dream

□慈悲の飴
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今日も眠れない。

不眠気味なのはいつもの事なので仕方がないけれども、こうも毎晩ベッドの中でじっとしているのは不毛な気がしてならない。

明日も仕事なんだけれどなあと思いながら、眠いのに寝られない、スイッチが中々切れない焦れったさに溜め息を吐いた。



「あ、また今日も寝ていないでしょ?」

出勤して挨拶もそこそこに、店長に突っ込まれた。

接客業は外見が命、見るからに不健康そうな濃い隈を常に湛えている私を、店長は心配半分お説教半分に捕まえて捲し立てる。

「ウォーキングとか散歩とかしてみたらどうかな?運動するとすぐに眠れるって言うし」

毎回の事なので、はい、はいと適当に答えるのがテンプレートと化しているのだけれど、その部分だけが何故か、頭の片隅に残っていた。



仕事の無い今日は、家事に勤しんでいた。

独り暮らしをしている為、家事は難なくこなせるし、嫌いではない。
しかし、先日の暴風でベランダや窓際が土埃まみれになっていたので、念入りに掃除してから洗濯をしたりしていた為に、全ての家事が終わった頃には夕陽が沈みかけていた。

携帯を確認しても、彼氏からの着信は無い。
一回りも年上の彼氏は、今日も仕事で忙しい様だ。
電話する緊急性は無いし、メールする用事も無い。
綺麗になった部屋に呼びたかったけれども、我慢した。


普段ならこのままベッドに横になって、洗いたてのシーツに包まれながらぼんやりするのだけれども、ふと、先日の店長の話を思い出した。

散歩。

普段何をしているのか、と聞かれても、趣味の無い私は何もしていない、と答えるしかない。
そんな私から身体を動かすなんて発想が出てくる訳が無かったので、いつもなら面倒としか思えない散歩が、何故かとても魅力的に思えた。

魅力的に思う、だなんて、いつ以来だろう?

ある出来事を切っ掛けに趣味を全部捨てて今の生活を初めてからは、初めての事だった。


気付いたら、小さめのポシェットに財布と携帯を入れて、鍵を持って家を出ていた。



陽はほとんど地平線の彼方に落ちていて、群青色の空に星がちらほら見える。
こんな時間に空を見上げたのがいつ以来か思い出せないけれど、非日常的な出来事を前に、私の足取りは軽かった。
大道りから一本離れた道に入るのも、ちょっとした冒険気分になり、ずんずんと進んで行く。
見知らぬ十字路、見知らぬ民家、見知らぬ林、見知らぬ一本道、全てが新鮮だった。


しばらく歩くと行き止まりに辿り着いてしまった。左右に道は無く、今来た道を引き返すしかない。
…と、行き止まりを示すブロック屏に、小さな看板が掛かっているのに気付いた。
暗くてよく見えず、目を凝らすと黒字に黄色い文字で何かが書いてある。


『慈悲の飴』


…飴?雨じゃなしに?

よく地方の看板で『神は見ている』だの『神を讃えよ』だの書いてある系の物かと思ったけれども、誤字のせいで余計に意味が分からない。
この看板を書いた人は、恐らく神のご加護など頂けないだろうな、と思いながら道を引き返す為に振り返った瞬間、声を上げた。

道のど真ん中、私のすぐ後ろに、人がうつ伏せに倒れていた。


…私は我が目を疑った。

この道は長い事一本道で、左右をブロック屏と雑木林が覆っている為、雑木林から出てブロック屏を越えてきた訳でなければ、私の後ろを付いて来ていた事になる。

しかし、そうであれば足音や気配があっても良いもので、この行き止まりにたどり着くまでに気付かないはずはない。
もし仮に距離をつけて付いて来ていたのだとしても、行き止まりに辿り着いて看板を見ていた時間は10秒と無い。そんな僅かな時間で背後を取る事が可能なのだろうか?

そんな事を思っている間に、倒れていた人物を観察していた自分がいて、シャツにスラックス、スポーツバッグと言う着装、暗闇でも分かる程の明るい髪色と言う風貌から、若い男性と見当をつける。

そして一向に倒れ付したまま起き上がる気配の無いその人物を不審に思う気持ちから、この場所から一刻も逃げ出したかったけれど、言い様のない恐怖感に縛られる様にその場に立ち尽くしてしまったまま、彼を発見してから数分経ち、伏したままの頭がピクリと動いた。

「うー…ん…」
「ひっ!」

まさか声まで上げるとは思わず、小さく悲鳴を上げると、それに気付いたかの様に彼の顔が私に向けられた。

「…あんた、誰だ?」

それはこっちが聞きたい。
暗いせいで目を細めているのが分かる程度にしか顔が見えないのは、どうやら向こうも同じようだ。
そして、自分が地面に倒れこんでいる状態に気付いたのか、両手に力を入れて、ゆっくりと起き上がった。

立ち上がった人物は、両手を握ったり脚を曲げたりしてあちこちに力を入れながら、怪我をしているかどうか確認しているらしい。
背はおおよそ170センチ、シャツの正面には、暗くて色の分からない、恐らく濃い色であろうネクタイをやや緩めに締めていた。

そして…シルエットしか分からないが、ツーブロックと言えばいいのか、坊っちゃん刈りと言えばいいのか、マッシュルームカットの様な髪型で、前髪は長めの様だった。

ん?と、私は首を傾げる。

これらの特徴、どこかで見た事があるぞ、と。

脳の引き出しを探ろうとした瞬間、ジジッと音と共に、視界が白くなって思わず手で目を覆った。
光に瞳孔が明順応して、ゆっくりと手を外した時、彼の背後にあった街灯が点灯したのだと気付くよりも前に、私は口をあんぐりと開いた。


キノコの様なヘアスタイルの薄い茶髪、簾の様に垂れ下がった前髪から覗く切れ長の瞳、控え目な鼻、薄い唇、真っ赤なネクタイ、茶色いチェックのスラックス…そして、白いシャツの左胸にある、『帝』の校章。


まさか、まさか、まさか!


「日吉…?」
「…どうして俺の名前を?」
 

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