ギトンのあ〜いえばこーゆー記

2015.3.11.〜  
 
小説・詩

 







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【BL週記】志賀直哉と里見ク―――同性の愛慾と葛藤(9)

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松 江 城    







 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【BL週記】志賀直哉と里見ク―――同性の愛と葛藤(8) からのつづきです。






 【23】オトコのはだかと電車事故―――里見26歳、志賀30歳



「再び夏が環
(めぐ)って来てからのことだった。その時分には既に以前のやうな友誼に復してゐた昌造{里見ク}と佐々{志賀直哉}とは、〔…〕一緒に連れだってあてもなく街を散歩してから、その年納涼のために公開された御台場の一つへ渡ってみようといふことになって、芝浦の埋立地の海岸に立った。

 旧暦15日の月があがりかゝってゐたが、いかにも夏らしく、夢のやうに足もとが暗かった。ボウ\/と、締りのない、生温かく湿った風が肌にベトついて快くはなかった。それで、御台場に渡す艀
(はしけ)の出る場所もちよっと知れにくかったが、むきになって探してみる気もなく、堤防近く舫(もや)ってある舷(ふなべり)の高い和船の舳(みよし)から暗い海の水へドブン\/と飛び込んでゐる若者たちの呑気な夜の水浴を眺めた。元来かういふことの大好きな昌造にさへ妙に危っかしく思はれるやうな晩だった。〔…〕二人は下駄を揃へてぬいだ上へ腰をおろして、暗い水平線を望んでゐた。潮の匂ひに混って、腐った魚腸(わた)の匂ひもして来た。それが、湯のやうになった海の上へ、白い腹を出して浮んだ死魚の体からでも匂って来るやうな心持をさせた。

 広々とした埋立地の草原を横ぎって、彼等はそろ\/帰りかけた。往き道には心附かなかった小屋がけの素人相撲の前へ出た。彼等はそこにはいって、猿股の上から緋金巾※の褌など締めた逞しい青年たちを、薄暗いカンテラの光の下
(もと)に眺めた。好悪の劇しい彼等は、およそ頭数の知れた力士たちのなかから、すぐに贔屓々々(ひいき\/)を見つけ出した。規定の時間が来て、木戸番の爺に追ひ立てられるやうにして、最後に彼等がそこを出た時には、いくらか元気を回復したやうな気がした。いつか月は天心に昇って、青く澄んでゐた。」
「善心悪心」, in:『里見ク全集』,第1巻,1977,筑摩書房,pp.363-364.

青字は、原書の傍点付き文字。

※「緋金巾」:ひがなきん。化学染料で赤く染めた「かなきん」。「かなきん」は、幅30cm程度の薄地の綿布。「緋金巾の褌」は、いわゆる「赤ふんどし」。



 「お台場」へ運んでくれるハシケの船着き場が見つからなくて、けっきょく「お台場」へは渡らなかったことがわかります。水泳と素人ずもうの裸体の若者たちを眺めることに二人の楽しみがあったのですから、「お台場」などはどうでもよかったのです。

 しかし、同じように“オトコのはだか”を見て楽しむにしても、二人の感じ方には違いがあります。『出来事』で、男の児と若者の裸体の眺めに、酷暑のうっとおしさを払拭してくれる爽やかなものを感じていた志賀直哉とは対照的に、里見クが強調するのは、水浴の若者たちが飛び込む夕刻の「暗い海」であり、素人ずもうの小屋がけの「薄暗いカンテラの光」のもとでうごめく肉体どうしの縺れあいです。

 ともかくも、「元来かういふことの大好きな」二人なのです。そして、逞しい「力士たちのなかから、すぐに贔屓々々を見つけ出し」て声援を送ります。「素人相撲」は、有料の見せ物であったようです。「木戸番の爺に追ひ立てられ」たのは、ふつうのスポーツ観戦とは異なる、ヌード鑑賞のような・この二人の異様な興奮ぶりが、他の客に迷惑になると思われたからかもしれませんw

 こうして、“オトコのはだか”を見てスッキリした二人は、街のほうへ戻って行こうとしますが、途中、道に迷ってしまいます。



「その道は湯屋
〔ここでは「銭湯」のこと――ギトン注〕の前へ出て行き止って了った。片側は石炭殻がガス\/頽(くづ)れ落ちて来る暗い傾斜で、上には鉄道のシグナルが雲を突くやうに立ってゐた。あと戻りをするのが業腹(ごふはら)なので、彼等はかまはず鉄道線路の土手へ登った。そこを横切ればすぐ田町の通りにおりられることとばかり思ひ込んでゐたのに、あがってみると、土手と彼方(むかう)側の往来との間には、コンクリートの壁か何か工事中らしく、その上案外往来は低かった。

 『これアおりられない。廻らうか』
 『なに、線路についてもうちっと行ってみよう。大抵どツかでおりられるよ』

 彼等は新橋のはうへ向って線路のわきを歩いて行った。そこへ前方から大地を震動させて下り列車が来た。」

「善心悪心」, in:『里見ク全集』,第1巻,1977,筑摩書房,p.364.













 「土手」とは、現在山手線・中央線の新宿駅付近にあるような、線路敷を載せた高架の土手と思われます。直哉は、その上へ登って、線路敷のレールのわきを歩いたのです。危険きわまりない! この・田町駅付近の線路敷は、東海道線と山ノ手電車(山手線)が共用していました。京浜東北線は、まだありません(1914年開業)。

 二人は、線路を渡って向う側(北側)へ降りようとしていたので、新橋駅(旧)方面に向って線路の左側を歩いています。

 二人の正面から、東海道線下り列車がやってきます。品川-新橋間の線路敷にはレールが4本あり、北側2本が山ノ手電車(複線)。南側2本が東海道本線(複線)でした(Wiki:「山手線」 「東海道本線」参照)。東海道線下り列車は一番南側を走りますから、歩いている二人からいちばん遠い線路です。

 ところが、二人は、正面から来る下り列車に気をとられて、後ろ(品川方面)から山ノ手電車(上り)が来ていることに気づきませんでした。上り電車は最左側(北側)――二人のすぐそばを通過します。



「下りの列車は彼等の歩いてゐる側からは一番むかうのはづれの線路の上を轟々
(ぐわう\/)と凄じい響をたてて走って行く。―――昌造{里見ク}のつい目の前から、浴衣がけの佐々{志賀直哉}の、薄ら白い後姿が、パツと消えてなくなった。途端に昌造は、非常な音響と、吹きよろめかされる程の空気の攪乱に会った。熱気を帯びた焦げ臭い風が裾をあふる。すぐ頭の上を四角な明るいものがチカ\/チカツと飛び過ぎる。次の瞬間に、昌造は、目の前に山ノ手電車の岡のやうに大きな後姿と、赤いランプの光を見る。恐らく1秒よりも短い間にこれだけのことを感覚する一方では、佐々が鞠(まり)のやうに五六間先へケシ飛んで行く瞬間の姿をも見た。そしてその次の瞬間には、切腹した人のやうにうツぷしてゐる佐々を後から抱き起してゐる己を感じた。―――額から鼻柱の横へ流れてゐる血を見た。目はあいてゐる……。

 『大丈夫か』
 『大丈夫だ』

 
〔…〕けれども昌造は、(これア佐々は死ぬかも知れないぞ)と思った。(どうして死ぬのだらう)と自問して、その時肇(はじ)めて、佐々が山ノ手電車に触れたといふ事実をはっきり意識した。―――もう一筋の血が唇から顎へ流れて来た。これが血ヘドなら助からない!」
「善心悪心」, in:『里見ク全集』,第1巻,1977,筑摩書房,pp.368-369.



 志賀が電車と接触した・この事故の描写の迫真性は、志賀の『出来事』と比べても遜色がないでしょう。『善心悪心』の発表は 1916年ですが、その頃にはすでに、里見は相当の実力を持っていたことがわかります。とくに、意識の深層まで捉えてくる洞察力は、志賀には無いものといってよいと思います。

 志賀の意識はしっかりしており、また、電車のほうでは、異常に気づかずに通過して行った(夜だったので)ことからすると、ほとんど衝撃は無かったと思われます。志賀の身体も、車体から大きな衝撃は受けていないでしょう。おそらく、浴衣が車体の突起部に引っかかるとかして、跳ね飛ばされたのでしょう。志賀の姿勢は、思わず受け身をしていたかもしれません。

 しかし、里見は、「佐々{直哉}は死ぬかも知れないぞ」と、大きな恐怖感にとらえられます。それが、里見《同性愛》――直哉への愛情のためであることは、言うまでもありません。

 が、自分では気づかないあいだに直哉の身体を後ろから「抱き起してゐ」た、というクダリに、私は里見の愛情を強く感じます。

 彼らの居る場所は、ガードの上で、すぐ下を夕涼み客がぞろぞろと歩いているのが見えます。



「彼等の周囲には人々が集って来た。角燈を持った線路工夫もゐた。

 
〔…〕湯屋の帰りらしく、手拭をぶらさげた屈強の若者が目にはいった。『さっきの相撲とりの一人だな』と彼{里見ク}は心丈夫に思ひながら、

 『あなた、すみませんが手を藉
(か)してくれませんか』

 その若者は、人々がかういふ場合に得て陥り易い、義に勇むといふ風な、気負ひ立った様子もなく、無愛想に近よって来た。昌造{里見ク}にはそれも気に入って、その若者に対しては無遠慮になってかまはないやうな心持で、下げてゐた手拭を貰ひ受けた。それで佐々{志賀直哉}の頭に後
(うしろ)鉢巻をした。〔…〕顳顬(こめかみ)の動脈を締めつけて置いたら、いくらか出血が防げるだらうと。

 そこへ白服の巡査が来て、『医者はまだ来ないか』と言った。そのとき佐々は癇癪を立てたやうな声で、

 『警察医なんぞに来て貰はなくてもいゝ。それよか早くどこか病院に連れてって貰はう』

      
〔…〕

 『それぢやア医者はいりませんから、大急ぎで俥
(くるま)〔人力車――ギトン注〕を2台いって〔呼んで――ギトン注〕くれませんか』

 巡査は、昌造にものを言ひつけられたことで、ひどく感情を害したらしく、『そんなことは自分でしろ』といふやうな言葉を残して去った。ともあれ
〔線路敷の土手の上から――ギトン注〕往来へおろすことになって、湯帰りの若者が前に廻って背負(おぶ)った。昌造が背後から助け載せようとすると、突然怪我人{直哉}が、『痛い痛い』と叫んだ。見ると背で浴衣(ゆかた)が五六寸ほど2ヶ所破れてゐた。彼の心はまた暗くなった。

 
〔…〕田町の往来へおりた。誰が呼んで来てくれたのか、俥が2台待ってゐた。」
「善心悪心」, in:『里見ク全集』,第1巻,1977,筑摩書房,pp.366-367.






 






 里見の『善心悪心』は、志賀の『出来事』と比べて、電車事故と、そこに集まって来た人びとの描写は、どうでしょうか? たしかに、描き方の違いが見られます。私は、里見の描き方のほうが優れていると思います。

 志賀の場合は、登場人物すべてに対して、きわめて傍観者的に観察して書いている感じがします。作者も事故の場に居合わせているにもかかわらず、自らは騒ぎに関わらないというか、距離をとって構えている感じです。しかし、里見の場合は、まさに騒ぎの渦中に身を置いて関わっています。そのために、登場人物のおのおの――「湯屋帰りの若者」や「警官」――に対して、作者{昌造}の好悪の感情や判断を、隠すことなく表しています。私には、生活感覚としてそのほうが自然に思われます。



 里見志賀が、人力車2台に分乗して病院へ向かうとちゅう、
「自動電話〔公衆電話?――ギトン注〕の灯で佐々の顔を見ると、蒼ざめてもゐたが、瞳孔が開いたとはかういふのを言ふのだらうと思はれるやうな、生気のない、凄い目付をしてひとツところを見詰めてゐた。昌造はこれアいけないと思った。

〔…〕彼の頭は、なかがキユーン\/と鳴ってゐるやうな気がした。

 ―――佐々は死ぬかも知れない!

      
〔…〕

 佐々は死ぬかも知れない!

 いくら思っても、
〔…〕どんな感情ひとつ浮びあがっては来なかった。〔…〕

 その晩昌造は、怪我人の枕もとで一夜をあかした。」

「善心悪心」, in:『里見ク全集』,第1巻,1977,筑摩書房,pp.369-370.



 このあと小説は、「佐々{直哉}」の死の恐れと生還をめぐる「昌造{}」の心理について、ながながと描いてゆくのですが、それは、『善心悪心』の成立時(1916年)に、いま一度この小説を取り上げることになるので、その時に検討したいと思います。

 以上、ざっと読んだ限りでは、この電車事故じたいは、志賀の不注意によるもので、《同性愛》とも、『君と私と』をめぐる二人のあいだの不和とも関係はなさそうです。線路敷を歩くという無謀な行為が当然にもたらした事故というべきでしょう。少なくとも、二人が口論していたとか、志賀が飛び込み自刹を試みた、などといった兆候は、まったく見られません。

 ただその点についても、1916年に進んだ段階で、再度検討する予定です。






 【24】尾道と大阪―――里見26-27歳、志賀30-31歳






「{1913年}9月19日、{有島}武郎から志賀宛に見舞いの葉書があり、『君と私と』は続けさせてほしい、私はあれを読んで苦しむことを好む、と書いている。弟{里見ク}が苦しみつつ真実を晒け出しているのを自ら苦しんで読みつつ、続けさせてくれというこの葉書は、有島武郎の真骨頂である。武郎は志賀との確執を札幌にあって懸念していたのだろう。」

小谷野敦『里見ク伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.82.



 里見の長兄である有島武郎は、年齢が離れており、札幌で北大(東北帝大農科大学)に勤務していたので、里見との接触は多くはありませんでした。しかし、この弟のことは気にかけていたようで、この時以外にも折りにふれて、里見の立場を応援する行動をとっています。

 9月19日には、志賀はすでに退院していましたが、自宅療養中の志賀に葉書を出して、里見とのあいだの仲裁を試みているのです。



「怪我の養生に志賀が城崎温泉へ行くことになり、{10月}14日、クは先に行って国府津から同乗して上方
〔かみがた。関西――ギトン注〕へ向かった。だが、この頃既にクは、『君と私と』の続稿を書いていたはずである。

 15日、大阪へ着いて九里
(くのり)四郎※の出迎えを受け、前に泊まった千秋楼に宿り、3人で2日ほど茶屋〔遊女屋――ギトン注〕で遊んでいるから、志賀の怪我養生は名目だったのかもしれない。17日に志賀は一人で城崎へ向かったが、クはそのまま大阪に残り、これが夢想した家出の本格的な実行となり、運命が転回するのである。とはいえ、実際には実家から月 40円仕送りして貰っていたというのだから、お坊ちゃんの謗りは免れまい。

 クは九里夫人の髪を結いに来ていた女の紹介で、大阪市南区笠谷町20 の山中家の『屋形』(妓楼)の2階を月 18円20銭で借り、長期滞在を決めた。ここの1階には、友吉
(ともきち)の名で南地※※に出ている芸妓とその母親の元芸妓が住んでいた。」
小谷野敦『里見ク伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,pp.82-83.

※「九里四郎」:1886-1953 洋画家、加賀藩前田家の家老・九里家の養子。学習院で志賀直哉の同級。中等科を退学し、東京美術学校西洋画科卒。在学中に文展入賞。1911-12年ヨーロッパ留学、帰国後大阪窯業社長の娘磯野道子と結婚し、1914-15年には大阪にあり、下阪中の里見の世話をした。

※※「南地」:なんち。通称「ミナミ」。大阪市中央区にあった花街。道頓堀は、その一部。1871年に遊郭として公認されたが、1912年の大火により遊郭の機能は廃止された。南地は、娼妓よりも芸妓の数が多く、また芝居小屋、劇場など芸能に携わる業種が混在しており、広い客層で賑わっていた。







松江 小泉八雲・旧居






 が寓居した下宿は、「『屋形』(妓楼)の2階」とありますが、所有者である山中母子の、母はすでに芸妓を引退しており、娘は「南地に出ている芸妓」ということですから、「屋形」(東京の「置屋」にあたる)の機能は休止していたようです。

 この娘の芸妓「友吉」(本名・山中まさ)と、里見クは愛人になり、2年後には結婚することになります。

 は、おそらく彼らの紹介でしょう、活動写真館(無声映画館)の弁士の仕事をしています。ドイツから輸入した映画の筋がわからないので、ドイツ語ができそうなに依頼が来たのだそうです。無声映画ですが、輸入元からリブレット(脚本)が付いてきたのでしょう。は、ドイツ語はあまりできなかったはずですが、知り合いの医学博士に相談して、弁士をこなしています。



「これから、志賀との松江行きや一時帰京を挟んで、2年近く、クは大阪に滞在し続けた。当時、新聞ジャーナリズムは大阪が拠点で、後年のような東京一極集中ではなかった。そして、この 2年の大阪滞在によって、クは大人になり、志賀からも、有島家からも自立することになる。家産のある家の子として連日友達耽溺していた日々を、大阪で脱ぎ捨てるのである。何より、クが大阪で、下層の人々を仔細に観察し、ともに生きることを知ったのは、後々まで大きな影響を与えていると思う。それまで、ゴーリキーやドストエフスキーの描く下層の民の生活を読んではいても、それは実感としては感じられなかったろう。
〔…〕

 クはこれから後、下層の人々の会話を巧みに描く作家になるが、それも大阪での生活の賜物と言えるだろう。」

小谷野敦『里見ク伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,pp.84-85.






 【25】ひと夏の思い出―――里見27歳、志賀31歳






「{1914年}4月下旬、志賀は再度城崎へ行ったが、5月13日、クは城崎で志賀と合流して松江に向かった。これが、
〔…〕二人の松江生活になる。〔…〕

 松江へ行ったのは小泉八雲に関心があったからで、その頃出た田部隆次の『小泉八雲』を柳{宗悦}が志賀宛に送っている。」

小谷野敦『里見ク伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,pp.86-87.



 松江にゆかりの深い小泉八雲(ラフカディオ・ハーン[ヘルン])については、学習院中等科時代の直哉に英語版『怪談』を貸しており(1906年)、翌年には、八雲の『力馬鹿』を翻訳して回覧雑誌に載せています。二人とも早くからハーンには関心があったのです。



「一方、有島家では、英夫{里見ク}の『家出』をめぐって、生馬{壬生馬}と両親とでもめていたようだ。

 
〔ギトン注―――松江で〕志賀とクは別々に下宿し、八雲の旧居を訪ねたり、短篇『世界一』に描かれたように鳥取砂丘で二人して大きな人間の顔を描いて、世界一だと言ってみたりしている。いちばんよく言及される作品が『或る年の初夏に』で、志賀とクの松江での生活を描き、最後に、二人の下宿の間にある橋の上で、お互いにこちらへ来いと引っ張り合って、遂にクが志賀を撥ねのけて別れ別れになる所で終っており、志賀の引力からの自立を象徴するものとされる。しかし、志賀のほうでは、松江でのクとの生活を描くことはなかった。」
小谷野敦『里見ク伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,pp.86-87.



 「橋の上で」とありますが不正確で、道の角です。「撥ねのけて」も正確ではない。詳しくは、次節で検証します。

 志賀直哉松江滞在を考えた直接の動機は、夏目漱石から頼まれた新聞小説を『東京朝日新聞』に連載するため、静かな執筆環境を求めたことにあったようです。新聞小説は、連載する1回ごとに小さなヤマを作って読者を期待させ、次の回へつなげるといった技術が必要で、仲間うちの同人誌掲載を中心にしていた直哉にとっては、新たな分野でした。



「6月末か 7月はじめ、姉の山本愛が神経症になり、
〔…〕〔里見に――ギトン注〕父から手紙が来て、7月に帰京した。〔…〕志賀は松江に残ったが、夏目漱石から、『東京朝日新聞』に連載小説を書くよう言われていて、しかし書けず、10日ごろ上京して漱石を訪ねて断り、また松江に帰っていった。穴埋めに武者小路に話が行き、数人の若い作家が短い連載をすることになったから、加わらないかとクに話があった。」
小谷野敦『里見ク伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.87.



「新聞小説といふものが根本的に直哉の資質に合はなかった、
〔…〕

 直哉は漱石に、『新聞の読み物だから、豆腐のぶっ切れは困る。そのつもりで書くやうに』と注意されたらしい。『これには困った』と、自分で言ってゐる。

 『
〔…〕それまでが白樺の同人雑誌で何の拘束もなしに書いて来た癖で、1回毎に多少の山とか謎とかを持たせるやうな書き方は中々出来なかった』

 
〔…〕夜明かしにつぐ夜明かしの努力はしてみたけれど、結局思ふやうに筆が捗らず、松江滞在中上京、漱石を訪ね、朝日への連載を辞退する」
阿川弘之「志賀直哉」, in:『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,pp.227-228,218.






 
松江城・外濠 「濠端の家」があったのは、右の  
白い倉庫の附近。カイツブリらしい水鳥もいる。 






 漱石から新聞小説の依頼があった 1913年末から 14年4月末まで、直哉は尾道を引き払って、東京・大井町の借家で暮していました。この大井町の暮しで、心身の健康を害したようです。5月に京都から有馬、山陰へ旅して、松江に落ちついたのは、漱石に依頼された原稿執筆のほかに、健康を取り戻す目的がありました。里見クを伴なって行ったのも、そのためでした。


 東京では
「悪所通ひが又始まってゐたし、絶えず何物かに追ひつめられてゐるやうな惨めな気分で、直哉はさながら半病人、今流に言へばノイローゼ気味であった。

 里見クがやはり、大阪南区の芸者の『屋形』に寄寓して、『余り健全な生活』とは言ひかねる日々を送ってゐた。

 此の度の松江行きは、東京朝日連載の仕事を書き溜めるのと、里見と一緒に、少し健全な生活をしてお互ひ健康を取り戻さうといふのと、2つの目的を兼ねてゐた。」

阿川弘之「志賀直哉」, in:『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,p.221.



「京都、大阪、有馬、城崎温泉、鳥取、東郷湖と廻る途中、城崎で里見クと落ち合ひ、松江へ入ったのが大正3年{1914年}の 5月17日前後と推定される。

 
〔…〕汽車で松江へ着いた直哉とクは、末次本町の旅館赤木館に 1泊か 2泊ののち、赤木館からすぐの東茶町7ノ16 に好もしい小さな家を見つけて、借りることに決めた。ほそい路地の奥で、目の前は宍道湖〔しんじこ〕、眺めもよく、大いに気に入って賃貸契約を交した」
阿川弘之「志賀直哉」, in:『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,pp.221-222.



 ところが、この借家の下は船着き場で、肥え桶を積んだ舟がたえず停泊して臭気をまきちらしたので、二人は4日後に、ここを引き払います。そして、里見は、「殿町
(とのまち)」の素人下宿の2階へ、志賀は、「内中原(うちなかはら)町」167の1軒屋を借りて転居します。里見の下宿は賄い付きでしたから、志賀も夕食はここで摂っています。

 ↓地図を見ると、「赤木館」は、現在の市役所隣りの公園のあたりにあったと思われます。その隣りに、たしかに船着き場があります。「殿町」の下宿は、その北側、現在は県庁や県民会館のある界隈でしょう。













 志賀が1軒屋を借りた「内中原町」は、お城の向こう側で、小泉八雲旧居にほど近いところ。現在そこに行ってみると、ひじょうに閑静な場所で、夢のような風景に囲まれています。志賀直哉は、ここでの生活を短篇『濠端の住まい』に書いていますが、たしかに松江城の濠に面しています。

 しかし、観光のために整備された現在の状態とはちがって、当時は濠の水も乏しく、直哉は濠の底に降りて釣りをしている写真が残っています。まわりに人家も少なく、寂しい一角だったと想像されます。

 直哉が、それまでのとの“二人の生活”をやめて、ここに移ったのは、本人の“神経質”のためではなかったか、という気がします。肥え桶の舟が、よほど応えたのでしょう。この際、ごみごみした街中から離れた場所に移りたい気持ちになったのではないでしょうか。



「町はずれの濠
(ほり)に臨んだささやかな家で、独り住まいには申し分なかった。庭から石段で直ぐ濠になっている。対岸は城の裏の森で、大きな木が幹を傾け、水の上に低く枝を延ばしている。水は浅く、真菰(まこも)が生え、寂びた工合、濠と云うより古い池の趣があった。鳰鳥(におどり)※が始終、真菰の間を啼きながら往き来した。」
志賀直哉「濠端の住まい」, in:『新潮日本文学 8 志賀直哉集』,1969,新潮社,p.443.

※「におどり」:カイツブリの古名。



「旧千鳥城※の外堀を庭先の池のやうに眺められる、
〔…〕彼方(むかう)岸には鬱蒼とした大木が茂ってゐて、いつもコローの絵にあるやうな涼しげな蔭が静な水の上にあった。藺〔いぐさ〕か何かがスー\/立ってゐる間を、よく、モグリといふ水鳥が見えたり、見えなくなったりしてゐた。

      
〔…〕

 佐竹{志賀}のうちのはうで夜を更すと、私には帰り道がなか\/難儀だった。
〔…〕古い掘割も餘りいゝ気持のものではなかった。ブク\/、ブク\/と、よく泡沫(あぶく)の浮きあがる音が、静まり返った夜更の闇に聞えてゐた。駆けだすとなほ可怕(こは)くなるので、努めてゆっくり歩かうとしながら、私の足はついひとりでに早くなってゐた。」
里見ク「或る年の初夏に」, in:『里見ク全集』,第2巻,1977,筑摩書房,pp.9-11.

※「千鳥城」:松江城の異称。



 志賀は『万葉集』に出てくる古称で「鳰鳥」、里見は、この地方の方言でしょうか、「モグリ」と呼んでいますが、カイツブリ(↓写真参照)のことです。「マコモ」は、志賀の呼称が正確。水際に生える丈の高いイネ科の草です。

 志賀の筆は、この場所を夢のように描いていて、里見の、味もそっけもない常識的な記述と対照的です。現地に行ってみると、志賀の描写は作り物でないことがわかる。たしかに、そう思わせる夢幻的要素が、ここの風景にはあります。

 それに対して、深夜の濠の恐ろしげな描写は、志賀には無い里見独自のものでしょう。







宍道湖 カイツブリ?






「東京を発つ前、『人と人と人との交渉で』疲れ切ってゐた直哉は、心に大きな安らぎを得たといふ。此処では、人間との交渉より、虫や鳥や魚とのつき合ひの方が主であった。」

阿川弘之「志賀直哉」, in:『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,p.224.



「夜晩く帰って来る。入口の電灯に家守が幾疋かたかっている。
〔…〕私が若しも電灯をつけ忘れてでもいれば、色々な虫が座敷の中に集まっていた。蛾や甲虫(かぶとむし)や火取り虫が電灯の周りに渦巻いている。それを覗(ねら)う殿様蛙が幾疋となく畳の上に蹲踞(うずくま)っている。それらは私の跫音(あしおと)に驚いて、濠の方へ逃げて行くが、柱にとまった木の葉蛙は出来るだけ体を撓(ね)じ曲げ、金色の眼をクリクリ動かしながら私と云う不意な闖入者を睨みつけている。実際私は虫の棲家(すみか)を驚かした闖入者に違いなかった。

 私は一ト通り虫を追い出し、この座敷を自身のものに取り返す。そして、書きものを始める。明け方、疲れ切って床へ入る。濠では静かな夜明けを我がもの顔に鯉や鮒が騒いでいる。
〔…〕私はその水音を聴きながら眠りに落ちて行く。

      
〔…〕

 食器はパンと紅茶に要るもの以外何もなかった。若し客でもあると、瀬戸ひきの金盥
(かなだらい)で牛肉のすき焼をした。別にきたないとは感じなかった。却ってそれを再び洗面器として使うときの方がきたなかった。一つバケツで着物を洗い、食器を洗った。馬鈴薯(じゃがいも)を洗面器で茹でる時、台所のあげ板を蓋にした。」
「濠端の住まい」, in:『新潮日本文学 8 志賀直哉集』,1969,新潮社,pp.443-444.



 志賀は自分で食事を作って食べたかのように書いていますが、じっさいには、料理は里見の役目だったようです。金盥に石鹸をつけて志賀がいいというまで洗うのも、あげ板で蓋をして煮るのも、里見の仕事でした。

 朝は、志賀は自分の貸家で、パンと紅茶とキュウリで済ませ、里見は下宿の賄いを食べ、夕食は、二人とも里見の下宿で食べるか、志賀の貸家で自炊しました。里見の下宿は、1食 15銭で、鯛の塩焼きが出たりもしました。



「佐竹{志賀}が私のところへ泊ったり、私が彼方
(むかう)で泊ったりした。佐竹は自炊だった。〔…〕料理にはさうたう自信があったから、行くとよく料理番を勤めた。暑いので煮焚は一切庭先へ持ち出してやった。〔…〕赤裸で、縁先で、私たちは野蛮人のやうに、金盥のなかから貪り食った。〔…〕……晩くまで、真面目なこと、暢気なことの区別(わかれ)なく、のべつに喋り合った。」
「或る年の初夏に」, in:『里見ク全集』,第2巻,1977,筑摩書房,pp.20-21.



 志賀の小説からは完全に消されている“ふたり”での生活のありさまが、里見の小説を見ると、よくわかります。晴れている日中には必ず、二人で宍道湖でボート遊びや水泳をやっていましたし、夜もたいてい二人で“まったり”過ごしていたのです。志賀の新聞小説の執筆がはかどらないのも、無理はないでしょう。

 東京や大阪から友人の訪問もありました。白樺派には、八雲の愛読者が多く、八雲のいた松江志賀里見がいると聞いて、同人が入れ替わり何人もやってきたからです。美保関、加賀浦、玉造温泉に小旅行もしました。

 宍道湖大橋の下の貸しボート屋に、布の帆と竹の帆柱を預けてあって、晴れた日はまずそこへ行ってボートを漕ぎ出し、セイリングをしたり、嫁ヶ島という小さな無人の島に上陸して「相撲」をしたり、泳いだりしました。阿川伝記には「相撲」と書かれていますが、《同性愛》の二人が裸かで組み合って、格闘技だけをするとは思えません。誰もいない青空の下で、夢のような時間をすごしたことでしょう。



「嫁ヶ島といふ小さな島にあがって、無人の境を楽しんだりした。併しこの地方の陽気では、5月の中旬
(なかば)過ぎには、もう毎日のやうに水浴することが出来た。われ\/の皮膚は見る間に黒く焦(や)けて行った。それほど急には行かなかったが、私たちの体力もだん\/に回復された。

 
〔…〕八雲が『インキのやうに黒い』と形容したこの辺の海の水に、私たちは元気の回復した体をザブン\/と投げ込んで遊んだりした。

      
〔…〕

 陽は熱く、空は高く明るく、青葉は深まさって行った。」

「或る年の初夏に」, in:『里見ク全集』,第2巻,1977,筑摩書房,p.10,17,19.



 文筆生活で身体がなまってしまっているのに、学生のころのつもりでいたために、二人とも、ボートに乗ろうとして転げ込んでしまったり、ボートの上で立ち上がって、水に落ちてしまったり、といった失敗が数えきれませんでした。そのたびに、二人は大笑いしました。



「かういふ時に、私たちの笑ひは容易に止まらなかった。
〔…〕いつの間にかからきし体が利かなくなってゐて、他愛もなく無様な失策をするのが、我ながら可笑しくてならなかった。それが、少しづつでも体力の盛り返して来るのが感じられて、これが何より嬉しかった。

 遊び労れて、夕方湖から帰って来ると、晩飯は私の下宿か佐竹のうちかで、大抵一緒に食べた。

 
〔…〕

 佐竹は胸の三角筋と上膊の二頭筋との発育を、殆ど日に一度づつ検査して、その度に、どうだ肥ったらう、肥ったらうと、私の肯定を強要した。

 
〔…〕色街の遊びにはあまり興味がなくなってゐた。私の下宿などは、或る色街の真ン中にあって、出はいりには必ず芸者屋の間を通るのだが、一度も遊びに出かけなかった。」
「或る年の初夏に」, in:『里見ク全集』,第2巻,1977,筑摩書房,pp.10,13.






 
   宍道湖と嫁ヶ島






 どうやら、二人は、東京にいた時とはおおいに異なる、健康な生活をしていたようです。松江で唯一、二人の都会趣味をみたしたものといえば、芝居小屋でした。ちょうど、地方回りの「子供芝居」が来ていました。その子供俳優のひとりを、二人はひいきにして、女の子のお化粧をしているが男の子に違いない、などと二人で言い合います。あげくは、少年愛をつのらせて“店外デート”など目論むのですが。。。

 次節では、そのことにも少し触れましょう。





【BL週記】志賀直哉と里見ク―――同性の愛慾と葛藤(10) 近日うぷ ―――につづく。   










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