11/05の日記
15:09
【BL週記】奥多摩のオイノさま(5)―――御前山南面
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奥多摩、蕎麦粒山 ハウチワカエデ
こんばんは(^。^)っ
奥多摩の狼神社。前回は、臼杵山の頂上付近にある小さな祠を訪ねました。
【参考】⇒:【BL週記】奥多摩のオイノさま(4)
ほとんど壊れかけた石像ですが、そんなに古い年代のものだと知ったのは、ごく最近のことです。このタイプの“犬だか猫だか”わからない似た形のものが、奥多摩のあちこちにあるのは知っていましたが、同じ石屋さんが造ったから似ているのだろうくらいに思っていました←
しかし、この特徴ある形は、ある時代の特定の文化と信仰を刻印されているのです。
さて、最終回は、御前山の南の尾根に立つ“オイノ”たちを見ていきます。
(5)鑾野御前神社
御前山(ごぜんやま。1405m)は、みたけ山から三頭山への縦走路にある山です。小河内ダムからの登山道は急坂ですが、南側には、ゆるやかな尾根を延ばしています。
北秋川から、この尾根に上がる途中に、「湯久保」集落があります。
御前山・湯久保尾根 浅間嶺付近から望む。
山腹に「湯久保」集落、手前の尾根に「尾根通」集落が見える。
「湯久保」集落 浅間嶺から。
ここに限らず、奥武蔵丘陵から奥多摩にかけて、高地性集落が少なくありません。山すそでも谷あいでもなく、稜線上や、稜線近くの緩斜面に、村があるのです。
なぜ、このような不便な場所をわざわざ選んで、人が住むようになったのか?
日本人より古くからいる高地民族だ‥、サンカだ‥、朝鮮三国からの渡来人が住みついた‥、平家の落ちうど部落だ‥、戦国時代の戦乱を避けたのだ‥、などなど、高地性集落の起源については諸説紛々、決め手はありません。ともかく、昔から村があるのです。
湯久保
湯久保集落へ行ってみると、ここは南向きの斜面で、日当たりが良く、夏は涼しそうです。水の便さえあれば、なかなか住みやすいのではないかと思えてきます。
部落の入口の、いちばん日の当たる場所に、先祖代々の共同墓地がありました。古い庚申塔が立っています。ここからは、臼杵山がよく見えます。
民家と畑がまばらにある斜面を奥へ進むと、鑾野御前神社の鳥居が見えてきます↓
祠は、巨きな岩の下にあり、見れば“オイノ”が何対も居ます↓
↓大きい“オイノ”から見ていきましょう。“あ・うん”の形相を見せています。
左の“オイノ”
右の“オイノ”
右の“オイノ”
大岳山と臼杵山の“オイノ”に似ています。同じ古いタイプの狼石像であり、銘はありませんが同じ時代のものでしょう。
大岳山、臼杵山よりも様式化が進んでおり、写実性には乏しいと言えます。
手前にある小さい“オイノ”は、より写実的ですが、狼よりも犬に近い形をしています↓。より新しい時代のものでしょうか? 損傷が進んでいますが、もとはそれぞれが一対だったのではないでしょうか。
(6)貴布禰神社
貴布禰神社は、「尾根通」集落の下の谷あいにあります(↑展望写真参照)。「尾根通」も、御前山から南方に伸びた尾根の上にある高地性集落です。
この神社にある一対の“オイノ”石像は、もとは尾根の上のほうにあったのを、ここに移したものらしいと言われます。「尾根通」集落にあった、いまは無くなった祠に付属していたのでしょうか?
笹ヶ久保・貴布禰神社 鳥居
笹ヶ久保・貴布禰神社 社殿
左(向って右)の“オイノ”は、木の陰にいます。
右の“オイノ”
右の“オイノ”
左の“オイノ”
左の石像は首が欠けてしまっているので、“あ・うん”かどうかはわかりませんが、やはり古いタイプの“オイノ”です。
台座に年代銘があって、これは宝暦10(1760)年の建造です⇒:『桧原村史』。大岳神社の“オイノ”像の翌年になります。
以上で、奥多摩にある《狼神社》をひととおり巡りましたが、やはり興味を引かれるのは、大岳神社をはじめとする最古層タイプの“オイノ”石像です。
どうやら、このタイプは、山梨県、長野県にも、点々と残っているようです。古い“オイノ”さまを尋ねて、中部山岳の奥へと分け入ってみたくなりました。。。
ばいみ〜 ミ彡
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