11/12の日記
14:20
【宮沢賢治】キメラ襲う(1)
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キメラ パリ・ノートルダム寺院の破風彫刻
こんばんは。(º.-)☆ノ
(1)キメラ
「なぜ吠えるのだ、二疋とも
吠えてこつちへかけてくる
(夜明けのひのきは心象のそら)
〔…〕
なぜさう本氣に吠えるのだ
〔…〕
うしろへまはつてうなつてゐる
わたくしの歩きかたは不正でない
それは犬の中の狼のキメラがこわいのと
もひとつはさしつかえないため
〔…〕
いつもあるくのになぜ吠えるのだ」
宮沢賢治「犬」, in:『春と修羅』(1924)
「辞書や歴史辞典の類においてみれば、〔…〕
満洲国―――1931年9月、満洲事変を起こして中国東北部を占領した関東軍が、翌年清朝最後の皇帝溥儀を執政(34年皇帝に即位)に立てて作りあげた国家。国防、政治の実権は関東軍が掌握し、日本の大陸進出の軍事的・経済的基地となった。1945年日本の敗戦により崩壊した―――といったところがほぼ通説的な叙述であろう。また、日本ないし関東軍の傀儡国家と規定するものも少なくない。
〔…〕
英語などでの満洲国についての叙述は、〔…〕―――日本が中国東北に 1932年に建てた傀儡国家(puppet state)。溥儀を名目上の統治者としたが、すべての実権を日本の軍人、官吏、顧問が独占した。〔…〕その本質は傀儡国家であり、第2次大戦における日本降伏とともに壊滅した―――などと説明されることが多い。
独立国家の形式をとりながら、その政府が自国民の利害のためでなく、他国の意思にしたがって統治を行なうことをもって傀儡国家とするならば、〔…〕満洲国が傀儡国家であり、〔…〕植民地支配の統治様式のひとつであったことは否定できないであろう。〔…〕」
いや、関東軍“731部隊”の残虐行為とその写真、東北部各地の抗日戦争記念館に陳列された酸鼻極まる証拠品の数々を目にしたならば、「偽国家、傀儡国家という概念さえ、〔…〕満洲国での統治の実態をいかほどにもすくいとっていないのではないかと誰しも思われるのではないだろうか。〔…〕
一般監獄や強制輔導院における強制労働がほとんどの場合において死につながったこと、そして、その逮捕自体がまったく恣意的なものであったことに思いを致すとき、満洲国を傀儡国家というよりも、アウシュビッツ国家、収容所国家とでも概念づけたい慄然たる衝動に駆られるのもまた自然な心の動きといえるであろう。」
その一方で、「多くの日本人を『満洲にひっぱってきたものは、けっして利欲ではない、名誉でもない。新しい天地を開き、新しい国づくりに参加せんとする純粋な心持であった』(星野『見果てぬ夢』)という証言もまったくの虚偽意識として否定しさることはできないようにも思われるのである。〔…〕しかし、無私、無償の主観的善意が必ずしも結果における善行を保証するものではない。〔…〕
いかなる意味で満洲国は日本の傀儡国家、植民地国家であったのか、〔…〕
傀儡国家とみる立場からは国家機構や国家理念が軍事支配の本質を隠蔽、偽装するにすぎないものとして軽視され、理想国家・道義国家とみなす立場からは建国の背景や統治機構、統治の実態よりも国家理念〔…〕だけが重視され、
ともに国家像としてはある面だけが強調されてきた〔…〕
私がここで企図していることは満洲国の肖像をギリシャ神話の怪物キメラ(Chimera)になぞらえて描くということである。〔…〕私は満州国を頭が獅子、胴が羊、尾が龍という怪物キメラと想定してみたい。獅子は関東軍、羊は天皇制国家、龍は中国皇帝および近代中国にそれぞれ比す」
山室信一『キメラ――満洲国の肖像』,増補版,2004,中公新書,pp.6-16.
キメラ 皿絵、紀元前4世紀頃、南イタリア
“満洲国”なる国家の建国を立案したのは、日本陸軍中央(陸軍省と参謀本部)でした。
日本軍部でもっとも早くから「満蒙」の略取・領有を唱えていたのは、石原莞爾らであり、1927-28年頃には、石原の煽動的な提唱によって、その考えは陸軍中央の中堅将校の間に広がっていました。
「石原はすでに河本大作が張作霖を爆殺する半年前の 1927年12月の時点で『満蒙を領有せざるべからざるは絶対的』との結論に達し、さらに中国本部の領有をも視野に入れた研究準備の必要性を強調していた。」
『キメラ』,p.28.
「石原はヨーロッパ戦争史の研究と日蓮宗の信仰★を結合させ、近い将来に世界の『中心は日本か米国かを決定』する『人類の最後大闘争たる世界大戦』が勃発するという世界最終戦論を唱え、これに備えるための『対外的第一の目標』は『満蒙問題を解決するにあ』り、そして『満蒙問題は之を我が領土となすことにより初めて解決する』と主張した。」
江口圭一『十五年戦争小史』,新版,1991,青木書店,p.34.
★ 石原莞爾は『国柱会』の会員であり、田中智学とも親しい間柄でした。石原の構想は、智学の“日蓮宗を国教とする日本帝国の世界征服”という宗教的国家主義思想を、軍事戦略として現実化したものと言うことができます。
しかし、石原ほか関東軍首脳部は、満州・蒙古を「我が領土となす」ための具体的方法については、何らかの機会をとらえて、または謀略により軍事占領し、占領地に軍政を敷く―――ということしか考えていませんでした。
「石原はその具体的方法について、『〔…〕若し軍部にして団結し戦争計画の大綱を樹て得るに於ては、謀略により機会を作製し、軍部主動となり国家を強引すること必ずしも困難にあらず』とした。石原は〔…〕30年末には満州占領計画をほぼ完成させた。」
a.a.O.
これに対して、陸軍中央では、関東軍の軍事占領計画と同じ時期に、傀儡国家を樹立して実質的に「満蒙」を領有する方策を立てていたのです:
「満蒙問題を武力的方法によって解決しなければならないという考えは、この時期の陸軍中央部(陸軍省および参謀本部)の首脳層・幕僚らにほぼ共通に抱かれるようになっていた。
29年5月陸軍人事の刷新と満蒙問題の解決を目的として佐官級エリート将校により一夕会が結成され、省部の重要ポストを逐次押さえた。31年3月決定の参謀本部第二部の『情勢判断』には親日政権樹立・独立国家建設・満蒙領有の3段階からなる満蒙問題解決方針が含まれており、建川美次第二部長は、4月1日師団長会同に際して『満蒙に対する帝国の積極的進出は速に之を決行するに於て我に有利』であると述べた。〔…〕
軍中央では〔ギトン注―――1931年〕6月に建川参謀本部第二部長を長とする省部5課長の内密の委員会が発足し、満州における軍事行動の必要を予想するとともに、内外の理解をえるための施策の必要上、関東軍には1年間の『隠忍自重』を求めるという方針を決定した。
これにたいして関東軍の板垣・石原らは謀略により軍事行動を9月下旬におこすことを計画した。」
『十五年戦争小史』,新版,pp.34-35.
「東京の軍の要人の中にはこの計画に関与していた者もいた。だがその主要グループ内で予定されていた行動の時期は 1932年であった。」
クリストファー・ソーン,市川洋一・訳『満州事変とは何だったのか(上)』,草思社,1994,p.176.
すなわち、《柳条湖事件》は、軍中央の決定より1年早く、関東軍の板垣・石原が独断で起こした謀略・軍事行動でしたが、彼らを制止すべく奉天に赴いた建川少将も、軍事行動が開始されたと見るや、これを是認する一方で“傀儡国家樹立”の方針を彼らに受け入れさせ、関東軍司令官も、ためらったのち 18日深夜、作戦参謀石原の起案した命令書により関東軍全軍に出撃命令を下したのでした(『十五年戦争小史』,p.37)。
若槻内閣(外相幣原喜重郎)は、《事件》翌日(9月19日)の閣議で「不拡大」方針を決定。幣原外相は、国際連盟と諸外国に、「自衛」のための「必要最小限度」の軍事行動だと苦しい説明をしつつ、「事変不拡大と関東軍の早期撤収」を表明していました(『キメラ』,p.67)
しかし、21日、朝鮮軍司令官は独断で1旅団の援軍を満洲に派遣。関東軍司令官も、独断で吉林省へ派兵して、満鉄沿線から奥地へ戦線を拡大して行きました。陸軍大臣と参謀総長から伝えられた停止訓令は無視されました。
こうして、現地の軍の暴走に引きずられる形で、日本の軍と政府は、《満州事変》から“満洲国”建国へと踏み込んで行ったのでした。
(2)運命の日
ところで、1931年9月18日《柳条湖事件》(満州事変の発端)勃発の日、宮沢賢治★は、技師として勤務していた『東北砕石工場』の石灰岩材料見本を詰めた重いトランクをかかえて、仙台・東京方面へ出張しています。
★ 宮沢賢治と満洲事変との関係については、こちらも参照⇒:太子の路(2)
「9月19日炭酸石灰や石灰製品の何貫目もある見本をもって上京した。その前コンクリート屋を呼んで美しい化粧レンガなども作った。」
森荘已池『宮沢賢治の肖像』,p.177.
そして、20日夜、東京・神田駿河台の旅館『八幡館』に到着した時には、高熱に見舞われて床に臥し、故郷の家族に宛て遺書を送る事態となります。
まもなく小康して花巻に帰ったものの、ほとんど寝たきりの状態で、1933年9月の死を迎えるのです。
《柳条湖事件》勃発が日本内地の新聞・ラジオで報道されたのは、19日夜でしょうか?
19日ひるまには、賢治は仙台で、元気な姿を見せています。仙台の古書店で、偶然に賢治と会った盛岡中学の先輩・加藤謙次郎は、
「石粉を配合した化粧煉瓦を造って売る計画をたて、その試作品を携えて名古屋方面まで売り込みに行ってくるといい、胸が悪い様子は全然感じられなかった。」
『新校本全集』「年譜」,pp.464-465.
と述べています。
ところが、同日夜、仙台の旅館で、賢治はよく睡眠できなかったことが、持病の肺結核再発の引き金になります:
「仙台に出て、一泊したとき、午前2時ごろまで飲んでさわいでいた連中があって眠れず、〔ギトン注―――午前〕4時仙台発の列車に乗った。
ぐっすり眠っていると、何だか耳が寒いと思って目がさめた。すると頭も痛いのに気がついた。向こう〔客車の向かい合わせの座席―――ギトン注〕に乗った人が、汽車の窓をあけたまま降りてしまって、風が吹きこんでいたのであった。
東京につくと一緒にひどく高熱を出して、駿河台の八幡館という旅館で寝込んでしまったのであった。」
森荘已池『宮沢賢治の肖像』,p.178.
仙台の旅館で「飲んでさわいでいた連中」とは、《柳条湖事件》の報に感激し快哉する宿泊客たちの宴ではなかったでしょうか?
賢治の病いは、《柳条湖事件》勃発の報、その後つぎつぎ伝えられる日本軍進撃の報と、無関係だったと言えるでしょうか?
「満蒙征服」の報に喜び沸き立つ人々の中で、心理的に追い詰められて行ったのではないでしょうか?‥
『八幡館』からの連絡で病床に駆け付けた菊池武雄(『注文の多い料理店』の装幀・挿画を担当した画家。当時東京に在住)によると、賢治は高熱を出して寝ていたが、花巻の実家に連絡すると言うと、強く断り、
「よくなったら、ここから墨染の衣をきて托鉢でもしてまわりますよ」
と言う。東京で療養する計画かと思って、菊池宅近くの閑静な場所に借家を見つけて報告すると、不愛想になってそれも断る。菊池に浮世絵とレコードを贈って「これは形見だ」と言う。また、家族あての遺書も書いています。(『新校本全集』「年譜」)
賢治は、だいぶ精神の混乱をきたしているようですが、“僧になって托鉢して回る”という発言には、石灰岩のセールスも、実家での生活も放り投げて、社会の片隅に引きこもってしまいたい‥という精神の退行が窺われます。
東京での病臥から帰宅した後、11月3日に手帳に記された「雨ニモ負ケズ」には、
「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
〔…〕
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
〔…〕
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ」
と書かれました。
また、同じ手帳の別の詩〔くらかけ山の雪〕には、
「たゞわがほのかにうちのぞみ
かすかなのぞみを托するものは
麻を着
けらをまとひ
汗にまみれた村人たちや
全くも見知らぬ人の
その人たちに
たまゆらひらめく」
とも書かれています。
これらにも、社会の活動圏から離脱したい、野原の片隅に引きこもって、目立たないように人々の幸福を祈り、助力する生活をしたい―――という賢治の気持ちが表れています。それはしかも、この時期に突然起こったように思われます。
《満洲事変》後のあわただしい世の中の動き、押し流されるように変容してゆく世論と人心が、宮沢賢治に負の影響を及ぼしていなかったと言えるでしょうか?‥
ばいみ〜 ミ彡
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