雑色

□気付かない気付けない
1ページ/1ページ




自分が万能だとは思わない。
出来ない事もあるし、知らない事もきっと山の様にあるだろう。
まあしかし、出来る事は多い方がいい。
知らない事は少ない方がいい。
だからあれは知識欲とか、そういう類のものだ。
決して、変な意味はなかった。
いや、変な意味てなんだ?
ああそうだ、性癖的な意味で?
いやいやいや。
おかしい、おかしいぞ私!




《気付かない気付けない》




人というのは消費の多い生き物だ。
食事を摂らなければ生命活動を維持出来ず、睡眠をとらなければ健康を損なう。
この睡眠は、或いは食事よりも重要なもので。
マウス実験で断食よりも断眠させた方が早く死んでしまった、なんて結果もある。
特に肌の新陳代謝は寝ている間に促進されるそうだ。
女性には何より、大切な事だろう。
まあだからという訳ではない。
今は休憩時間だ。
昼食後であるし、執務室とは言え上司―つまり私だが―は席を外していたのだし、気が抜けるのは分かる。
更にこの優秀過ぎる部下は、ともすれば…いや、確実に私よりもあの途方もない履歴書の数々を捌いていた。
文句はないし、注意する必要性もない。
だが…


「あまりにも無防備じゃないのか?」


良く言えばあどけない、悪く言えば馬鹿そうな。
そんな顔を晒し、机の上で腕を枕にしている我が副官。
思わず呟いた台詞は穏やかな寝息をBGMに辺りに響いた。
受け取る者は誰も居らず独り言と成ってしまったそれに、異を唱えたのは自分自身だった。
防備とは誰に対してだ?
ここは私の執務室で、今は就労時間外。
余程の急用でない限り入る者はいない。
これで私が外見上も異性であれば、目くじらを立てるべき場面だろうが。
生憎、見た目は同性のしかも年下の女の子。
実際に無防備だと云う事実を知り、頭を抱えたのはまだ先の話な訳で。
その為、目下の問題は休憩時間終了までの数十分を潰す事柄。
元より気の向かない仕事だ。
書面を見る気分には絶対になれない。
休憩らしく珈琲を、と思い立ち豆やらカップやらを準備しようと、しようとする、のだが…


「ない…」


珈琲豆所かカップも見付けられない。
それ以前に、どこにそれらがあるのか見当も付かない。
何故?
数少ない、私が私だと云う証の嗜好品。
口にしない日はない物だ。
午前中だって、書面に目を通しながら飲んで…―


「……あぁ、」


数時間前の自分を思い返し、呆れと情けなさが押し寄せる。
ここ何日か、私は珈琲を入れていないのだ。
準備・作成をすっ飛ばし、香りを楽しみ飲むという完成のみを味わっていた。
当たり前だが、珈琲は勝手に出てこない。
お茶請けも付いてこない。
こいつだ。
先程から右往左往し、ごそごそと物色している私に未だ気付かない部下。
なんて事だろう。
これでは普段台所に立たない父の休日そのものだ。
いや、父も、況してや夫も未経験であるが。
とにもかくにも由々しき事態。
飲めないとなると尚更飲みたくなる。


「セ、」


いやいや駄目だ、休んでいる部下を起こして用件が珈琲て…情けなさ過ぎる。
開いた口を塞いで控え目に溜息を吐く。
良い部下に恵まれたものだと思う半面、厄介でもある。
だってそうだろう。
誰かが欠ける事で回らない会社など在りはしない。
常に同じ事が出来て当たり前。
代わりが居て当然。
それが会社、或いは社会だ。
代用のないものなんて、唯一無二な己自身だけだろうに。
いっそのこと転属させようか。
などと、反対する者も困る者さえも一人な思ってもいない事を胸中で呟いた――直後だった。
むにゃむにゃと最早鳴き声のような声に混じる、寒いという言葉。
私が言う訳はなく、この場に他人は一人しか居ない。
今度こそは遠慮もせず思い切り息を吐き出した。
部下の体調管理も上司には必須なのだ。
で、取り出す物が贈られた膝掛けなのだから格好がつかないか?
誰からなんて言わない。
女の子は体を冷やしちゃダメです!と。
寄越した物を当人よりも一番に使うという間の抜けた居眠り者の有り様に少し笑えた。
さてさて、起きたら何と言ってくるやら。
意地の悪い事を考えつつ、淡い桃色のそれを丸みを帯びる肩に掛けた。
最初から思っていたが、やはりこれは私には似合わない。
物は持ち主を選ぶものだ。
同じ性能の物があったとして、同じ結果を出せるかと云えば。
答えは否、だ。
あぁ、だってこれはこんなにも良い匂いを発してはいなかった筈。
膝掛けが起こした僅かな流れに乗ってきたもの。
ふわりと鼻腔を擽る甘いような匂い。
離れようとしていた足が無意識に動いた。
どこに、とは自分でもよく分からない。
匂いに誘われて、近付いて。
気が付けば視界にはブラウンの髪と柔らかそうな首筋があった。
すん、と鼻を鳴らして息をすれば広がる匂い。
香水、だろうか。
他人から良い匂いがするなど感じた事もなかった。
逆にうんざりする臭いは常日頃で。
もう本当に、煙草の臭いと男の体臭は最悪だ。
それからすれば、なんと芳しい匂いだろう。
いや、匂いフェチなんて事はないし興奮している訳でもないのだが…
なんと言うか、このまま…


「た、大尉?」


「ん?…あ」


ある種、夢見心地を味わっていた私は戦々恐々とした声に瞼を、顔を上げた。
そこには零れ落ちそうな青い瞳があって…あった筈なのに、消えた。


「す、すみません!ちょっとだけっ、少しだけのつもりで、そのっ、寝てしまって、あのっ、えぇとっ、これもありがとうございましたっ!」


「いや、休憩時間なのだから何をしていてもいい。それにこれは元は貴様からの贈り物であったのだし、それより起こしてしまって」


すまなかった。
正に飛び起きたセレブリャコーフ少尉は真っ青な顔で謝罪と礼を並べ立てる。
此方としては、どうとも思っていなかったそれら。
休憩を邪魔した方に非があると判断して、その言葉を告げようとした。
そう。
告げようとしたのだ。
何をしていたのですか?と躊躇いながらも問われなければ、問われさえしなければ言えていた筈の言葉。
それは、ひゅうと飲み込んだ息と共に喉奥へと引っ込んだのだ。
何を?
私は一体何をしていた?
寝ている部下に近付いて、至近距離で匂いを嗅いで?
なんだそれ変態か私は!
やばい、セクハラで訴えられる!
ここには二人しか居ない。
証言者の存在しない密室で、しかも私は男。
確実に被害者の言が優勢だ。
あ、いや私は女だった。
いやでも、これはパワハラとかになるのか?なるんだろうか?なる……よなぁ。
そんな!部下に無体を働く上司なんて出世に響くどころか社会的に破滅じゃないか!
などと、時間で言えば一秒も経たない内に胸中で叫んだ私は。
泣き出しそうな青い瞳に、慌てふためく心がすーっ、と冷えていった。
基本、明るく朗らかな部下だ。
戦場には似つかわしくない温かな性格。
お人好し過ぎなこの副官は、感情豊かで表情が瞬く間に変わる。
笑ったり、驚いたり、怒ったり、悲しんだり。
しかし、泣いた顔など一度も見たことはなかった。
そんなに?そんなにも精神的苦痛を与えてしまったのか?
衝撃を隠せず呆然としてしまう。
何がと言えば、割りと気に入っている部下を傷付けてしまった事…ではなく。
そんな反応をされて思いの外落ち込んでいる自分に、で。
足元に底のない大きな穴が突然現れて吸い込まれていくようだ。
立ち尽くす、という言葉をこんなにも体感した事はない。
何をしたいのか、どうしたらいいのか、全く頭に浮かばない。
どう、すれば…


「私っ、臭いんですかっ?」


「…………はい?」


私の聞き返しを返答と受け取った少尉は。
とうとう目尻に涙を溜めながら、自身の腕やら髪やらを嗅ぎ始めた。


「ちゃんとお風呂に入ってるのにっ、なんでぇっ?何時からですか大尉っ?」


「いや、落ち着け。誰も臭いなんて言っておらんだろう」


「だっ、だって、じゃあどうして、においを嗅いでいたんですか?」


「どうして、って…」


良い匂いがしたからです。
て、本当に変態なのか私は。
改めて省みる行動の異常さに愕然としながらも。
嫌がられてはいなかったのか、と何故か酷く安心している自分がいて。
未だ必死に臭くないかと嗅ぎまくっている少尉の姿に笑みが零れた―――。





《気付かない気付けない》
終わり
(私、ちょっと着替えてきます!)
(だから誰も臭いと言っていない)
(だって、大尉っ!理由を言ってくれないじゃないですかっ)
(う、それはその…)
(いつもハッキリ物を言われる大尉がそこまでっ…!やっぱり行ってきます!)
(はぁ、もう好きにしろ)
 

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ