07/10の日記

04:22
【宮沢賢治】旅程ミステリー:近畿篇(10)

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京の夕暮れ。修学院離宮附近にて  









 こんばんは (º.-)☆ノ









 前回からの続きです:⇒《あ〜いえばこーゆー記》旅程ミステリー近畿篇(9)








【9】 「白鳥越え」「志賀越え」「山中越え」






 京都と、琵琶湖岸・大津方面を結ぶ交通路は、むかしから何本かあって、比叡山の山と谷を越えて往き来していました。

 これまでに名前の出て来た「山中越え」「志賀越え」も、そうした古い峠路です。







地図 比叡山の峠路と延暦寺の参道。

峠路をオレンジ(名称は黄色字)で、参道を赤で示しました。




 ↑上には、このブログに関係する道すじを選んで示しています。

 宮沢賢治の、たった1日の行程をさぐるために、これだけの数の古い道を調べることになったのですから、やっかいな話ですw 本人の短歌や、父上の記憶に頼ったおぼつかない聞き書きから推定しているので、あらゆる関係資料を動員することになります。しかし、考えようによっては、たった1日の行程であっても、そこには“1500年”にわたる比叡山の歴史が刻まれているのだ―――と言うこともできるかもしれません。



 いちばん上の「仰木(おうぎ)越え」は、琵琶湖側の「仰木」と、京都の北の大原を結ぶ峠路で、定光院から横川(よかわ) に入り、さらに山脈を一つ越えて大原に達します。

 牛若丸と呼ばれた 16歳の源義経が奥州へ旅立った時、この峠路を越えて京都から北陸へ向ったと言われています。

 宮沢賢治の関係で、なぜ「仰木越え」を持ち出したかというと、聞き書きのなかに、“大原の町を通って下山した”というのがあるからです(佐藤隆房氏)。しかし、この地図を見ればわかるように、宮沢父子が詣でた延暦寺東塔や無動寺から、大原のほうを回って京都に出るのは、とてつもなく長い距離です。徒歩で数時間のあいだに踏破できるようなコースではないのです。修行僧の回峰行でさえ、東塔と横川のあいだをひとめぐりして一日が暮れるのですから、宮沢父子が大原を回ったなどというのは、どう考えても記憶違いか聞き違えなのですw



 つぎの「白鳥越え」も、平安時代以前から記録されている古い交通路です。戦略的に重要な交通路で、戦国時代には、沿道各所に山城が築かれ、城址がいまも残っています。

 しかし、戦国の終りに織田信長が京都と湖西の支配を統一し、「志賀越え」道を整備したので、それ以降、「白鳥越え」は「古路越(ふるみちごえ)」と呼ばれ、「志賀越え」ないし「山中越え」を「今路越(いまみちごえ)」と呼ぶようになりました。そして、「白鳥越え」は江戸時代にはほとんど利用されなくなりました。

 そのため、江戸・明治の史書には、「白鳥越え」という名称が、あちこちの比叡越え道を指して使われるようになり、もともとの「白鳥越え」がどのルートだったのかは、よくわからなくなってしまいました。

 ↑上の地図には、戦国期までの「白鳥越え」ルートとして現在推定されている道すじを書きこんでいます(『1000年の道』および Wikipedia による)。それによると、瓜生山から、現在の「京都一周トレイル」に沿って尾根の稜線を掛橋「大鳥居」に至り、そこからまた「比叡アルプス」の尾根に上がり、「一本杉」から「夢見ヶ丘」、さらに「壺笠山」へと、ずっと尾根通しに比叡をこえるコースです。「一周トレイル」の途中から「大鳥居」までは【一乗寺道】の一部として、「夢見ヶ丘」から先は【山中道】の一部として使われています。

 このように、「白鳥越え」は、近世以後は、延暦寺の参道とからんで互いに混同されるようになり、また、参道として使われるようになった部分は、後世まで道すじが残ることとなったのでした。

 『1000年の道』には、次のように書かれています(p.137)。




「ルートは現在でも確定されておらず、中世における政治や社会、延暦寺の動向を詳しく検証する必要がある。基本的には尾根道と考えるべきで、山城が連続するテンコ山から瓜生山(旧勝軍山)への尾根筋が有力だと思われる。」





 それでは、瓜生山から「夢見ヶ丘」まで、「白鳥越え」の経路に沿って歩いてみます。



 瓜生山は俗化していて見どころがないので、撮影は省略w

 瓜生山から北へ少し歩くと、「北白川城出丸(でまる)」の城址があります。ここが、別名「白鳥山」で、たぶん「白鳥越え」の名のおこりです。

 ↓出丸のそばに、「トレイル」から京都の街がよく見える場所がありました。賢治の“京都の七ツ森”が、よく見えます。






 【参考記事】⇒《ギャルリDEタブロ》キオート(10)






 掛橋までは、ほとんど起伏もなく、るんるんの道すじです。それにしても、掛橋もそうですが、こんな山の上の人の住んでいない場所に、どうしてこんなにたくさん地名があるんでしょうねw グーグルやマピオンの地図も、もっと縮尺を大きくすると、「一乗寺〇〇」という地名がたくさん出てきます。むかし山城がたくさんあったことと関係があるんでしょうかね??



 掛橋を通りかかった際(これで4度目)、いままで見つからなかった“倒れた標石”を、大鳥居のそばで発見しました↓










 ほかにも石材が散らばっているので、わからなかったんですねw


 刻まれている文字の解読とか、詳しいことは、↓こちらの記事を訂正したので、ごらんください。


 ⇒《あ〜いえばこーゆー記》旅程ミステリー近畿篇(4)






 掛橋から、音羽谷沿いの車道のほうへは行かずに、通称「比叡アルプス」の尾根に取り付いて行きます:





樹林の中を上って行きます。




樹林が続きますが、路は尾根筋のてっぺんをたどります。








「一本杉」に出ました。この老木が「一本杉」。




「一本杉」駐車場。前の道路は比叡山ドライブウェイ、
その向うの建物は、「ロテル・ド・比叡」。




尾根通しに「夢見ヶ丘」へ。この区間は、
ドライブウェイが尾根筋を占領しています。




南側の尾根下を展望。
「比叡平」団地が見えます。






 「夢見ヶ丘」から先は、【山中道】の探索で踏査しました↓。


 ⇒《あ〜いえばこーゆー記》旅程ミステリー近畿篇(7)






 さて、いちばん南の峠路は「志賀越え」と「山中越え」。山中町の先で、2つの峠道に分かれます。(↑地図参照)

 「志賀越え」は、室町時代にすでに記録があり、「山中越え」は、「志賀越え」の間道として戦国時代に開削されました。織田信長が「志賀越え」道を整備してから、こちらが「今路越え」と呼ばれて、「白鳥越え」に替る新しい峠道としてもっぱら使われるようになりました。

 しかし、江戸時代には、もっと南側の「逢坂越え」が東海道として整備されたので、「志賀越え」はしだいに廃れていきました。

 近代になると、「山中越え」のルートに沿って県道30号(=京都府道30号)が自動車道路として拡幅整備されたので、「志賀越え」の峠道は、ほとんど人が通らなくなってしまいました。

 近年に大津市が「志賀越え」路をハイキングコースとして整備したのですが、行ってみると、たいへんに荒れており、利用されていないことが判ります。整備も悪いが、コースの作り方も、必要のないアップダウンが多いとか、イマイチに見えます。もっと、地元の登山家の意見を聞いて作ればよかったのにと思います。



 「志賀越え」(山中越え)道は、京都の街中にも伸びていて、起点は、平安京の北東角「荒神口(こうじんぐち)」です↓






荒神橋




荒神橋附近の鴨川と瓜生山



 「山中越え」道は、東西南北碁盤目の京都の通りのなかに、斜めの細い道すじがよく残っています。荒神橋を渡って、北白川まで、「山中越え」道をたどってみることにします。







北白川 路傍の石仏
道しるべの標石もあります。



「南 〱左 三條大橋 □□ 祇園清水/□□院 東西 本願寺 一里

 (左側面)すく ひゑいさん 唐崎 坂本/嘉永二年 己酉 仲夏吉辰 願主 某 石工權左衛門

 (裏面)北 右 北野天満宮 四□ 平□社/上下 加茂神社 今□ 金閣寺

 (右側面)吉田社□ 真如堂/銀閣寺 (……)」



 嘉永2年は 1849年。浮世絵師の葛飾北斎が死去。3年後には明治天皇が誕生。4年後の 1853年には、黒船が浦賀を来訪。

 「願主 某」と書いている碑は珍しい。石工の名前まで出しているのに(これも珍しい)、願主を伏せたのはなぜなんでしょうね? よほど身分の高い人物だったのか?

 「すく」は“すぐ”でしょうかね?? 比叡山まで「すぐ」だって?! 「左」の上(手前)の「〱」もわかりません。“この”の続け字?! ギトンは大学の専攻は日本史じゃなかったので、こんな字までは読めないんですよ。江戸時代の古文書を読める方、いらっしゃいませんかぁ〜??







北白川 路傍の石仏




北白川・銀閣寺道
植え込みの中に標石が隠れていました。



「左 比叡山 阪本

 (側面)右 銀閣寺 是より三丁」








北白川仕伏町
瓜生山に向って、京都には珍しい
くねくねした狭い道が続きます。




北白川仕伏町
交差点の角に標石が。



「左 勝軍地蔵/白幽子遺(……)

 (側面)右 阪本道」


 白幽子は、17世紀後半に北白川の岩窟に住んで仙人の生活をしていたという人物。臨済宗中興の祖・白隠に内観法を教えたという。下の字が埋まっていて読めませんが、遺跡とか遺窟とか書いてあるのでしょう。「勝軍地蔵」は、瓜生山頂の山城をめぐる攻防戦を戦った武将たちが祈願した地蔵堂。どちらも、瓜生山へ登る途中にあります。



 京都市街地の「山中越え」道沿いに今も残るこれらの石標は、たいへん興味深いものです。嘉永2年の道標以外は年代がわかりませんが、この道を歩いてめざす目的地は、「比叡山」「坂本」「唐崎」となっています。大津と書いた道標はありません!! 幕末には、大津へは東海道を行ったほうが便利だったのでしょう。この道は、峠道としては「山中越え」ではなく、もっぱら唐津・坂本方面への「志賀越え」道として利用されていたと言えそうです。

 途中から「唐崎道」を分ける【山中道】参道も、幕末にははまだ健在だったでしょう。「志賀越え」との岐れ路に文政年間の灯籠があり、「唐崎道」との岐れには天保年間の「鳥居の柱」が残っていましたね。また、【白川道】経由で延暦寺に詣でて坂本に下りるルートもあったでしょう。現在では草の中に没しているこれらの古道が、当時は徒歩の旅人で賑わっていたようすがうかがえると思いました。










【10】 結論―――宮沢父子の下山路






 以上で、手がかりになる古道・旧参道の探索をひととおり終えたわけですが、ここで、父子の下山路に関する“3氏の聞き書き”を、もういちど見ておきたいと思います。

 【参照】⇒『宮澤賢治の詩の世界』父子関西旅行に関する三氏の記述






「二見を発ち、草津で乗り換え、昼頃大津駅に下車し、琵琶湖を坂本かよいの乗合汽船に乗りました。船中で食事をし、船は二時間ほどかかったようで、午後一時頃坂本に着きました。

 この日のうちに、京都に入る予定であったのに昼を過ぎたことでもあり、
〔…〕急いで登りました。

 
〔…〕午後三時頃根本中堂に着きました。〔…〕

 帰途は裏に回って白河路を行くこととなりました。この道も京の方から来た巡礼姿の巡拝の女人に会ったほかは、誰にも会わず、淋しい道でありました。山を下る頃、すでに黄昏になりまして、
〔…〕

 水音のみの真暗い大原の町を過ぎ、京の出町柳から市電に乗って疲れた身体を三条小橋の布袋屋に投じました。」

佐藤隆房『宮沢賢治』,冨山房,1942.






「宿で朝飯をすませた二人は、二見駅から京都行の列車に乗つた。草津線経由である。そして大津駅に下車した。
〔…〕既に陽は午後にまわつてゐる。二人は急いで琵琶湖沿岸に出て石場浜から湖南汽船に乗つた。下阪本で船を降りた二人は爪先登りの田舎道を上阪本の比叡登山口に急いだ。そして、日吉神社に参る暇もなく登り三十五町の山路にかゝつた。」
小倉豊文「旅に於ける賢治」, in:『四次元』,第3巻第2号,1951.



「彼等は大講堂から名残を惜しみつゝ歩をかえした。そして、道を大乗院『親鸞上人蕎麦喰木像』にとつた。彼らは『白河越』の道を京都を目ざしてひたいそぎにいそいだ。
〔…〕根本中堂から大乗院、七曲がりの嶮を経、地蔵谷から銀閣寺の裏手の白川村の降り口まで一里三十余町ある。〔…〕白川の里に出た二人はその後宵の京洛をどう歩いたかわからない。とにかくその夜は三条橋畔に宿をとつた。 」
小倉豊文「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」, in:『比叡山』,復刊第31號(通刊256號),天台宗務庁,1957.






「しだいに暮れてくるので山を下る。京の町へ約八キロ。三条小橋際の旅館に泊る。」

堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』,中央公論社,1991.








 まず、時間については、佐藤氏は、根本中堂到着が「午後三時」とし、京都に下りてから「京の出町柳から市電に乗」ったとしています。当時の市電の終電車が何時だったかわかりませんが、午後9時よりは前ではないでしょうか?

 そうすると、根本中堂から出町柳まで、5時間以内に移動したことになります。距離は(経路によって違いますが、このあと説明するように、佐藤氏の記述による経路も、他の2氏の経路と大きな距離の違いはありません)、小倉氏によれば「一里三十余町」、堀尾氏によれば「約八キロ」で、ほぼ同じです。山道の歩速は、1時間2キロが標準的なところですから、5時間以内の移動は無理がないと言えます。

 他方、小倉氏は、「陽は午後にまわつてゐる」時刻に「琵琶湖沿岸に出て石場浜から湖南汽船に乗つた」としています。これだと、根本中堂到着は、佐藤氏の「午後三時」よりも遅くなるかもしれません。しかし、小倉氏は、京都市街に入った後は、「宵の京洛をどう歩いたかわからない」としか書いていません。市電に乗ったとは書いていないのです。市電に乗らなかったとすれば、京都到着時刻の下限はありません。やはり、4時間以上かかる下山路を歩いたと考えて問題はないのです。

 堀尾氏は、時刻については、「しだいに暮れてくるので山を下る」としか書いていません。根本中堂が午後3時という佐藤氏の想定、また、それより遅かったことになる小倉氏の想定と、大差はないと言えます。








 そこで次に、経路について3氏の記述を見て行きます。

 到着地点については、「三条小橋の布袋屋」「三条橋畔に宿をとつた」「三条小橋際の旅館」ということで、3氏の記述は一致しています。この「布袋屋」旅館は、現在の「加茂川館」の場所にありました:


 【参考記事】⇒《ギャルリDEタブロ》キオート(3)






 帰途に無動寺「大乗院」に寄ったと書いているのは、小倉氏だけです。無動寺経由だとすれば、数時間の徒歩で京都に出る参道は、これまでに見てきた【一乗寺道】【白川道(1)(2)】【山中道】のほかにありません。

 参道以外の山道(「白鳥越え」など)を経由した可能性は排除してよいでしょう。日暮れが近づいていて、急いで下りたことは、3氏いずれによっても間違えのないところです。急いでいて、しかもまもなく暗くなってしまう不安がある状況では、誰でも、整備の行き届いた参道を選ぶでしょう。

 しかし、佐藤氏も、「帰途は裏に回って白河路を行くこととなりました。」と書いています。「白河路」が【白川道】ならば、やはり、無動寺と桜茶屋を通って行くことになります。「裏に回って」という言い方からも、京都への“おもて道”である雲母(きらら)坂(現在の比叡山ロープウェイに近い徒歩参道)ではなく、無動寺経由で南へ下りる道と見られます。

 堀尾氏は、到達点以外の経路については、何も書いていません。

 したがって、無動寺経由という小倉氏の記述は、他の2氏の記述と矛盾しません。宮沢父子は無動寺経由で下山したと断定してよいと思います。無動寺経由だということは、参道としては、【一乗寺道】【白川道(1)(2)】【山中道】のいずれかを歩いたことになります。



 無動寺から先ですが、小倉氏は、「彼らは『白河越』の道を京都を目ざしてひたいそぎにいそいだ。……根本中堂から大乗院、七曲がりの嶮を経、地蔵谷から銀閣寺の裏手の白川村の降り口まで一里三十余町ある。……白川の里に出た二人は……」と、たいへん詳しく書いています。

 「七曲がりの嶮」が何を指すのかわかりません。たしかに、無動寺弁天堂から桜茶屋までの道すじは、非常にくねくねと曲がっています(↑上の地図参照)。曲がりの多いトラバース道だから上り下りは少ないわけで、「嶮」ではありませんが、小倉氏の表現は、この道を指しているのかもしれません。(「嶮」をいくつも越えるのは、桜茶屋を経由しない【山中道】のほうです。)

 「大乗院」〜「七曲がり」〜「地蔵谷」〜「銀閣寺の裏手の白川村」とすれば、【白川道(1)(2)】のどちらかになります。ところが、小倉氏は、「『白河越』の道を……いそいだ。」などと書いているのです。

 「白河越」という峠道は、存在しません。そこで、「白鳥越え」と取り違えたのではないかと考えてみました。「白鳥越え」自体は尾根上の山道ですが、掛橋「大鳥居」の先で、【一乗寺道】が「白河越え」尾根の一部を利用しています。そうすると【一乗寺道】でしょうか? しかし、【一乗寺道】は、地蔵谷を通りません。

 なお、古文書のなかには、「白川越え」という名称を記したものが無いこともないようです。その文書では、北白川に下りてくる「山中越え」ないし「志賀越え」道を指しています。もし「白川越え」が、まれに使われる呼称としてあるのだとすれば、「地蔵谷」〜「白川村」間を指すことになります。しかし、その場合もやはり、小倉氏の表現はちょっとおかしいことになります。






 佐藤氏のほうの経路の記述にも矛盾があります。

 佐藤氏は、「白河路を行」ったと書いています。【白川道】のことでしょう。ところが、



「山を下る頃、すでに黄昏になりまして、
〔…〕

 水音のみの真暗い大原の町を過ぎ、
〔…〕



 などと書いているのです。大原などへ行って来たら、その夜のうちに京都三条に着くことはできないでしょう。まして、佐藤氏は、出町柳から、終電前の市電に乗ったと言うのです。。。。。

 「水音のみの真暗い大原の町」が、大原でないことは明らかですが、問題は、それがどこなのかです。

 『宮澤賢治の詩の世界』では、父子が「大原の町」だと思ったのは、山中町だったのではないかと推定しておられます。じっさいに山中町を訪ねてみると、この推定は、たいへん魅力的であることがわかります。

 山中町には、「山中越え」の旧道に沿って水量豊富な沢が流れていて、街路に沿った町並みに入ってから出るまで、高いせせらぎの音がずっと鳴り響いているのです。この水音を聞きながら歩いた山中町の強い印象が、政次郎氏の記憶に残っていたということは、とてもありそうなことに思えます。


 【参考記事】⇒《ギャルリDEタブロ》比叡(5)




山中町。瀬音を立てて流れる路傍の沢




山中町。瀬音を立てて流れる路傍の沢






 ところが、この推定にも難点のあることがわかってきました。山中町を歩いたとすると、参道は【山中道】か【白川道(2)】です。そのうちでも、【山中道】から来れば、山中町全部を歩きとおすことになるので、【山中道】だと考えたくなります。

 しかし、【山中道】は、ひじょうに遠回りすることになるので、小倉氏・堀尾氏の記述が一致している「約八キロ」ではきかなくなります。時間的にも、佐藤氏の記述による“5時間以内”が、難しくなるでしょう。

 しかも、これまで実地に踏査して見てきたように、【山中道】は、明治以降は廃道化して、下までつながっていなかった可能性が高いのです。

 【白川道(2)】は、どうでしょうか? 「一本杉」から急坂を直かに下るこの道は、たしかに佐藤氏の「白河路」という表現と矛盾しませんが、父子がこのルートを選んだ可能性は低いと、ギトンは思います。実地踏査の結果を↓こちらに書きましたが、現在では道をたどることもできません。当時も、このルートは、整備された主要な参道ではなく、急いで下るのに適した安全な道だったとは思えないのです。


 ⇒《あ〜いえばこーゆー記》旅程ミステリー近畿篇(6)




 また、時刻の点からも、山中町で「真暗」だったという想定には疑問があります。

 4月5日頃の京都の日没時刻は 18時20分頃です。日没後も、真暗になるまでには相当時間がかかります。もっとも、山の中では、日没も、暗くなるのも、若干早いかもしれません。しかし、山中町は狭い谷間ではなく盆地状ですから、それほどの違いはないとも思えます。けっきょく、「真暗」は、19時30分以前とは思えません。

 山中町で 19時30分だったとして、それから「山中越え」道を急いで下りて、出町柳の終電に間に合うでしょうか? 「山中町」バス停から出町柳まで、最短の経路で歩いたとして(「山中越え」旧道から百万遍経由)、キョリ測で測ってみると 5.7km です。じっさいはもっと長いでしょう。

 時速 4km で休みなく歩けば、たしかに 21時ちょっと前に着く計算ですが、あぶないものです。山中町が 20時を過ぎていたり、疲れてスピードが落ちたりすれば、間に合いません。「水音のみの真暗い大原の町」が山中町という想定は、無理があるのではないでしょうか?

 そういうわけで、【山中道】の可能性は排除、【白川道(2)】の可能性も低いと言わざるをえません。残念ながら、「水音」のする町は、山中町ではなかったようです。



 したがって、消去法で、【一乗寺道】と【白川道(1)】が残ることになります。

 それでは、「水音のみの真暗い大原の町」は、どこだったのでしょうか?

 【一乗寺道】で、曼殊院の裏手に下りてきたところでも、また、【白川道(1)】の地蔵谷から、北白川仕伏町に下りてくるところでも、路に沿って川が流れており、家並みがあります。高い水音ではないし、家は山中町ほど密集していませんが、「真暗」で、ほかの音がない時ならば、「水音のみの……町」と思えなくはないでしょう。

 これらの場所ならば、出町柳まで歩いて1時間かかりません。




 しかも、もしかすると「大原」だと思ったのは、これのせいじゃないか‥‥と思える手がかりもあるのです。修学院駅前にあるこの標石なのですが...








側面に「大原」と刻まれている。






 木の枝に隠されて、よく見えませんが、可能な限り読んでみると、↓こうなります。



「左 まつがさき/大黒天道

 (左側面)明治廿四年九月建之 有志中

 (右側面)右 赤山 三宅八(……)/大原 比叡山(……)」



 「赤山」は、修学院にある赤山(せきざん)禅院。「三宅八……」は、三宅八幡でしょう。三宅八幡宮は、左京区上高野にあります。

 そこからさらに北へ向かえば、大原に至る。また、比叡山への参道もあると、この石標は語っているのです。



 同様に、「大原」と書かれた石標は、一乗寺にもありました:




「みぎ ……」「ひえい 大原 ……」と読めます。




 ↑この石標は、『1000年の道』に写真が出ているのですが、いま現地を捜しても見あたりません。しかし、近年まで、あったはずです。場所はたぶん、一乗寺下り松です。

 これらの石標は、大原へ行く道を指示しているのであって、ここが大原だと云っているわけではありません。しかし、大きな石碑のいちばん上に「大原」と書いてあるのを、真暗ななかで見かけたら、ここが大原だと思ってしまうのではないでしょうか?

 宮沢父子が【一乗寺道】を下りてきたとしたら、少なくとも一乗寺のほうの石標は、通りがかりになるはずです。






 以上のような次第で、まだ謎がすべて解けたわけではありませんが、ギトンの結論を言えば、

 宮沢父子の下山路は、掛橋「大鳥居」から地蔵谷経由の【白川道(1)】か、【一乗寺道】のいずれかの可能性が高いと言えます。

 【白川道(1)】は、明治以後には何といっても、南側の最主要参道でした。地蔵谷に「一の鳥居」があり、掛橋に「二の鳥居」があったことによって、そう言えます。つまり、正式の参道でした。信仰目的の宮沢父子が、この参道を利用するのは、自然なことでしょう。「白河路」を下りたという佐藤氏の記述にも、また、地蔵谷経由という小倉氏の記述にも合致します。



 しかし、ギトンは、【一乗寺道】を利用した可能性もあると思うのです。たしかに、文献資料と推論だけで言えば、【白川道(1)】で決まりっ‥と言いたいところですが、現地を歩いてみた感覚からすると、【一乗寺道】のほうに軍配が上がるのです。それは、こういうわけです↓

 ふもとへ降りた時点が「真暗」だったことから逆算すると、宮沢父子が掛橋の「二の鳥居」(大鳥居)に達したのは、18時〜19時ころではないでしょうか。まもなく日没という時刻で、空は暮れかけていたことでしょう。あるいは、日没後で夕焼けしていたかもしれません。佐藤氏は、



「この道も京の方から来た巡礼姿の巡拝の女人に会ったほかは、誰にも会わず、淋しい道でありました。山を下る頃、すでに黄昏になりまして、
〔…〕



 と書いています。このような時刻に、不案内で人通りのない山の中で、暗い谷底のほうへ下りて行きたいと思うでしょうか?‥

 明るい尾根路をたどりたくなるのではないでしょうか? しかも、その尾根路が、見るからに平坦で楽そうだったら... それが、通常の人間の心理だと思うのです。




掛橋「大鳥居」。日没間近だったら、どちらの道へ行きたいですか?




 そういうわけで、ギトンとしては、【白川道(1)】と【一乗寺道】を並べて結論にしたいと思います。頭脳で考えれば【白川道(1)】。しかし、身体とカンは【一乗寺道】だと言っている――というところでしょうか。。。










 









ばいみ〜 ミ





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カテゴリ: 宮沢賢治

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