01/06の日記

08:35
【宮沢賢治】『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(3)

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カンパニュラ(イワギキョウ)
加賀白山  









 おはやうございます (º.-)☆ノ




 前回、前々回につづいて、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』草稿。その失われた“欠落部分”には、何が書いてあったのか?(⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(1) 『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(2))‥‥謎を追求していきます。






【1.5】 「琴の星」は異空間への扉か?





 (1)で引用したように、天沢退二郎氏は、「琴の星」の異変は「夢のはじまりの指標」、すなわち「入眠」して夢を見る前兆だと述べていました。



「この、琴の星が長くのびるというのは、さっき引用した最後の行からもわかるとおり、夢あるいは夢のはじまりの指標である。」

『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,p.81.



 しかし、〔第3次稿〕のラストに置かれた異変では、「琴の星」が長くのびてもジョバンニは入眠しないので―――「夢のやうに」というテクストも「蕈のやうに」の誤読と判明したので―――、「琴の星」の異変が起きればジョバンニは入眠する…とは言えないことを指摘しました。

 

 ところで、ますむらひろしさんは、「琴の星」の異変は、ジョバンニが「異空間と現実との境界を越える合図」であり、「異空間の裂目を開く鍵でもある」と述べています:



「〈琴の青じろい光〉だけでは、条件が足りない。その光が〈とうとう蕈のやうに長く延びる〉この瞬間こそ、異空間と現実との境界を越える合図であり、異空間の裂目を開く鍵でもあるのだ。」

ますむらひろし『イーハトーブ乱入記』,1998,ちくま新書,p.167.






 ここで、ジョバンニの銀河への“旅立ち”場面に置かれた「琴の星」の2回目の異変の部分を、もう一度引用してみますと:






「     〔原稿5枚なし〕


ら、やっぱりその青い星を見つづけてゐました

 ところがいくら見てゐても、そこは博士の云ったやうな、がらんとした冷いとこだとは思はれませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のやうに考へられて仕方なかったのです。そしてジョバンニはその琴の星が、また二つにも三つにもなって、ちらちら瞬き、脚が何べんも出たり引っ込んだりして、たうたう蕈のやうに長く延びるのを見ました



     七、銀河ステーション

 (さっきもちゃうど、あんなになった。)

 ジョバンニが、かう呟くか呟かないうちに、愕いたことは、いままでぼんやり蕈のかたちをしてゐた、その青じろいひかりが、にはかにはっきりした三角標の形になって、しばらく蛍のやうに、ぺかぺか消えたりともったりしてゐましたが、たうたうりんとうごかないやうになって、濃い鋼青のそらの野原にたちました。いま新らしく灼いたばかりの青い鋼の板のやうな、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。

 (いくらなんでも、あんまりひどい。ひかりがあんなチョコレートででも組みあげたやうな三角標になるなんて。)

 ジョバンニは、思わず誰へともなしにさう叫びました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 “異変”を、順を追ってたどってゆくと:


 ジョバンニが「琴の星」を見つめる → 「琴の星」が「二つにも三つにもな」る → 「ちらちら瞬」く → 「脚が何べんも出たり引っ込んだり」する → 「たうたう蕈のやうに長く延びる」 → 「ぼんやり蕈のかたちをし」た「青じろいひかり」になる →→ 「青じろいひかり」が「にはかにはっきりした三角標の形にな」る → 「しばらく蛍のやうに、ぺかぺか消えたりともったりしてゐ」る → 「青じろいひかり」が「たうたうりんとうごかないやうになって、濃い鋼青のそらの野原にた」つ。


 という“手順”を踏んでいることがわかります。なかでも、「→→」と書いた部分には、数十秒か数分か、時間の経過があるようです。















 そこで、ある程度時間経過のある状態を取り出してみると、つぎのようになります:



 @ジョバンニが見つめていると、「琴の星」が分裂したり瞬いたり足を伸縮したりして活動する。 →

 A「琴の星」が脚を長く延ばして、ぼんやりしたキノコのかたちになり、青白く光る。 →

 B「青白いひかり」が、にわかに「はっきりした三角標の形」になって、「蛍のやうに」点滅する。 →

 C「三角標の形」の光が、「りんと」動かなくなって「そらの野原」に立つ。



 これを、1回目・3回目の“異変”と比べてみますと、@Aは、1,2,3回目いずれでも起きていますが、BCは、銀河世界へ旅立つ2回目の異変でだけ起きているのです。

 そうすると、「琴の星」の異変は、分裂したり瞬いたり、足が長く延びる…というだけでは“異世界”への越境は起きないのであって、ぼんやりしたキノコの形になった「青白いひかり」が、しばらく灯ったあと、「はっきりした三角標の形」になったときにはじめて、越境が起きるのではないか?‥‥ということが考えられてきます。



「まさにここは、現実から幻想第4次空間への裂目であり、おいそれと幻想側に行けないのはわかる。」

ますむらひろし『イーハトーブ乱入記』,1998,ちくま新書,p.164.



 つまり、“裂け目”を越えて“異空間”へ飛躍するにはそれ相当の過程が必要であり、すこし先走って言うと、一定のエネルギーの蓄積が必要なのです。「青白いひかり」がキノコの形になったあと、しばらくぼんやりとともっていたり、そのあと点滅をはじめるのも、なにか装置にエネルギーを溜め込んでいるような感じがします。

 引用部分のすぐあとで、「億万の螢烏賊の火」の化石、あるいは「ダイアモンド会社で‥‥かくして置いた金剛石を‥‥ひっくりかへして、ばら撒いた」ような圧倒的な光が現出します。ちょうど、溜め込んでいたエネルギーがいっせいに放出されたかのようです。そして、ジョバンニの周囲は、しだいに“銀河世界”の様相を整えてゆくのです:



「(さうだ、やっぱりあれは、ほんたうの三角標だ。頂上には、白鳥の形を描ゐた測量旗だってひらひらしてゐる。)ジョバンニが、さう思ったときでした。いきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の螢烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたといふ工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかへして、ばら撒いたといふ風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思はず何べんも眼を擦ってしまひました。実にその光は、広い一本の帯になって、ところどころ枝を出 したり、二つに岐れたりしながら、空の野原を北から南へ、しらしらと流れるのでした。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。






 そういうわけで、ますむらひろしさんは、「琴の青白いひかり」が「蕈のやうに長く延びる」瞬間が、“異空間”への越境の条件だとするのですが、賢治の叙述をよく見ると、それよりも後の段階ではじめて、越境が起きていることがわかります。

 そこで重要なのは、“異空間”への飛躍に必要なエネルギーを溜め込んでいるかのような段階があることです。この段階の前半では、たしかに「ぼんやり蕈のかたちをし」た「青白いひかり」が灯っているのですが、後半になると、「はっきりした三角標の形」になって点滅し、さかんにエネルギーを蓄積してゆくように見えます。





 








 ところで、私たちの中心課題は、“旅立ち”よりも前の5枚の“欠落部分”の内容を推測することでした。

 そこで、“欠落部分”の直前にある、1回目の「琴の星」の異変のほうを考えてみる必要があります。1回目の場合にも、光の「脚」が長くのびる異変のあとで、BCの変化が“欠落部分”には書きこまれていたのでしょうか?そして、ジョバンニは、いちどそこで“銀河世界”へ行きかけたのでしょうか?



 しかし、1回目には、変化は@Aまでで、ジョバンニは“銀河世界”へ行きかけてはいないと思います。

 というのは、ジョバンニは、2回目の“異変”でCの変化を見て、「誰へともなしに」↓こう叫んでいるのです。



「(いくらなんでも、あんまりひどい。ひかりがあんなチョコレートででも組みあげたやうな三角標になるなんて。)」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 つまり、Cの変化を、ジョバンニは2回目ではじめて見たことになります。1回目の“異変”の時には、Cの変化は起きていなかったのです。

 また、天沢氏が指摘された、



「(さっきもちゃうど、あんなになった。)」



 というジョバンニの独白は、2回目の“異変”のAとBのあいだにあります。「さっき」とは、1回目の“異変”のことです。つまり、1回目はAまでが起きたのです。

 したがって、1回目の“異変”はAまでだったことがわかります。“欠落部分”には、BCや、“銀河世界”への越境は、書かれていなかったのです。






【1.6】 “人魚の都”のよそよそしさ





 ここでふたたび“欠落部分”の直前を見ると、↓つぎのようなジョバンニの独白が書かれています。この独白は、〔第4次稿〕では削除されてしまっています。



「町の灯は、暗の中をまるで海の底のお宮のけしきのやうにともり、子供らの歌ふ声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘の草もしづかにそよぎ、ジョバンニの汗でぬれたシャツもつめたく冷されました。ジョバンニはじっと天の川を見ながら考へました。

 (ぼくはもう、遠くへ行ってしまひたい。みんなからはなれて、どこまでもどこまでも行ってしまひたい。それでも、もしカムパネルラが、ぼくといっしょに来てくれたら、そして二人で、野原やさまざまな家をスケッチしながら、どこまでもどこまでも行くのなら、どんなにかいいだらう。カムパネルラは決してぼくを怒ってゐないのだ。そしてぼくは、どんなに友だちがほしいだらう。ぼくもう、カムパネルラが、ほんたうにぼくの友だちになって、決してうそをつかないなら、ぼくは命でもやってもいい。けれどもさう云はうと思っても、いまはぼくはそれを、カムパネルラに云へなくなってしまった。一緒に遊ぶひまだってないんだ。ぼくはもう、空の遠くの遠くの方へ、たった一人で飛んで行ってしまひたい。)」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。






 「町の灯」が、「海の底のお宮のけしきのやうにともり、」という情景は、アンデルセンの『人魚姫』のはじめの場面を想起させます。海の沖のほうの水は「やぐるまぎくの花びら」のように青く透きとおり、その深い深い水底には、異様な植物がぎっしりと生い茂り、ゆらめいている。「その深い海の底に、人魚の種族(das Meervolk)が住んでいるのです。」というシーンです。ギトンは、この箇所をはじめて原書で読んだとき、また、外国の人の朗読テープで聴いたとき、あやしげな暗い海底と、そこに生息するポセイドンのような三叉の槍を持った異形の王族たちを想像して、めまいがしました。

 宮沢賢治は、アンデルセンの『絵のない絵本』の一節を、(おそらく独訳本から)連作短歌のかたちに翻訳して、保阪嘉内に書き送ったことがあります。その手紙は、賢治童話の成立過程を明かす一資料ともされているのです。

 おそらく賢治は、『絵のない絵本』だけでなく、『人魚姫』などのアンデルセン童話も熟読していたと思われます。















 ちなみに、もっと前のほうで、ジョバンニが町の通りを歩いている場面では、



「そのケンタウル祭の夜の町のきれいなことは、空気は澄みきって、まるで水のやうに通りや店の中を流れましたし、街燈はみなまっ青なもみや楢の枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木などは、中に沢山の豆電燈がついて、ほんたうにそこらは人魚の都のやうに見えるのでした
〔…〕けれどもジョバンニは、いつかまた深く首を垂れて、そこらのにぎやかさとはまるでちがったことを考へながら、町はづれへ急ぐのでした。」
『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 と書かれていました。「人魚の都」としての町の風景は、そこを歩いている時も、丘の上から眺めている時も、ジョバンニがそのなかに加わることの許されない疎遠な“幸福”の光景として描かれているのです。






 このあと、ジョバンニの独白が来ます。注目すべき点は、この独白が〔第3次稿〕から〔第4次稿〕への改稿で削除されていることです。つまり、“欠落部分”と同時に削除されていることから、この独白は“欠落部分”の内容と関連がある、…たとえば“欠落部分”には独白の続きが書かれていたことが考えられます。

 独白は、ジョバンニが、「牛乳屋」で素気なく断られたあと、同級生たちに嘲られてうちひしがれた気持ちを吐露しているのですが、内容を書きだすと、つぎのようになるでしょう:



 Ⓐ「みんなからはなれて」遠くへ行ってしまいたい。「空の遠くの遠くの方へ、たった一人で飛んで行ってしまひたい。」

 ●「もしカムパネルラが、ぼくといっしょに来てくれたら、‥どんなにかいいだらう。」

 ●カムパネルラと「二人で、野原や家をスケッチしながら、どこまでも行くのなら」、どんなにいいだろう。

 ●「カムパネルラは決してぼくを怒ってゐない」。つまり、カムパネルラだけが自分の味方だ。

 ●「ぼくは、どんなに友だちがほしいだらう。」

 Ⓑ「カムパネルラが、ほんたうにぼくの友だちになって」くれたら、「ぼくは命でもやってもいい。」

 ●しかし、父が帰って来なくなって以来、ジョバンニの生活は変ってしまったので、友だちになってほしいとカムパネルラに言うことさえ、もはやできなくなってしまった。



 Ⓐは、いちじるしい疎外感の表白ですが、疎外感が深刻であればあるほど、カムパネルラへの気持ちはそれだけ強くなる関係にあります。それはⒷで頂点に達し、カムパネルラのために「命でもやってもいい」と言い切ります。

 カムパネルラと「二人で、野原や家をスケッチしながら、どこまでも行く」というジョバンニの願望は、つぎの章で描かれる“銀河の旅”の伏線になっています。

 しかし、ジョバンニが、この地上で、カムパネルラとどれだけ親しい関係にあるのか、親しくしていたことがあるのかどうか、明らかではありません。ジョバンニの家の生活が窮迫する以前には、カムパネルラと親しくしていたようにもとれるのですが、その点が〔第3次稿〕でははっきり書かれていないのです。〔第4次稿〕には、かつてカムパネルラの家に遊びに行ったことなどが書かれていますが、それらの部分は〔第3次稿〕にはないのです。

 むしろ、ふつうに読むかぎり、〔第3次稿〕では、ジョバンニのカムパネルラに対する一方的な思い入れしかなく、カムパネルラのほうでは、ジョバンニに対して、とくに何とも思っていないように見受けられます。もちろん、“銀河世界”へ飛んだとたんにカムパネルラの態度は一変するのですが、地上でのカムパネルラは、ジョバンニに対して、たいへんそっけなく見えます。






 









「『ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。』さっきのザネリがまた叫びました。

 『ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。』すぐみんなが、続いて叫びました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いてゐるかもわからず、急いで行きすぎやうとしましたら、そのなかにカムパネルラが居たのです。カムパネルラは気の毒さうに、だまって少しわらって、怒らないだらうかといふやうにジョバンニの方を見てゐました。

 ジョバンニは、遁げるやうにその眼を避け、そしてカムパネルラのせいの高いかたちが過ぎて行って間もなく、みんなはてんでに口笛を吹きました。町かどを曲るとき、ふりかへって見ましたら、ザネリがやはりふりかへって見てゐました。そしてカムパネルラもまた、高く口笛を吹いて行ってしまったのでした。ジョバンニは、なんとも云へずさびしくなって、いきなり走り出しました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 ↑これは、ジョバンニが十字路で級友たちと出くわして嘲られる場面ですが、カムパネルラは、「気の毒さうに、だまって少しわらって、怒らないだらうかといふやうにジョバンニの方を見てゐ」るだけで、級友たちの嘲りを否定するようなことも言わないし、「そんなこと言うなよ。」などとたしなめることさえありません。そして、ほかの級友といっしょに「高く口笛を吹いて」、楽しそうに川遊びに行ってしまうのです。

 この点について天沢退二郎氏は、カムパネルラは「暗黙裡に嘲罵に加担してい」ると指摘されています:






「さて、いま出あった6,7人の同級生はジョバンニにあの《ラッコの上着が来るよ》という嘲りを投げつける。これだけなら、さっきのザネリに出あった時と同じだが、こんどは、その6,7人の中にカムパネルラがいたのである。カムパネルラ自身はいまの嘲罵に加わりはしなかったが、制止したり、仲間を叱ったり、ジョバンニに慰めの声をかけたりしたわけではない。ただ《気の毒さうに、だまって少しわらって、怒らないだらうかといふやうにジョバンニの方を見てゐました》というだけで、暗黙裡に嘲罵に加担していたと云われてもしかたがあるまい。」

『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,p.73.



「天沢 第4章で友達に会うとき、カムパネルラにああいう態度をとられるのに、そこで怒るとか、がっかりするとかしない。」

『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,p.22.





 つまり、カムパネルラの態度は、誰に対しても向ける一般的な善意をジョバンニにも向けているにすぎない。いや、級友の侮辱的言辞を聞き流している点を見れば、一般的な善意さえ向けていないと言わなければなりません。カムパネルラは、ジョバンニが侮辱を受けて気落ちすることよりも、うっかりたしなめなどして級友たちの気分を害することのほうを心配しているようです。そして、「怒らないだらうかといふやうに‥‥見てゐました。」つまり、ジョバンニと級友たちがけんかになったりすることだけを心配しているのです。そこには、ジョバンニに対する友情も、特別な好意も、まったく感じられません。

 それに対して、ジョバンニは、カムパネルラにいわば裏切られているのに、恨むどころか、かえって思慕をつのらせているように見えます。上に引用した独白では、「ぼくの友だちになって、決してうそをつかないなら、ぼくは命でもやってもいい。」とまで心に誓うのです。

 もっとも、天沢氏は、嘲罵への「カムパネルラの〈加担〉は、たんにジョバンニの思慕が一方的」であることを示すものでは「全くな」いとしていますが、これはジョバンニに、作者賢治のなかの「詩人オルフェ」の無意識な現れを読みとろうとされているからです
(『討議』,pp.66-67,73-74)。作中人物であるジョバンニの心理・行動が、カムパネルラに対する一方的な感情であり、夢想にも似た依頼心であることを否定したことにはなりません。

 ギトンとしては、ここはやはり俗っぽく、あからさまに、ジョバンニの心理と行動を額面通りに受けとっていきたいと思いますw

 ジョバンニのカムパネルラに対する一方的な思いは、たんなる同級生や友人に対する感情を越えています。たんなる友情にはない一途さがあります。またその核には、対象との一致を想うことによる幸福感があります。相手に気持ちを伝えることができない状況のために抑圧され、悲しみに陥ってはいるものの、それはやはり“恋”と呼んでよいものです。

 ジョバンニの感情は、同性に対する少年の恋なのです。



















【1.7】 口をあける“不可能”の深淵



 ところが、いったん“銀河世界”へ飛び移ると、ジョバンニの前でのカムパネルラは一変します。“銀河鉄道”の列車の中でジョバンニと出会うカムパネルラは、最初から、ジョバンニの願いのままを実現するかのように行動しているのです。



「『あゝしまった。ぼく、水筒を忘れてきた。スケッチ帳も忘れてきた。けれど構はない。もうぢき白鳥の停車場だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんたうにすきだ。川の遠くを飛んでゐたって、ぼくきっと見える。』」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 「二人で、野原や家をスケッチしながら、どこまでも行くのなら、どんなにかいいだらう。」という“旅立ち”前のジョバンニの独白に対応して、カムパネルラは、ジョバンニとスケッチの旅にでかけるかのように、水筒やスケッチ帳を忘れてきてしまった‥などと言うのです。そして、なによりもカムパネルラは、ジョバンニとの旅が楽しくてたまらないと言うように、うきうきとしています。

 カムパネルラのそうした態度にうながされてか、ジョバンニも、



「(ああ、さうだ。カムパネルラだ。ぼくはカムパネルラといっしょに旅をしてゐたのだ。)」

「(さうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)」



 と、眼の前のカムパネルラを、直ちに現実として受け入れてしまいます。“異世界”への跳躍が、まわりの世界を変えてしまっただけでなく、ジョバンニ自身をも変えてしまったかのようです。ジョバンニは、“銀河世界”のようすや、自分らを乗せて走る鉄道については、不可思議の感にとらえられたり、しばしば疑ったりしますが、カムパネルラの“豹変”に対しては、その真意を決して疑うことがないのです。

 

 そればかりではありません。

 『銀河鉄道の夜』の成立過程 ←すでにこちらで触れましたが、地上でのジョバンニは、カムパネルラを間にはさんで、ザネリと同性愛の“三角関係”にありました。ザネリがジョバンニに対して、出会うたびに執拗に侮辱を加えるのは、ジョバンニを“恋敵”として意識しているからにほかなりません。

 そして、この“旅立ち”の時点では、ジョバンニはまだ知らない―――〔第3次稿〕では最後まで、はっきりとは知りえない―――のですが、カムパネルラは、水に落ちたザネリを救おうとして、自らの命を犠牲にしてしまっているのです。いや‥、ザネリのために生命を供したからこそ、カムパネルラはこの“死出の旅”に旅立っているのです。

 そのことは、すくなくとも作者の構想としては、この童話のどこかで仄めかされることになっていました。それは、



「カムパネルラをぼんやり出すこと、
 カムパネルラの死に遭ふこと、
 カムパネルラ、ザネリを救はんとして溺る。」



 というメモとして、〔第1次稿〕直後から草稿の尻に書かれていたのです。さきほど引用した独白で、



「ぼくもう、カムパネルラが、ほんたうにぼくの友だちになって、決してうそをつかないなら、ぼくは命でもやってもいい。」



 と叫ぶように念じているジョバンニに対して、この事態はあまりにも皮肉であり、作者の構想はあまりにも残酷です。カムパネルラのために「命でもやってもいい。」と誓うジョバンニに対して、当のカムパネルラは、ジョバンニを最も嫌うザネリのために、やすやすと命を投げ出してしまうのです。そして、そのことによってはじめて、ジョバンニのカムパネルラとの“旅”が可能になるのです。

 “銀河の旅”は、ジョバンニにとってカムパネルラとの“恋の道行き”なのだとすれば、それは“はじめから不可能を運命づけられた恋の道行き”であったのです。

 このような構想を終始抱きつづけた宮沢賢治という作家に対して、私たちは畏怖にも似た戦慄を覚えざるをえません。






 









 ところが、“銀河の旅”の初めで列車に乗り合わせたカムパネルラは、ジョバンニに対して、このザネリのために敢行した自己犠牲を、つぎのように、まるでサラッと述べているのです:



「(ああ、さうだ。カムパネルラだ。ぼくはカムパネルラといっしょに旅をしてゐたのだ。)ジョバンニが思ったとき、カムパネルラが云ひました。

 『ザネリはね、ずゐぶん走ったけれども、乗り遅れたよ。銀河ステーションの時計はよほど進んでゐるねえ。』」



 カムパネルラは、ザネリのことなどまったく意に介してもいないといったふうです。(ちなみに、「銀河ステーションの時計はよほど進んでゐるねえ。」は、〔第4次稿〕への改稿で削除されています。)

 そして、「次の停車場で下りて、ザネリの来るのを待ってゐやうか」と言うジョバンニに対して、カムパネルラは、その必要はないと言います:



「『ザネリ、もう帰ったよ。お父さんが迎ひにきたんだ。』」



 ちなみに、この〔第3次稿〕では、カムパネルラの父は登場しません。ジョバンニの“帰って来ない父”については言及があるのに、カムパネルラの父については、言及されることさえないのです。



 ザネリを待っていようか?‥と、忖度するように言うジョバンニ。ザネリが乗り遅れたことを、ことさら朗らかそうに述べるカムパネルラ。二人のあいだに行き交う暗黙のさぐりあいを紙背に読むことも、不当とは言えないでしょう。宮沢賢治と同時代のほかの作家であったなら、微妙な表情のゆれや心理の駆け引きを描いてよい場面です。

 しかし、賢治は、そうした描写をあえてしない作家なのです。賢治がその種の“心理戦”を描くのは、『フランドン農学校』の豚と校長のやりとりのように、登場人物が自己の生死にかかわるぎりぎりの状況に置かれた場合に限ります。






 ここでは、ジョバンニに与えられる暗示に、作者がわずかにふれるのは、↓つぎの箇所です。



「『ザネリ、もう帰ったよ。お父さんが迎ひにきたんだ。』

 カムパネルラは、なぜかさう云ひながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいといふふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘れたか済まないことがしてあるといふやうな、おかしな気持ちがしてだまってしまひました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。






 こうして、ジョバンニとカムパネルラは、まるでずっと前からの親友のように旅を続けるのですが、二人の“旅”が不可能を運命づけられていることは、ときたま仄めかされる深淵の“あぎと”の存在によって、ジョバンニと読者に知らされるのです:



「『ぼくたち、どこまで行くんだったらう。』ジョバンニはふと天の川のこっちに、大きな一つのからな小屋が建ち、そこから滑車や綱が、たくさんぶらさがってゐるのを見ながら、カムパネルラにききました。

 『どこまでも行くんだらう。』カムパネルラがぼんやり答へました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 カムパネルラの応答は皮肉なことに、ジョバンニの“旅立ち”前の独白:



「二人で、野原やさまざまな家をスケッチしながら、どこまでもどこまでも行くのなら、どんなにかいいだらう。」



 に対応しています。その応答を「ぼんやり」と返すカムパネルラの無表情は、二人の脚の下にぽっかりと口を開けた見えない深淵が、ジョバンニの前に突如として現れたかのようです。「大きな一つのからな小屋が建ち、そこから滑車や綱が、たくさんぶらさがってゐる」光景。それは、意識の下から何か重いものを引っ張り上げるような軋みをひびかせています。
















 ここでふたたび“欠落部分”の考察に戻りましょう。

 “欠落部分”には、ジョバンニの独白の続きが書かれていたことが考えられます。そして、“欠落部分”で、ブルカニロ博士が「天気輪の丘」の上でジョバンニの前に現れます。

 そこで、すこし想像をたくましくすれば、ジョバンニはブルカニロ博士との会話でも、“欠落部分”の前に独白していた内容を語っていることが考えられます。

 あるいは、ブルカニロ博士は、ジョバンニの独白のつづきを聞きながら登場してくるかもしれません。



「『あゝあの白いそらの帯が牛乳の川だ」



 と、“欠落”の直前に言いかけていた部分は、内的独白ではなく、声に出して言っているからです。

 そして、ジョバンニの独白を聞いていたか、会話で聞きだしたかしたブルカニロ博士は、ジョバンニの希望を実現させてやろうと図った……と考えるのは想像が過ぎるでしょうか?。。。
 


 その場合、ブルカニロ博士の「実験」とは、テレパシーでジョバンニに「セロのやうな声」を送るだけにはとどまらないことになります。“異世界”への飛躍をしくみ、あるいは助けることによって、ジョバンニの“銀河の旅”を現出させているのは、ブルカニロ博士にほかならないことになるからです。そのような能力をもったブルカニロ博士とは、いったい何者なのか?‥単なる科学者であることを越えて、心霊術を実践するマッド・サイエンティスト、あるいは、この世と“異空間”との行き来にかかわる一種神的な存在なのだろうか?‥さまざまなことが考えられてきます。

 そういえば、前節で見たように、ジョバンニの“異世界”への跳躍の過程には、なにか装置に巨大なエネルギーを溜め込み、それを放出するようなマシナリーな手順が含まれています。



 もちろん、これは一つの想像にすぎません。“欠落部分”にジョバンニとブルカニロ博士との会話が書かれていたことはほぼまちがえないと思われますが、そこでジョバンニがカムパネルラに対する気持ちを語っていたかどうかはわかりません。

 ただ、「遠くへ行ってしまいたい。」という気持ちを語っていたことは、むりなく考えられます。のちほど説明しますが、ブルカニロ博士がジョバンニに、銀河や宇宙空間について話していることはまちがえないからです。

 このへんになると、“欠落部分”の内容いかんの推理は、ブルカニロとは何者か?……という謎と深くかかわってくるのです。












ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: 宮沢賢治

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