雑色

□左方に
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「ふん、小僧の旧知か」


嗄れた声に弱々しさは皆無だった。
腹の底から響くそれはこの場を埋め尽くし支配していく。
しわしわの手は枯木を想起させるというのに、伸びた背筋と構える両脚…佇まいは大樹だ。
そして、網代笠から覗く眼光は良く斬れる刀の様に鋭い。
装いこそは乞食僧そのものだというのに…なんだ、この爺さまは。
そう怪訝に思うものの、視線の先に、思考に、それは二も三も次な話だった。
己が瞳には――――



《左方に》




「千堂!」


「おわっ、ちょう…なんなん、柳岡はん?人が気持ちよう寝て」


「嘘こけ!寝てへんやろ!いいから座りぃ!ええか!今日っちゅう今日はなぁ!」


火を噴かんばかりの…いや、実際にそう見える剣幕にしまったと舌打ちする。
寝たフリではなく、気付いた瞬間に逃げるべきだったと。
後悔はなんとやらだ。
捕まってしまったものは仕方ない―――…なんて。


「言う思たら大間違いやで!」


腹に掛けていたを長半纏を引っ掴み起き上がる。
その勢いのまま障子戸を開け放ち飛び降りた。
二階から。
冷たくなりつつある空気を感じながら、懐から逃走用の草履を放り投げ地面へ踏みつける。


「おどれは猿か?!」


この身のこなしを捉まえて猿とは甚だ不本意ではあるが…ぐちぐちだらだら説教を受ける位なら黙認しよう。
頭上から投げ掛けられる怒声に晩飯には帰りますぅ、と適当に返し脇目も振らず走り出した。


「あー!とらにぃがサボってる!」


「いーけないんだぁ!」


何を言われるのか見当は付いていた。
幾度となく言われてきた事であったし、云わんとする事は充分過ぎる程に分かっている。
だが、改めるつもりは毛頭無い。
その心積もりは相手も知るところであるが…あの様子を思い返すに今回は許容範囲を越えたようだ。
暫くは帰れないな、と当てもなくぶらついているとチビッ子集団に囲まれてしまった。
ついていない。


「じゃかましい…もう陽が暮れるでぇ。遊びも終いにして、はよ帰りぃや」


「遊んでたんちゃう!」


「せや!見回りや!ほうか?はんの!」


「誰やねん…"ほうか"はんて」


最近の火事やろ?
そや!またとらにぃかつやくしたってな!
多すぎんねん!
おいたんが言うとったで!
腹立つわ!
手伝いすんねん!
さっすが!とらにぃや!
とっつかまえたる!
あぶないやん?
とらにぃが消すけどな!
等々…此方のツッコミは無視され、下から集中砲火。
ぐわんぐわんと頭が揺れる。
一人一人がそれぞれに話すものだから、支離滅裂で取り纏めがない。
が、言わんとしている事は分かった。
本当に、耳に痛い話である。


「ん〜、働きモンがぎょうさん居って結構なこっちゃ。んじゃキサマ等の晩飯にはワイが呼ばれとくわ」


出来る限り意地悪く大袈裟に言う。
本気にしたチビッ子共は目の色を変えて騒ぎだす。
続きはとらにぃに任せたるわ!
わーわーと再び砲弾が飛び交った後、そんな捨て台詞のように言葉を残して散っていった。


「…ったく、ガキは遊ぶ事だけ考えちょけっちゅーんじゃ」


子供にまで、気に病ませてしまうとは…全く情けない。
イライラとする胸中を、どうにも抑えられず。
かと言って発散する対象が居ない訳で。
振り上げた拳は頭を乱暴に掻く事で収めたが、膨れ上がった感情は消えてくれない。
蹴り飛ばしたい衝動を何とか変換して歩き出した、正にその刹那。
ふわりと、目端で白い物が動いたのだ。
反射的に目で追えば、それは路地裏へ吸い込まれていく。
何故か…そう。
腹の底がざわりと震える。
落ち着かないような、焦るような。
直前まで渦巻いていた怒りが一瞬で消えてしまう程の焦燥を感じた。


「っ…!」


無意識に体は動いた。
気付けば路地裏の暗がりに己が身を沈め、息を呑んでいた。
視線の先に白い物の正体はなく、不自然にぼんやりと明るい。
勿論、その明るさに驚いた訳ではない。
明かりの元は火だ。
火が、塊で、無数にふよふよと漂っている。
そして――――なにかが、いた。
赤黒い体躯、剥き出しの牙、天を穿つような角。
まるで、絵巻の鬼そのものな、なにか。
荒事は日常茶飯事だ。
誰であれ何であれ、負けた事はないし負けるつもりもない。
況してや怯むなんて、と。
それなのに……。
真っ黒にくり貫かれた眼窩から蛇のような目玉が現れ、視線が合った。
その瞬間に死を視たのだ。
嫌だ、死ねない、死ぬ訳にはいかない、これは、この命はっ――――!
切な叫びは発する事も出来ず、無慈悲に鬼の舌が伸びてきた。
避けようと足を引こうとするが上手く動かせない。
まごつく間に刀の如く鋭いそれは迫ってくる。
頭を貫かれる――そう思った、のに。
それがこの身に起きる事はなく、視界が白に覆われた。
白の正体は布で、頬を掠めたのは袖。
つまりは人、で……


「ま、くの、うち…」


もう随分と口にしていなかった友の名に驚いたのは自分自身であった――――。




《左方に》
 

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