03/01の日記
05:13
【必読書150】スピノザ『エティカ』(6)―――明るすぎる“理性の世界”。スピノザは?
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ヘリット・ベルクヘイデ「アムステルダムのダム広場」
こんばんは。(º.-)☆ノ
【必読書150】スピノザ『エティカ』(5)からのつづきです。
【25】人間の3種類の“知”―――いずれも限界がある。
「▽定理40の備考2 人間の3種類の認識についての概要(意見、理性知、直観知)。
〔…〕
1 意見ないし第1種の認識〔「臆見」「想像知」ともいう。―――ギトン注〕〔…〕。
2 理性知ないし第2種の認識。〔…〕
3 直観知ないし第3種の認識。〔…〕」
チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,p.125.
「〔第2部・定理40・註解2〕以上述べたすべてのことから明らかなように、われわれは多くのものを知覚し普遍概念を形成する。すなわち、
i 感覚によってそこなわれ、混乱した、そして知性的秩序なしにわれわれに現われる個物から〔この部の定理29の系を見られたい〕。したがって私は、このような知覚をふたしかな経験による認識と呼び慣れている。
A 記号から、たとえばわれわれがあることばを聞くか、読むかによってものを思いおこし、それについてある種の観念――その観念はわれわれがものを想像するときの観念に似ている――を形成することから〔この部の定理18の註解を見られたい〕。
私はものを観想するこの2つの様式を今後、第1種の認識、いいかえれば意見 opinio あるいは想像力(想像知) imaginatio と呼ぶであろう。
B 最後に、われわれがものの特質について共通概念ならびに十全な観念をもつことから〔この部の定理38の系、39とその系、そして定理40を見られたい〕。これを私は、理性ならびに第2種の認識と呼ぶであろう。
以上2つの認識以外に、私がのちに示すように、第3種の認識がある。われわれはそれを直観知と呼ぼう。そしてこの第3種の認識は、神のいくつかの属性の形相的本質についての十全な認識から、ものの本質の十全な認識へと進むものである。」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.144-145.
スピノザは、人間の認識を、「想像知(意見、臆見)」「理性知」「直観知」の3種類に分けます。この順に、日常的な認識から、より高度な認識へ並んでいるわけです。
ここで、スピノザは例をあげているのですが、たとえば、
99 :36 = 77 : χ
という問題があった場合、
「この場合商人たちは、第2数に第3数を乗じ、その結果を第1数で除することは疑いない。」
op.cit.,p.145.
つまり:
χ=36×77÷99=28
この解法は、学校で暗記した公式が記憶に残っていたか、毎日の仕事の中で計算して習慣になっているために、何も考えずに掛け算が頭に浮かんだかでしょう。しかし、どうしてそういう計算になるのか? と訊かれても答えられません。
これが「想像知」。
商人のなかには勉強好きの人もいて、(17世紀のオランダでは)ユークリッドの『幾何学原本』を愛読している人ならば、この問題の解法と証明まで、一気に説明するかもしれません。
これは「理性知」です。
しかし、もっとかんたんな数の比、たとえば:
1 :2 = 3 : ?
のような場合ならば、「?」は6だということは、誰にでもすぐわかります。
「これは、第1数の第2数に対する関係そのもの〔倍だということ。――ギトン注〕をある種の直観によって見てとり、それによって第4数そのものを結論するのであるから、上の3つよりはるかに明瞭である。」
op.cit.,pp.145-146.
これが「直観知」です。
「想像知」は、人から聞いたり、何かで読んだりして知る場合のほか、日常体験の中で見たり思い浮かべたりして認識する場合です。文字どおりに頭の中に絵を描くようにして想像する場合だけではありませんが、共通点は、“原因”―――そういう掛け算になる理由、証明―――の認識が欠けていることです。“原因”を知らない、あるいはそこまで考えないので、認識が真かどうかは不確かです。つまり、「非十全」な認識です。
これに対して、「理性知」は、「ものの特質についての共通概念」による認識です。たとえば、私たちは身の回りのさまざまな猫との体験から、「さわると柔らかい」「ミャ―と鳴く」「飼い主にまつわりつく」などといった共通の特質があることを知り、それらから、「猫」という「共通概念」を認識します。また、「3匹の猫」「3箇のリンゴ」といった実例から、「3」という数を「共通概念」として認識します。このような「共通概念」は、多数の実例を体験して検証され、また、さまざまな人の体験によっても検証されますから、明瞭で「十全」な観念です。
「十全な観念」とは、その観念自体が、「真なる観念のあらゆる特質を備えている」もののことです〔第2部・定義4〕。
もっとも、「ものの特質についての共通概念」には、いろいろな概念があって、意味内容があいまいなものや不安定なものもあります〔定理40・註解1〕。いつも「十全」で間違えがないのは、↑上の〔註解2〕でスピノザが例として出していた“数”の概念や、“点、直線”“運動、静止”といった基礎的な概念でしょう。(この点は、のちほど詳しく論じます。)
「共通概念」が「十全」なものである場合には、「共通概念」による認識は「理性知」であり、“原因”の認識をふくんでいます(比の解法を、証明付きで説明できる人の場合のように)。なぜなら、「十全」な「共通概念」から生じてきた観念は「十全」であり、「理性知」に属するからです〔定理40〕。
それでは、「理性知」は絶対にまちがえのない“真”なる認識なのかというと、―――スピノザは、もちろんそう言うのですが、―――私たちとしては、若干の留保が必要です。ジャレットは、この「十全」「非十全」を、「適切」「不適切」と訳しています。
問題は、「理性知」のそなえている「十全」性が、あくまでも“内的な”真理性だということです。スピノザの言う真理の“内的標識”とは、真なる命題は、それ自体として“真らしさ”を備えている―――ということです(上野『スピノザの世界』,pp.47-56)。いかにも確実に思われる、どう考えても真実に思われる、といった特質をそなえていることです。
スピノザの考えでは、“真”かどうかは、現実の世界と一致しているかどうかという“外的標識”によってではなく、その観念や命題そのものを見て判定することができるというのです。
これは、私たちの真理観とはかなり違います。私たちは、“真”かどうかは、実験してみなければわからないと思っています。命題それ自体は間違えないように思われても、じっさいに実験や調査をしてみたらそうではなかった、“偽”であった、そういう場合は珍しくないと私たちは考えます。そういう私たちの“科学的”な真理観とは、スピノザの考え方は、かなり隔たりがあります。
しかし、どちらの真理観が“正しい”と、かんたんに言えることではないと思います。2とおりの真理観があるのだ、と考えるべきです。
つまり、「理性知」にも限界はあるのです。スピノザ自身、それを認めるかのように書いている場合があります(ジャレット,pp.178-179)。『神、人間、および人間の幸福に関する短論文』(1661年)の中で、尾の短い羊しか見たことのなかった人が、尾の長いモロッコ羊を見て驚くという例をあげています。『エティカ』では考えを変えたのか、「驚き」は、誤った「想像」(つまり「想像知」)から生じるのだとしています〔第3部・諸感情の定義4〕。たしかに、ヨーロッパの牧場にいる羊の尾が短いのは、小さい時に尾を切ってしまうからです。だから、この人が「羊の尾は短い」と思っていたのは、「原因」に考えが及ばなかったせいだとすれば、「臆見」かもしれません。
しかし、アラビアで“ひとこぶラクダ”しか見たことのなかった遊牧民が、モンゴルへ行って“ふたこぶラクダ”を見て驚く、という例ならば、この遊牧民のアラビアでの常識が、単なる「想像知」「臆見」にすぎなかったとは言いきれないでしょう。むしろ、それも「理性知」なのだけれども、見聞を広めた結果として、通用する範囲に限界のあることが判明した、と考えるべきではないでしょうか?
そう考えれば、「驚き」についても、単なる誤りの結果と見るのではなく、より高いレベルの真理にめざめるきっかけともなる有用な能力‥として評価することができるでしょう。そのほうが、スピノザ体系として、より一貫したのではないか、と私は思います。
そういうわけで、「想像知」と「理性知」がせめぎあう“境目”の領域には、いろいろとおもしろい問題がありそうですが、それはのちほど見たいと思います。
最後に、「直観知」ですが、上↑の 1:2 = 3:6 のほかに、〔定理47・註解〕では、計算まちがえの例をあげています:
「彼らがまちがった計算をするとき、それは精神のうちの数と紙上の数とが異なっていることを意味する。それゆえ、もし君が彼らの精神を見るならば、彼らはけっしてまちがっていないのである。だがそれにもかかわらず、彼らがまちがっていると見えるのは、彼らが紙上の数と同じ数を精神のうちにもっていると思われるからである。そうでなければ、われわれは彼らがまちがっているとは信じないであろう。
〔…〕多くの論争が生ずる原因は、人が自分の精神を正しく説明しないか、それとも他人の精神を誤解しているかによる。」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.157.
つまり、計算まちがえをしている人の頭の中では、その人の「精神」は、「直観知」によって正しく計算している、と言うのです。
そうすると、「直観知」は、なにか神秘的なインスピレーションというよりも、かなり理知的な直観としてイメージされていることがわかります。
いずれにせよ、「直観知」は、人間の「精神」に現われた“かぎりの《神》”の働きであるようです。「第3種の認識は、神のいくつかの属性の十全な観念からものの本質の十全な認識へと進む〔第5部・定理25・証明〕」「われわれは、神の無限の本質とその永遠性……の認識から、きわめて多くの十全な認識を導き出し、したがってまた第3種の認識を形成できるようになる〔第5部・定理47・註解〕」
「〔定理25〕精神の最高の努力、最高の徳は、ものを第3種の認識によって認識することである。
〔定理27〕この第3種の認識から、存在しうる精神の最高の満足が生じてくる。〔第5部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.444-445.
そういうものですから、「直観知」は 1:2 = 3:x のような単純な場合ならともかく、「神の永遠・無限の本質……から導き出」す、などということになると、誰にでもできるというものではなさそうです。(もっとも、スピノザが計算まちがえの例で言っているように、無意識下では「直観知」が生じている場合もあるのかもしれません。)
すばらしい認識には違いないが、至難のわざだ、という点で、「直観知」もまた限界があるのです。カントは、このような「直観知」をもつことは、人間には不可能だと述べています(ジャレット,p.264)。
【26】想像力の価値
前回の【24】で見たように、「延長」世界と「思惟」世界が1対1に対応している《神すなわち自然》界では、「身体」の中で起きることのすべてについて、「精神」の中に「観念」が存在するのでした〔第2部・定理12〕。しかし、「観念」があるということと、私たちがそれを“意識”しているということとは、まったく別のことです。それらの「観念」は、《神》が意識している、私たちの精神に現われたかぎりの《神》が持つ「観念」である、と言ったほうがよいかもしれません。
私たちに意識されるのは、それらの「観念」について思考する「観念の観念」であって、しかもその一部のみが、内語や形の像(また、音像や感触)となって意識されるのです。
私たちが、私たちの身体の外部にある物体――木や草や建物――を意識するのは、「身体の変様の観念」――感覚器官に起きる反応や脳内の生理的変化の観念――を通じてですが〔定理26〕、そのようにして知覚された外部の事物の認識は「非十全」なものです〔定理29・系、同・註解〕。ほんとうは木でなく電信柱かもしれないし、ほんとうは建物でなく看板の絵かもしれない。すなわち、これらの「観念」の認識は、「想像知」に属するものです。
「スピノザは、我々が外部の物体(や、我々自身の身体、我々の身体の部分)を知覚する(あるいは、その観念を持つ)のは、我々自身の身体の変化に関する知覚ないし観念を通じてである、と主張する。〔…〕こういってもよいかもしれない。〔…〕我々の観念の『直接的な対象』は、我々の身体の変化である。一方、『間接的な対象』は外部の物体である。間接的な対象とは、これらの観念によって我々に描写されるものである。また、直接的な対象とは、これらの観念によって神に描写されるものである。
同様に、我々が我々自身の精神を知覚するのは、これらの観念の表象(つまり我々の身体の変化の観念の観念)を通じてである。
ただし、この観念は外部の対象を完全に描写するものではない。この観念は我々の変化の原因になる範囲内でのみ外部の対象を描写するものである。〔…〕
想像知は、我々が何かを知覚するとき我々の中で生じる観念からなる。たとえば、我々が家を見ると、われわれの身体の中で物理的な表象像が形成される。その家を存在するものとして描写するのは、この表象像に関する我々の観念である。」
チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,pp.127,139.
「同様に、精神が自身を知覚する(あるいは自身の認識を持つ)のは(定理23)、人間の身体の変状の観念の観念を通じてのみである。我々の身体に関する表象的な認識と同様に、我々の精神に関する認識も不適切〔非十全――ギトン注〕なものである(定理29)。〔…〕
表象は不適切〔非十全――ギトン注〕(ないし部分的)な観念からなると考える理由はたくさんある。〔…〕我々が外部の対象を知覚するのは、典型的にはその存在のほんの一瞬の間のみであり、我々が得られるのはその一瞥したときの姿でしかない(映画の1フレームを見るようなものである)。また、ある事物の表象を得られるかどうかは、我々の身体がそのときたまたまどこにあったかに依存する。さらに、表象が対象をさらけ出すのは、我々の身体がその対象によって変状された場合のみに限る。したがって、スピノザが記しているように、表象は〔…〕我々の身体の本性に依存する。」
チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,pp.128-130.
このように、スピノザは、「想像知」の「非十全」性、つまり人を誤りに陥らせやすい性質を、さまざまに指摘して述べています。「想像知」を真実と思いこんで固執しているために、人びとは無用な争いをしている、とも言っています〔第2部・定理40・註解1 工藤・斎藤訳,p.144〕。
しかし、スピノザは、「想像知」をクソミソにやっつけているだけではないと思います。「想像知」には、人間にとって有益な点もある―――ということも、スピノザは指摘していると思うのです。これは、重要な点で、しかも当然な話です。人間は正しいだけが能ではない。「想像力」なくしては、芸術も宗教も不可能です。「想像力」が発揮できない社会とは、いかに狭苦しく味気ないことでしょうか。
「〔定理17〕もし人間の身体が、ある外部の物体の本性をふくむような仕方で刺激されるならば、その身体がこの外部の物体の存在あるいはその現在の存在を排除するような状態におかれるまで〔その物体が消えたとか、じつは存在しなかったと思うような事態に遭うまで―――ギトン注〕、人間精神は、その外部の物体を現実に存在するものとして、あるいは自分に現在的なものとして、観想するであろう。
〔系〕かつて人間身体を刺激した外部の物体が、たとえ存在しなくても、あるいはまた現在的に存在しなくても、精神はそれを現在的に存在しているかのように観想しうるであろう。
〔註解〕このようにしてわれわれは、しばしば経験することであるが、存在しないものを現在的に存在しているかのように観想することがどうして起こりうるかを知る。〔第2部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.117-118.
↑この部分でスピノザは、「想像力」が、どのようにして生ずるのかを述べています。「想像知,想像力 imaginatio (イマギナチオ)」は、「像 imago」「想像する imaginari」から派生した言葉であり、「想像知」の重要な部分は、現実にあるものとして「像」を脳裡に描いたり、あるいは現実とは別に想像したりする能力にあると思われます。
つまり、スピノザの云う「想像」は、現実に眼のまえにある物体を知覚する場合もあれば、眼の前にないものを思い浮かべる場合もあります。
〔定理17〕の本体は、眼の前にある物体を知覚する場合で、「外部の物体の本性をふくむような仕方で刺激」するとは、「物体」の本性である物理的な力――運動と衝突――によって刺激するということです。この定理から、現在していないものを思い浮かべる場合を説明する〔系〕が導かれます。
〔系〕の〔証明〕によると、外部の物体によって――音波と光波で?――圧力を加えられた体液が、身体の内部の「軟らかい部分」――脳髄?――に何度も衝突して撥ねかえると、「柔らかい部分」の表面に痕跡が残る。すると、次に体液がぶつかった時に、いままでとは違う角度で撥ねかえされるようになるので、変化が感知される。‥‥人間の身体が外部の物体からの刺激を受け取るしくみは、このようになっています。
そこで、もし、その物体が無い時に、体液が「自発的な運動で」、物体に刺激された時と同じ速さ・角度で「軟らかい部分」の新しい表面に衝突すると、物体から刺激が届いたのと同じ痕跡が生ずるので、物体があった時と同じことが身体に起こり、精神は、物体を「現在的なものとして観想する」。
こうして、身体内の「自発的な運動」によって、眼の前にない物体の「想像」が起きるのです。したがって、回想や空想など、眼の前にないものを観想する「想像力」の営みは、多分に「自発的」なものだということがわかります。
「〔定理17・註解〕〔…〕たとえばペテロ自身の精神の本質を構成するペテロの観念と、他の人間たとえばパウロのうちにあるペテロ自身の観念のあいだにどのような相違があるかがはっきりと理解される。なぜなら、前者はペテロ自身の身体の本質を直接に説明し、ペテロの存在するあいだしか存在をふくんでいない。これに反して、後者は、ペテロの本性よりも、パウロの身体の状態をより多く示している〔この部の定理16の系2を見られたい〕。したがって、パウロの身体のこの状態が続くあいだ、パウロの精神は、ペテロが存在しなくても、ペテロを自分にとって現在的なものとして観想するであろう。〔第2部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.119.
図に書くと、↓下のようになるでしょう。ペテロ、パウロ、それぞれに「身体」と「精神」があります。ペテロの「精神」を「構成する最初のもの」すなわちその「本質」は、ペテロ自身の身体の観念です〔第2部・定理11・13〕。人間の「精神」は、自分の身体の観念を本質としつつ、そのまわりに、多数の外部の物体の本性を含んでいます〔定理16および系1〕。したがって、各人の「精神」は、その人の「身体」とともに存在しはじめ、「身体」の死とともに消滅します〔第2部・定義2〕。
パウロがペテロを知覚すると、パウロの「身体」(感覚器官)にペテロの本性が刻印され、それに対応して、パウロの「精神」には、ペテロの身体の観念が形成されます。しかし、パウロの「身体」にあるペテロの「本性」とは、あくまでもパウロの身体――パウロの脳髄――に生じた変状です(↓説明図:入れ子状の人型「ペテロ」)。それは、パウロの脳髄にできた“痕跡”――へこみなのでして、パウロの身体の一部です。
したがって、それは、“99%パウロの身体だ”と言ってよい。すなわち、「ペテロの本性よりも、パウロの身体の状態をより多く示している」。そして同じことは、それをパウロの「精神」側に引き写した「ペテロの観念」についても言えます。
そうすると、〔定理17〕が言うように、パウロが持つペテロの「観念」は、ペテロが消滅したあとも、パウロの中に残り続ける、あるいは、くりかえし想起されると言えます。
すなわち、キリスト教の最初期の伝道者であったペテロの「観念」――「想像知」――は、彼が死んだ後も、後継者であるパウロの中に生きつづけ、パウロは、あたかもペテロが眼の前にいるかのように、ペテロを観想(想像)することができるのです。
説明図4
どうですか?「想像知」もバカにしたものではないでしょう?
スピノザがここで言いたいのは、たしかに「想像知」は、まちがえやすいけれども、人間の生活、社会、人類の歴史の中で、欠くことのできない重要な役割を果たしているということだと思います。
引用を続けましょう:
「〔定理17・註解〕精神の想像は、それ自体から見れば、何の誤りもふくんでいないこと、あるいは精神は想像するから誤りをおかしているのではなく、むしろ精神が、自分に現在的なものとして想像するものについて、その存在を排除するような観念を欠いていると考えられるかぎりにおいてのみ、誤りをおかしている、ということを注意しておきたい。なぜなら精神は、存在しないものを自分に現在的なものとして想像するとき、同時にそのものがじっさいは存在していないことを知っているならば、精神はこの想像の能力を自分の本性の欠点としてでなく、長所と見なすであろう。とくにこの想像の能力が精神の本性にのみ依存しているならば、つまり〔第1部定義7より〕もし精神のこの想像の能力が自由であるならば、なおいっそうそうであろう。〔第2部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.119-120.
ここでスピノザは、
「想像は、それ自体から見れば、何の誤りもふくんでいない。」
とまで言っています。なるほど、パウロは、もう存在していないペテロを、あたかも眼の前にいるかのように、ありありと想像してみることもできます。しかし、パウロが、ペテロが亡くなったことを知っているのであれば、その想像が「誤り」だとは言えません。
「想像」は、それが現実ではなく想像だ、ということを知ってする場合には、人間にとって有益な能力なのです。そういう場合には、「想像知」は、人間を誤りに誘いこむものではありません。
そればかりか、さきほどのスピノザの指摘から、
回想や空想など、眼の前にないものを観想する「想像力」の営みは、多分に「自発的」なものだ
という点を考えると、むしろ「想像知」は、《自由》の定義↓にあてはまる、すぐれた能力であるとも言えるのです。
「自由といわれるものは、みずからの本性の必然性によってのみ存在し、それ自身の本性によってのみ活動するように決定されるものである。だがこれに反して、必然的あるいはむしろ強制されているといわれるものは、一定の仕方で存在し、作用するように他のものによって決定されるものである。〔第1部、定義7〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.4-5.
【27】想像知と感情
『エティカ』には、2つの“世界”イメージが描かれているような気がします。一方は、いわば“くまなく明るい世界”。すべての真実が見通され、虚偽であること、不明なことは何もなく、いっさいが「必然」にしたがって動いている世界。《神》の無限の「観念」に映る世界は、そういうものでしょう。
しかし、スピノザは、もうひとつの世界も、それと同等の重みで描いています。それは、いわば“陰翳のある世界”です。そこでは、無知(あいまいさ、暗さ)は、叡智(明るさ、光)と同等の権利を持しています。いろいろと不都合はありそうだが、それでもむしろ私たちにとっては、ホッと気を休めることのできる世界です。
隠れる場所もない、明るさ一方の世界では、私たちは安心できないのです。
『エティカ』の公式見解は、もちろん第1の“明るい世界”のほうです。多くの著者は、『エティカ』をもっぱら第1の世界の観点で解説しています。
しかし、スピノザ自身は、双方の世界に惹かれるものを感じて、しばしば両者の間で動揺していたのではないか―――そう思われるふしがあるのです。
第1の世界は、いわば「理性」によって開かれる世界、宗教と迷信の暗愚を取り除いた理知的な世界です。スピノザは、そうした世界を理想として、人間がおちいりやすい無知や誤信、自覚のない感情がもたらす弊害を、いかにして克服するか、いかにして「理性」に導かれた生活を送るかを、考究しています。
しかし、彼をよく知る同時代の人びとは、スピノザが日常生活においては、非の打ちどころのない敬虔な信徒の生活を送っていたことを語っています。つまり、日常生活においては、スピノザは“理知の人”どころか、敬虔で情愛深いキリスト教徒のような人だったというのです。彼は、ルター派の教会に通い、牧師の説教を熱心に聴いて賞讃しています。後任の牧師は、スピノザの著書は激しく攻撃しながら、彼の人となりには敬意を払い、スピノザの死後に彼の伝記を著わしているほどです。
「彼〔スピノザ――ギトン注〕は信心深い人のいだく信仰に対して侮蔑的な態度をとったことはなかった。〔…〕大家の主婦から、彼女が自分の宗教〔カルヴァン派か?――ギトン注〕にそのままとどまっていても幸福になれると思うかと尋ねられたとき、彼はこう答えた。『あなたの宗教は立派です。あなたは静かに信心深い生活に専念なさりさえすれば、幸福になるために、なにもほかの宗教を求めるにはおよびません』」
工藤喜作『スピノザ』,新装版,2015,清水書院,p.173.
2つの世界は、うんと大ざっぱに言えば、“「理性」の世界”と“「感情」の世界”、“理知の世界”と“情愛の世界”と言えるかもしれません。
『エティカ』「第3部」以下では、この2つの世界の対比がひとつの軸になります。
そこでまず、〔第3部〕の最初の定理から入りましょう。
「〔定理1〕われわれの精神は、ある点でははたらきをなす〔「能動的」である――ギトン注〕。ある点でははたらきをうける〔「受動的」である――ギトン注〕。すなわち、精神に十全な観念があるかぎり、精神は必然的にみずから活動するが、また精神が非十全な観念をもつかぎり、必然的にはたらきをうける。
〔系〕これから、次のようなことが結論される。すなわち精神は、より多くの非十全な観念によって思惟するだけ、ますますはたらきをうける〔「受動的」になる――ギトン注〕ことになり、また反対に十全な観念によって思惟すれば、それだけ多くはたらきをなす〔「能動的」になる――ギトン注〕ことになる。
〔定理3〕精神の能動は、ただ十全な観念のみから生ずる。しかし、精神の受動は非十全な観念のみに依存する。
〔註解〕〔…〕このようにして、われわれの見るところでは、受動は、〔…〕精神が他によらずそれ自身だけではけっして明確に知覚されえないような自然の一部として見なされるかぎり、そのような精神に関係がある。この仕方によって私は、受動が、精神に関係があるのと同じように個物にも関係すること、またこれよりほかにそれを論証する途が考えられないことを示すことができよう。〔…〕〔第3部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.178-179,187-188.
「▽定理1 精神は能動的な場合もあれば、受動的な場合もある。
〔…〕
スピノザは、受動的な感情は主に思惟を妨げるため有害であると想定している。」
チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,pp.162,244.
「能動」は、「十全な観念」から生じ、「受動」は、「非十全な観念」から生じます。「非十全な観念」とは、“真らしさ”のない、あいまいで誤りやすい観念のことであり、「想像力」による認識や、受動的な「感情」――人間の「感情」の大部分――のことです:
「十全な観念」(理性知、直観知)→「能動」
「非十全な観念」(想像知、受動感情)→「受動」
図式化すると、↑こうなるでしょう。
「スピノザの自由の概念は、どこかで原因という概念と結びついていることが分かります。不自由な状態、強制された状態とは、外部の原因に支配されていることである。ならば自由であるとは、自分が原因になることでしょう。では、自分が原因になるとは、どういうことか。スピノザはこれを『能動 actio』という言葉で説明しています。
スピノザによれば、人は自らが原因となって何かをなす時、能動であると言われます。私が私の行為の原因である場合、私はその行為において能動であるわけです。〔…〕
人は自由である時、また能動でもあることになります。そうすれば人間は自由になれるかという問いは、したがって、人間はどうすれば能動になれるかという問いに置き換えることができます。」
国分功一郎『スピノザ「エチカ」』,p.73.
したがって、上の2つの定理―――〔定理1〕と〔定理3〕―――でスピノザは、「理性」的な明瞭判明な観念を抱いている時は、人は「能動的」であり《自由》だが、「想像知」による、あいまいな観念を抱いている時には、「受動的」であって、《自由》ではない、と言っていることになります。つまり、第1の“光の世界”の公式見解を述べているわけです。
『エティカ』からの引用を続けましょう。ちょっと注意したいのは、「十全な原因」と云うときの「十全」の意味は、「十全な観念」と云うときの「十全」の意味と少し異なることです。しかし、それはあまり気にしなくても、おおよその大意は文脈から理解できます。
「〔定義2〕みずからはたらく(能動)と私がいうのは、あることがわれわれの内部かあるいは外部で生じ、われわれがそのことがらの十全な原因である場合〔…〕である。反対に、はたらきをうける(受動)というのは、われわれがその部分的な原因でしかないようなあることが〔…〕起こる場合である。
〔定義1〕私が十全な原因と呼ぶのは、その結果が当の原因だけから明白に知覚されうるような原因のことである。〔…〕〔第3部〕。
〔訳者註〕「みずからはたらく」あるいは「なす」という概念〔「能動」――ギトン注〕は、「はたらきをうける」という概念〔「受動」――ギトン注〕とともに、スピノザの感情論の基本概念である。「みずからなす」〔「能動」――ギトン注〕が自律的であるのにたいし、「はたらきをうける」〔「受動」――ギトン注〕は他律的である。この2つを区別するものは、〔…〕人間の行為の自由の問題である。人間は自分の行為を自分の自由な決定によってなしうるか、あるいはなしえないか、人間は自分の行為にたいして〔…〕十全な原因であるか、非十全な原因であるかの問題である。」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.176-177.
「感情に従う人は、欲しているかいないかは別として、自分の意識のまったく知らないことを実行している。〔…〕
理性に導かれる人は、自分自身以外のいかなるものの流儀にも従うことなく、彼が人生において根本的に重要なものとして認知していることだけを実行し、またそのために重要なことを徹底的にもとめる。このような観点から私は、前者を奴隷、それにたいし後者を自由な人間と呼ぶのである。〔第4部・定理66・註解〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.389.
「つまり、自由な人とは、個性的、主体的であり、人間にとって何が大事であるかを理性的に判断し、行動する人のことであって、〔…〕社会の中でもっとも積極的に行動する人間が自由な人であった。」
工藤喜作『スピノザ』,新装版,2015,清水書院,p.173.
以上の対比では、「十全な観念」「理性」「能動」が、「非十全な観念」「想像知」「感情」「受動」に対して、よりすぐれた優位なものとして語られました。このような“第1の世界”は、“デカルト的な世界”と言ってもよいかもしれません。
これに対して、“第2の世界”は、《神すなわち自然》の必然性にそよぐ“パスカルの葦”の世界と言えるかもしれません。
そこで、以下の予定としては、まず次節以降では、第2の“陰翳のある世界”を扱い、「想像知」や「感情」の重要さをスピノザが認めていたこと、また、それらを人間にとって「有益」なものとして肯定していたということを、明らかにしたいと思います。しかるのち、【30】節ないし、もっとあとで、ふたたび“第1の世界”、「理性」が支配する“光の世界”に戻って来ることになるでしょう。
【28】必然性の風にそよぐ“パスカルの葦”
スピノザは『エティカ』を書き終えたあと、つづいて書きはじめた未完の遺稿『国家論』の第2章で、次のように書いています:
「スピノザは最初にこう述べる。自然物については、存在の始まりも存在の堅持も、〔ギトン注――個々の〕自然物の本質から生じるものではない。」
われわれは、誕生したいと思って誕生したり、まだ死にたくないと思って生き続けたりすることはできない。
「したがって、存在を始める能力も、存在を堅持する能力も、神〔すなわち自然――ギトン注〕の能力でなければならない。〔…〕
スピノザはすぐにこう付け加える。この点で、賢者(ないし理性の指示に従う者)と無知な者の間、あるいは理性から生じる欲望とそうではない欲望との間に重要な違いはない。
『〔…〕理性に導かれていようと、単に欲望のみに導かれていようと、人は自然の法則に則していないことは何もしない。つまり……自然の権利によって行動する。』」
チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,p.291.
人間がいかに努力して「能動」的に、《自由》に、自律的に生きたとしても、人間の外部でも内部でも、《神すなわち自然》の「必然性」は、どこまでも貫いています。人間の「能動」的な“はたらき”さえも、《神》の眼から見れば、「必然」の一部にほかなりません。なぜなら、人間の「身体」にも「観念」にも、《神すなわち自然》は貫いており、《神》は自由意志をもたないからです。
そこで、ふたたび人間の観点に戻って“虫の眼”で見上げると、この圧倒的な“外的「必然性」”の前では、賢い人も、無知な人も、「理性」の人も、感情的な人も、差別はないと言わなければなりません。すなわち、
「賢者(ないし理性の指示に従う者)と無知な者の間、あるいは理性から生じる欲望とそうではない欲望との間に重要な違いはない。」
思うに、ここにこそ《共同性》と《民主主義》の契機があるのです。「理性」による「感情」「無知」「蒙昧」の克服を至上命題とする社会は、どうしても、“賢人”による支配ないし「指導」を無批判に受け入れることになります。なぜなら、誰が「賢」く、誰が「愚か」かを、現に支配している“賢人”が決めることにならざるをえないからです。
それが、スピノザ以後に(スピノザの警告を無視して)展開した歴史ではなかったでしょうか?
「〔要請1〕人間の身体は、自己の活動力を増大させたり減少させたりするようなさまざまな仕方で刺激をうける〔…〕〔第3部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.177.
「〔定理2〕われわれは自然の一部分であるかぎり、すなわち他のものによらず自分自身によって考えることが不可能な〔ギトン注――《自然》の〕部分であるかぎり、はたらきをうける〔受動的である――ギトン注〕。
〔…〕
〔定理3〕人間が自分の存在を継続しようとする力〔「コナトゥス」――ギトン注〕には限界があり、同時にその力は外部の原因の力によって無限に凌駕されている。
〔定理4〕人間が自然の部分でないということは不可能であり、またそれ自身の本性のみによって認識され、そしてそれの十全な原因であるような変化しかうけないことも不可能である。
〔系〕さきのことから、人間は、常に必然的に受動感情に支配され、また自然の共通な秩序に従い、しかもそれに服従していること、そして自然の要求に応じて自分をその秩序に適応させるということが、明らかになる。〔第4部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.305-308.
人間の「現実的本質」である「コナトゥス」―――人間の自己保存力は、大《自然》の脅威の前ではいかに脆いものか、いまさら説明するまでもないでしょう。
そして、人間自身――われわれの内部までも――「自然の部分でないということは不可能」なのです。人間が、人間自身による「能動」的な力だけを受けることも不可能であり、私たちの「身体」も「精神」も、つねに外部の《自然》の力や、社会の力、他の人間からの影響力にさらされています。
こうして、
「人間は、常に必然的に受動感情に支配され」
ています。「感情」は、その大部分が「受動」的なものであり、十全性(真らしさ)のとぼしい「想像知」と結びついています。
しかし、悲しみの「感情」は人間の活動力を減退させますが、喜びの「感情」は、活動力・思考力を増進させます。「喜び」「悲しみ」とならぶ基本感情である「欲望」は、人間の本質である「コナトゥス」の・「精神」面への現れにほかなりません。
次回はまず、これらの基本「感情」の分析から、「愛」「憎しみ」などの感情の派生を見てゆくことになります。
ばいみ〜 ミ彡
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