大家Cの書庫
□寛容
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痛みよりも遥かに胸中を占める、慈愛の心。
だからこそ紫姫は、口元を緩めて微笑んでみせた。
数週間前から、カイルは自失茫然と生活していた。アトリエと化した部屋に籠る時間も極端に減り、本当に…ただテレビを眺めていたりベランダでぼうっと座っていたり。
まるで無音の世界で生きているような感覚。どんなに語りかけても、誰も自分を描いて欲しいと訴えかけてきてはくれない…という常人では想像も出来ないような孤独感に苛まれ、ついに達してしまった沸点。
決してカイル自身は語らない。自分のことを話したがらない彼を、紫姫は理解していた。だからこそ、愛おしく想うのだ。
才能とは、時に人を輝かせる。周囲の人間はその輝かしい才能に喝采し、栄誉を送る。しかしその裏にあるのは、紙一重の虚無。
誰とも分かち合えない孤独。
その孤独を、紫姫は誰よりも傍で見てきた。外界では努めて感情の起伏を表出せず、ただ波風を立てずに。けれどその内側は衝動で溢れている。
(…そう。誰よりも、ボクは彼を知っているはずなんや)
冷えた視線を送っていたカイルの瞳が揺らぐ。その深い青色の瞳に映るのは、まるで慈母のような優しさを帯びた微笑。
呼んでいる。描いて欲しい、と。
紫姫が何かを口にしたわけではなく、ただ…カイルには確かに聞こえた。
美しさとは何か、と考えたことがある。それは、汚れと紙一重に存在する気丈さなのではないかと…いつだかカイルは結論を出したのを思い出す。
正に、今がそれだ。
自分の状況を飲み込んだ上で、誰かを気遣う。もしかしたら、これからどんなに酷い事をされるかもしれないのに。それを知っていてもなを、笑っているのだ。彼は。
「…紫姫さんって、ドMですね」
「なっ…!んなわけないやろ!」
「オレに苛めて欲しいんでしょう?」
耳元に息を吹き込むようにカイルが囁くと、紫姫の細い肩が小さく震えた。
むくむくと膨れ上がっていた欲が、萎れていく。それとは代わりに芽吹き始めたのは、絵を描きたいという渇望にも似た好奇心。
「そのままで居て下さいね」
「…は?」
「絵、描きたい」
「え?ちょっ…まさか、ボク描くつもりなん?」
「まぁ、そうですね」
「こ、この痛々しい姿を?」
「よかったですね。紫姫さん。羞恥アンド視姦プレイですよ」
いやや〜!と喚く声を余所に、カイルはソファーから立ち上がり大きく伸びをした。
そういえば云うの忘れてました、といって振り向いた顔に携えられた弧を描いた口元を、紫姫は見逃さない。
それは衝動が昇華されたと同義であり、彼が彼の皮を被りなおした確かな証拠。
「…なんや」
「紫姫さんは、どんなものより…美しいですよ」
放たれた言葉にポカンと口を開いたままの紫姫を置いて、カイルは自室へと向かう。
次の展覧会には、彼も呼ぼう。そうして今度は、自分から云うんだ。
オレと付き合って下さい、って。
昔、泣きそうな顔して彼が云ったように。
*おしまい*