と呟いて意識を手放した。
「待ってるよ」
その中でもう一度聞こえた声は、確かな光。
「道の先で、待ってる」
きっと、この先の道を照すのだと信じて。



ボロボロだ、なんて言われなくても気づいている。
力をいれても痛みが走るばかり、まともに動かず痙攣を続けるこの足は、もうペダルを回せないのだろうか。
そんな考えが過るのは、もう何度目だろう。
だが、確かに見えた道がある今、希望を追いかけてまだまだ走っていけると、自信をもって言い切ってやろう。
「追い付いたぞ新開ィィ!!」
聞こえた野獣の声に振り向いた、新開のその表情は言うまでもない。
炎天下、獲物を狙う様な鋭い目と、鬼のような威圧を持った強者の目が、今、交わる。
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