11/10の日記

01:38
【シベリア派兵史】日露戦争から満州事変へ(3)

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山海関・老龍頭 長城の東の端。華北と東三省(満州)の境界点。   






 こんばんは。(º.-)☆ノ










(6)驕るサーベル、傷だらけのペン







 1931年の《満州事変》を前に、陸軍は、満州鉄道官僚から、内地の在郷軍人会、一般国民に至るまで、おおぜいの聴衆を動員して "国防思想普及運動" を繰り広げていました。

 しかし、そこに言う「国防思想普及」とは、“日本が生き延びるためには「満蒙」の略取領有が不可欠である”―――と宣伝するキャンペーンにほかならなかったのです。





 1930年3月、関東軍参謀・石原莞爾は、

「『満蒙問題解決の唯一方法は満蒙を我有とするにあり』」

 との方針を、満鉄調査課員に説明していた。そして、


「国民に、以下の点をわからせる必要があると説明している。満蒙の真価、満蒙の占領は我が正義なること、対米持久戦は恐るべからざること、の二つである。」

『満州事変から日中戦争へ』,pp.101-102.






 在郷軍人会・本部評議会での参謀本部第二部長・建川美次★の講演では、列国によって認められていた日本の「満蒙権益」が、ワシントン軍縮会議(1921年)によって全部破棄されたかのように説く説明がなされていた。

 しかし、もともと、条約などで国際的に認められた日本の"権益"などは、存在しなかったのです。日露戦争後にロシアから譲渡されたと日本が言う南満州鉄道に関する権益も、清朝ないし中国が認めたことは無かったのでした。ワシントン会議では、「満蒙」に関しては、何ら新しい決定はなされていません。(『満州事変から日中戦争へ』,pp.54-55,60,130-148)

 にもかかわらず、"日本が持っていた権益が、第1次大戦後の平和主義の風潮の中で、すべて奪われてしまった。何とかして取り戻さなければならない"式の虚偽の説明が、在郷軍人を通じて国民に浸透して行ったのです。

★ 建川は、前回も、満州に傀儡国家を立てて「民族自決」を装うという陸軍中央の方針を関東軍に伝える役目をしていました。石原莞爾と並んで、《満州事変》で重要な役割を果たした人物の一人と思われます。





 在郷軍人会でのこの講演では、さらに、"条約上認められた日本の権益を、中国側がいかに侵害してきたか" についても、詳しい説明がなされていました。

 しかし、その内容も、虚偽と、歴史的経緯の曲解に満ちたものでした。じっさいには、条約に記された権利などは無く、条約交渉で日本側が主張したものや、交渉過程での言質にすぎないものを、日本が「権益」と称していることは、《満州事変》後の「リットン調査団」報告書によっても明らかにされています。(『満州事変から日中戦争へ』,pp.10-14,144f.)



 このようにして、日本の侵略に抵抗する中国は "約束を守らない狡い民族"であり、そのような中国人を"成敗"して侵略することこそ正義である、との異常きわまりない排外主義が、全国民に吹きこまれて行ったのです。



 現役軍人が、地方へ赴いて、講演会に動員された農民、労働者に直接説きかける「時局講演会」では、‥‥むずかしいことを説明しても聴衆には理解できないので‥‥もっと明らさまな排外的扇動が行なわれました。

 
 《世界大恐慌》の起きた
「1930年になると、農村が恐慌におそわれた。農産物価格の暴落が農家経済を直撃した。農家の子女の身売りが目立ってきた。〔…〕そんななかで軍部は総力をあげて、直接に国民を動かそうとした。〔…〕

 正確な日取りは記憶にないが
〔1931年の晩春。石堂清倫『わが異端の昭和史』上,2001,平凡社,pp.175-178―――ギトン注〕、私は石川県小松町の公会堂の前を通ると、時局講演会の立て看板を見た。入って見ると満員であった。〔…〕講師は制服の陸軍少佐である。

 少佐はまず農村の惨状を歎いた。
〔…〕左翼の唱える農業改革は、もっともなことである。しかし、国土が狭小で人口が過剰な日本で農地の平等分配を行っても、農家一戸あたりの耕地は5反歩〔約0.5ヘクタール―――ギトン注〕に過ぎない。これでは息子を中学校にやることもできない。〔…〕

 眼を転じて満蒙を見よ。そこには無限の沃野がひろがっている。それを頂戴しようではないか。そうすれば諸君は一躍して10町歩
〔約10ヘクタール―――ギトン注〕の地主になることができる。

 他人様のふところに手をつっこむのは褒めたことではなかろう。しかし背に腹はかえられないではないか。今や一大決心をして天皇陛下をいただき政治を一新して事に当たらなければならない。

 それは激烈きわまる煽動であった。
〔…〕侵略もまた正義であるというのであった。聴衆は肝をつぶしたにちがいない。しかし軍部が先頭にたっている以上、新しい価値観、新しい精神で武器を取ってよいのだと理解したであろう。人びとは軍部を救世主と感じたであろう。〔…〕

 全国の師団は在郷軍人会をうごかして『国防思想普及運動』を開始したのであった。
〔…〕陸軍の機関の一つである『偕行社記事』によると、各地の演説会は 1866箇所で行われ、動員された聴衆は 165万人に達していた。〔…〕軍の協力者である大川周明が、のちに『無遠慮』に演説して廻ったと回顧しているように、まさしく傍若無人の全国的カンパニアであった。」
石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.179-181.

 















 《満州事変》勃発から3か月ほどたって、『中央公論』1932年1月号に、「民族と階級と戦争」という題で、吉野作造の論評が載りました。

 吉野に原稿を依頼した編集部の意図は、「民族と階級」という題で、無産政党の動きを論評してもらうことだったようです。しかし、吉野は、論説の大部分を費やして、《満州事変》を批判的に論評したのでした。

 《満州事変》の軍部の行動を批判することは、当時非常に勇気のいることだったと思われます。現に、吉野のこの論文は、重要な箇所がすべて伏字(×××)で潰され、容易には読めない状態で掲載されました。






「吉野にとって不可解なことは、満州事変にかんする『自由無遠慮な批判』が国内にもっとあっても当然なのに、それがないことであった。とくに彼が遺憾かつ意外としたのは二つの点であった。

 『一つは不思議な程諸新聞の論調が一律に出兵謳歌に傾いて居ることであり、他は無産政党側から一向予期したやうな自由豁達の批判を聞かぬこと』である。『社会の木鐸』をもってみずから任じていた新聞のこれまでの主義主張を思い起こすとき、現在の新聞論調が今回の軍事行動を無条件に賛美するその変わり身の速さに、吉野は信じがたい様子であった。」

松本三之介『吉野作造』,pp.336-337.




 新聞について言えば、《満州事変》の直前まで国際正義に基づく満蒙問題の解決を説いて、軍部の強硬論に反対していた『大阪朝日新聞』の社説が、事変後の 10月1日に急変し、同じく満蒙問題で軍部を批判していた『東京朝日新聞』も事変後に社論を転換しています(op.cit.,pp.405-406)。

 ここには、軍部による新聞社への何らかの介入操作がうかがわれます。

 しかし、新聞だけでなく、少部数の雑誌まで含めて、批判世論が全く沈黙してしまったのは、いったいなぜだったのでしょうか?‥ 言論弾圧だけでは説明できないでしょう。

 日露戦争時も、第一次大戦、シベリア出兵当時も、発行禁止と逮捕を恐れず、身を賭して政府・軍部批判の論陣を張る言論人には、事欠かなかったはずですから。






「満州事変は、日本社会内の
〔…〕対立と対抗の存在を解消し、消去してしまう論調を作り上げた。

 『沸きたつ祖国愛の血 全日本にみなぎる!』とは、『東京朝日新聞』(1931年11月18日)の見出しである。同紙は、『吹雪の広野、砲弾下のざんごう〔塹壕〕に母国の生命線を死守する我派遣軍将士に対する国民の感激は日増しに著るしくなり』と煽情的に続け、慰問金が一日平均1500〜1600円、慰問袋は平均3万個に及んでいると報じた。

 このように満州事変以降に、人びとの感情は一挙に挙国的となった。これまでの批判的な発言は矛が収められ」
てしまう。
成田龍一『大正デモクラシー』,p.239.









 言うまでもなく、吉野の主張するデモクラシーにとって、自由な言論("言論の自由"とイコールではありません。"言論の自由"が保障されていようといまいと、それとは無関係に、"自由な言論"は、行なわれ、あるいは沈黙するのです)の存在は不可欠です。

 「自由豁達」な言論が行なわれていなければ、《国家の構成員》の共通意思は正しく集約されえず、為政者の無法を制限すべき《国家の意思》《国家精神》は、歪められたものとなってしまうでしょう。










 さらに、無産政党について言えば、2つの方向から軍部に接近する姿勢を見せてきたことが目立っています。


 ひとつは、無産政党が、軍に召集された労働者の生活保障、日給支払いを要求したことです。

 召集によって会社から解雇され、家族が困窮する例が多かったことから、それ自体は必要な運動だったのですが、……しかしよく考えてみると、問題は下級兵士の俸給が安すぎることにあるのであって、その尻ぬぐいを会社に押しつけて、出勤できない応召者に給料を支払わせる要求は、本来筋違いなのです。

 たしかに、無産政党も、“応召家族の生活を国家補償せよ”とのスローガンを掲げてはいましたが、“兵卒の給料は安すぎる”と軍に対して真正面から主張する勇気はなく、腰砕けでした。そして、要求しやすい“弱い者”に向かって、争議の圧力を向けていたのです。

 このような動きが大きくなると、無産政党が元来主張していた「帝国主義戦争反対」も影が薄くなります。薄くなるだけでなく、応召兵士を励まそうとする雰囲気の中で、戦争や軍部を批判する者は白眼視されることになります。


 さらに事態は、捻じれた方向に進みます。

 召集による解雇に反対して起こった争議に、陸軍が介入して会社側を批判すると、会社は折れて解雇を撤回し、勤務していない者に日給を支払う―――ということが起きます。無産政党は、軍の争議介入を歓迎し、他の争議にも介入してほしいと期待するようになります。

 こうなってしまっては、もう "戦争反対" などと言っていられません。軍部を批判するなどもってのほか、戦争に反対するやつは労働者の敵だ!‥という雰囲気が、無産政党を支配するようになります。

 選挙では、戦争反対を訴えた候補は落選し、党の方針に逆らって戦争を支持した候補が当選する状況でした。(『満州事変から日中戦争へ』,pp.121-122)

 そして、その結果、《満州事変》に対する無産政党の見解も変質して行きます:




「社会民衆党は、柳条湖事件の直後に現地視察団を派遣し、
〔ギトン注―――1931年〕11月には〔…〕軍部を支持する『満蒙問題に関する指令』を発表した。『支那軍閥』による『満蒙』の権益の侵害を『不当』とし、『日本国民大衆の生存権確保』を唱える。

 いまひとつの無産政党である全国労農大衆党は、
〔…〕党内の代議士に出兵容認のものがおり、党大会で出兵反対の決定には至らなかった。」
成田龍一『大正デモクラシー』,p.240.






 もうひとつは、さらに深刻な動きで、無産政党の中から「国民社会主義」を標榜する一派が成長して、軍部と結託する方向を見せてきたことでした。「国民社会主義」とは、ナチス・ドイツの「国家社会主義」と同じ言葉です。ドイツ語のナチオナールを「国民」と訳すか、「国家」と訳すかの違いにすぎず、ナチオナールの略称(の複数形)が「ナチス」です。つまり、ファシズムです。



「軍部の暴走に加え、赤松克麿一派による『国民社会主義』が台頭した。赤松らは現役の軍人たちと結びついて国家社会主義を実現させようとしていた。
〔…〕

 吉野は赤松一派の『国民社会主義』が現役軍人と結託する点に、ファッショ化の危険性を見出していたのである。」

田澤晴子『吉野作造』,pp.243-244.



 赤松克麿は、吉野作造の娘婿でしたが、吉野は、「民族と階級と戦争」で赤松を筆頭に挙げて「国民社会主義」一派を批判し、また、一派を除外した無産政党の合同を実現するために、あっせんの労をとっています。

 1932年、犬養首相が暗殺された軍部クーデター《5・15事件》の後で、赤松一派は「日本国家社会党」を結成し、残った無産政党各派は合同して、同年 7月、"反ファッショ"を掲げる単一無産政党「社会大衆党」を創設した(田澤,p.244)





 もちろん、《満州事変》を契機に軍部に接近する動きは、無産政党に限ったことではなく、政権を担当する既成政党では、もっと顕著でした。



「民政党内部では、軍部に接近するものが現れた。安達謙蔵内相や中野正剛らは、熊本第6師団長で陸軍の革新派
〔≒ファッショ派―――ギトン注〕である荒木貞夫に接近し、さらに政友会の一部をも巻き込み、『協力内閣』を策動した」
『大正デモクラシー』,p.240.








  
      張学良 国民革命軍一級上将






 
 さて、吉野の論文「民族と階級と戦争」は、伏字が多く、また、「満州事変についての吉野の批判は間接的なかたちに終始した婉曲な論旨の展開が目立つ」(松本『吉野作造』,p.332)ため、著者の真意を読み取るのに苦労します。

 しかし、松本三之介氏の解説を参照しながら、なんとか読み進めてみたいと思います。






 まず、この論文の前提として、著者が、《満州事変》をどう見ていたのか?‥、(日本の軍部と政府が宣伝していたように)中国側の鉄道爆破に対抗して起こされた軍事行動だと思っていたのか、それとも、鉄道爆破から始まってすべてが日本軍部の謀略であり "芝居" であることを見抜いていたのか?‥この点を考えておく必要があります。

 なぜなら、著者が、どちらの前提に立っているかによって、その行論の真意はまったく違ったものになると予想されるからです。



 吉野は、《満州事変》が関東軍
〔満州・関東州の守備を担当した日本陸軍の一部―――ギトン注〕の謀略であること………関東軍が、自分で線路を爆破したうえ、中国側(張学良軍)が日本の権益である鉄道を破壊したと主張して、それを口実に攻撃と占領を開始したということ………を、最初から見抜いていたようです。

 当時、吉野と協力して医療社会事業を行なっていた人が、第2次大戦後に回想して語っています↓:


「『柳条溝の鉄道爆破などといふのは、あれは作り事だ。軍が自分等の計画を強行するためにやつた芝居だよ。こんな事をやつてゐると、日本は今に満州はおろか、朝鮮も台湾までもなくしてしまうだらう』と吉野は賛育会役員会の席上で語った
〔…〕柳条溝事件が関東軍の陰謀であることを見抜いていたのである。」
田澤晴子『吉野作造』,p.243.



 元帝大教授で、政府部内や内務省、検事局などに多くの教え子がいる吉野作造は、あるいは、事件の真相を内密に聞いていたかもしれません。具体的に聞いていなかったとしても、張学良軍は全く抵抗しないのに日本軍だけが破竹の勢いで戦線を広げている状況
(それは、日本の軍事行動の侵略性・謀略性を際立たせるために、張と蒋介石が執った戦術でした)、また、3年前の"失敗した謀略"《張作霖爆殺事件》からの類推によって、軍のでっち上げだと見破るのは、難しいことではなかったでしょう。







 そこで、吉野は、《満州事変》は軍部の謀略だということを見抜いていた―――これを前提に、この論文を読んで行くと、「婉曲な論旨」の背後に見え隠れする吉野の真意は、↓次の点にあると考えられます:





「要するに吉野の基本的な考え方は、満蒙における日本の既得権益については、その発生原因の如何にかかわらず一旦これを中国に返還し、もし日本が生存上または国防上必要とするものがあれば、あらためて中国との円満な交渉を通して合意をうる手順をふむべきだということにあった。彼が、

 『要するに、支那と日本との将来の関係は在来の約定に基いて決めらるべきものでなく、主としては一旦白紙の状態に還りて別に新に両国の利害を省量し、純然たる理義の指示に遵つて決めらるべきであると云ふに帰する』(「支那の形勢」)

 と述べているのがそれである。

 ここで日中両国のあたらしい関係を規律すべき『理義』とは、
〔…〕まず日本側の問題として『一切の侵略方策を棄て完全に隣邦の自主権を尊重すべき』ことをみずからに課する真摯な姿勢が不可欠の前提とされる。」
松本三之介『吉野作造』,p.333.





 吉野が、このような認識に至ったのは、中国における国民革命の進展や、5・4運動などの民族主義的近代化運動の盛り上がりを目にして、それまでの "分裂した国""統一国家形成の能力に欠けた国民" という中国認識を改めたことが大きいと思います:



「中国の国家統一事業も完成間近にせまり状況も一変した今日、既得権を理由にこれ
〔日本が満州で握っている諸特権「特殊権益」―――ギトン注〕を手放さぬとするのは、両国の将来の親善関係を築くうえにもとるべき態度ではない、というのが吉野の考えであった。」
松本三之介『吉野作造』,p.332.








(7)状況と説得の論理








「内閣は、今回の軍事行動が自衛的なものであり、必要最小限のものであることを内外に明らかにすることによって、外からの批判を何とか避けようと努めた。
〔…〕国際連盟理事会の平和的解決を求める通告に対しても、政府は、〔…〕軍事行動が自衛的で限定的であることを強調した〔…〕

 しかし
〔…〕政府の説明と、実際に展開しつつある軍事行動との乖離は、誰の目にも明らかであった。〔…〕

 吉野の批評『民族と階級と戦争』は、政府が主張する自衛権の発動というたてまえと、拡大を続ける実際の軍事行動との間のこの違いを衝くかたちで、この事変のもつ帝国主義的侵略という本質を明らかにしようと試みたものであった。」

op.cit.,p.334.









「彼は述べている。

 自衛権の発動によって許容される軍事行動は、自国の重大な利益が不当に侵害された危急の事態に限られるのであって、

 その目的も侵害された利益の回復が中心でなければならない。」

a.a.O.



 つまり、吉野作造は、人と人との関係での "正当防衛" と同様のものとして、国家間の「自衛権」を考えています。

 もっとも、人と人との関係では、防衛行為が行き過ぎて、相手を必要以上に傷つけるならば、それは過剰防衛であって、相手の攻撃と同様に犯罪として処罰されることになります。これに対して、国家間の場合には、それほど厳格に、加害と防衛の均衡が求められるわけではありません。

「禍根を絶つことも場合によっては自衛権の圏内の事として許容され得んも、

 事実の認定に格別慎重の注意を加うべきは論を待たない。」(「民族と階級と戦争」)

 つまり、今回の関東軍のように、"鉄道が爆破された""加害があった"――ことを錦の御旗のようにして、どの程度までの防衛行動が許されるか、「禍根を絶つ」必要までも肯定される場合か、といった事実調査も行わないまま、電撃戦のように戦線を拡大してゆくことは、(たとえ発端の鉄道爆破が日本軍のでっち上げでなかったとしても)許されないと言うのです。




 この“許される防衛行為の限度”という視点は、戦後‥現在に至るまで、日本ではほとんど議論されてこなかった重要な論点ではないでしょうか?‥

 憲法が「自衛権」を認めているとした場合に、それがどのていどの規模の「防衛力」を許容しているかは、予想される「自衛権」行使の内容・規模によって制限されてくるはずです。しかし、「自衛権」を主張する側に、「防衛力」の規模をチェックする視点はありませんし(強ければ強いほど良い)、………批判する側も、なんとなく感情的に、現状の自衛隊の規模はもはや「防衛力」ではなく「戦力」だ‥等々言うだけで、許される「自衛権」行使の内容からする客観的考察を欠いていたと言えるでしょう。
















 ともかく、「自衛権の発動」として許容される軍事行動の範囲は、侵害された権利の回復を原則とするものであって、

 「繋争権益の確認とか将来の保証のための新義務の負担とか」(←これらは、平時に対等の立場で交渉するのなら問題はないが、「防衛行動」と称する軍事力で制圧しながら行なうのだから、不平等な内容をむりやり押し付けることになる)までも、「自衛権の発動」に含ませることはできない。


「現に我が国は他日の
〔今後の―――ギトン注〕撤兵交渉において、永年我の主張し彼〔中国―――ギトン注〕の否認し来りし諸権益の新たなる確認を要求、排日排貨〔日貨排斥。日本製品に対する不買運動―――ギトン注〕の将来における取締りにつき厳重なる義務を負担せしめ、更にまた条約一般尊重の再確認〔単なる国際法順守の確認ではなく、日本側が“約束・協定がある”と強弁している“権益”の尊重を中国側に約させる意味がある―――ギトン注〕を約せしめて、例えばかの二十一ヵ条問題の如き××〔脅迫〕を理由とする条約の一方的無効宣言を×××〔防ごう〕として居るとやら。〔…〕これを自衛権の発動の当然の要求とするはいささか××〔理屈〕に合わぬと考える。〔…〕

 それでも政府殊に××××××〔軍部の人達は〕今なお頻りに自衛権を以て一切の行動を説明せんとして居る。
〔…〕張学良の勢力を満洲から完全に駆逐し去るまでは軍事行動をやめないと宣言した。〔…〕即ち日本に好意を有たざる諸勢力を一掃し、×××〔満蒙に〕プロ・ジャパニース〔親日派―――ギトン注〕の×××××××××〔政権を樹立すること〕までを自衛権××〔当然〕の発動と見得るや否やは問題であろう。〔とうてい自衛権の発動とは言えない、と言うところを、あえて婉曲にぼかしている―――ギトン注〕

 ここまで行くと実は××××〔侵略行動〕になるのだ。」(「民族と階級と戦争」)


※ 文中の伏字の後の〔 〕は、岩波文庫の編集者が、伏字の内容を推定したものです。以下同じ。


 つまり、婉曲にカムフラージュされた論調を追ってゆくと、結局著者の言いたいことは、現に満州で関東軍が目標として掲げている「諸権益の確認」「親日派政権の樹立」などは、とうてい「自衛権」の範囲などではなく、《不戦条約》に違反する「侵略行動」そのものなのだ―――ということなのです。





 「二十一ヵ条問題」は、第一次大戦中の 1915年、日本が中華民国(袁世凱政権)に要求した「満蒙」を中心とする諸権益の譲渡ないし拡大、交戦国ドイツの持っていた諸権益を日本に移転する承認、中国の政治・軍事・財政・警察への日本人参入(明らかな内政干渉。かつて朝鮮に対して、この方式で植民地化を進めた)―――など、5号21ヵ条にわたる要求です。

 あまりにも広範な植民地的要求の列挙であるために、中国国内で反対の世論が盛り上がり、日貨排斥(日本製品ボイコット)運動が始まっただけでなく、英米も反対しました。しかし、日本は、第1次大戦で欧米諸国がヨーロッパ戦線に釘付けされている状況、また、対独交戦のため中国に進駐した日本軍のプレゼンスを背景に、袁世凱政権に最後通牒を突き付け、受諾させてしまいます。

 この「二十一ヵ条」は、中国国内での反日感情を一気に高め、抗日運動、日貨排斥運動の主要な標的として指弾されることになります。1919年の5・4運動も、中国政府内の親日派要人を批判するとともに、「二十一ヵ条」の取消を主要な要求項目として掲げています。(『大正デモクラシー』,pp.60-61,146)






  








 さて、次に吉野は、日本の広範すぎる「自衛権」主張の背景にあって、日本の軍人、政府要人から国民まで、広く信じ込まれている“「満蒙」は日本民族の「生存」に絶対必要な「生命線」だから、軍事行動は許される”という考え方を、取り上げています。




「たしかに民族生存の必要を論拠として出兵を是認し軍事行動を是認する風潮は、国民のあいだにも広がりつつあった。」

松本三之介『吉野作造』,p.335.



「即ち日本は極めて天恵に乏しい国である。満蒙の自然が埋蔵する宝庫によらずして日本民族の将来に活くべき途はない。満蒙は日本民族の生存そのもののために絶対に必要だというのである。
〔…〕

 正直なる国民の中には、今や自衛権などというを口にも出さず、民族生存の必要を論拠として出兵を是認し軍事行動を支持し、目的を達するためにはこの上の犠牲をも辞せずといきまく者がポツポツ現われて来て居るのである。

 そこで私は考える、表向き政府や軍部やは今なお満洲における軍事行動を自衛権で説明しようとして居るけれども、一般国民の方は知らず知らずの間に日本民族の生存上の絶対必要ということに目標を置換えて居ると。
〔…〕

 権益の実質がさほど大したものでなかったら、果して我々は兵力を動かしてまでその救済に急いだであろうか。
〔…〕大袈裟な軍事行動を執った点から観て、吾々はいわゆる権益の包む内容実質のいかに重大なるものなるかを想像せざるを得ない。」

 たとえば、
「撫順炭礦の露天掘りだけでも昨年は七百万噸を採取した。今のところいつ尽くるか先が見えないとか。」

 また、炭層の間の頁岩から重油を搾り取る技術が開発されると、日本の重油使用量の 300年分になる。

 鉄鉱石については、
「満洲における埋蔵量は無尽蔵であり、五百年で乏しきを感ずるか千年で無くなるか分からないといい、

 衣食住の原料」
になる農業生産物は、「現在の幼稚な経営の下に放任しても驚くべき生産高だとかいうわけで、

 要するに満洲に片足を踏み込んだ日本はちょうど宝の山に入ったようなものだというのである。
〔…〕満洲の重要性はますます加わるのだ。満洲の何らかの形式による獲得を以て日本民族生存上の絶対必要とするも故なきに非ずである。

 我々は昨今いろいろの人からこんな事を聞かされる、満洲に権益を張らなければ日本は亡びる、民族の生存繁栄のためには嫌が応でも満洲に確実な地歩を占めなければならぬと。国民は今やかく信じて出兵を承認した。
〔…〕満洲における軍事行動はこうした国民的信念を背景とし、その支持に恃みつつその要望に応じて進められつつありと観ねばなるまい。

 して見ると満洲における××××〔軍事行動〕の本質は×××××〔帝国主義的〕だと謂わねばならぬ。」(「民族と階級と戦争」)




 「満蒙の自然が埋蔵する宝庫によらずして日本民族の将来に活くべき途はない。」「満洲に片足を踏み込んだ日本はちょうど宝の山に入ったようなもの」「満洲の重要性はますます加わる」⇒「満洲の‥獲得を以て、日本民族生存上の絶対必要とするも、故なきに非ず」

 ↑このような行論から見ると、著者は必ずしも、満州が無尽蔵の資源の「宝庫」だとか「宝の山」だとか思っているわけではなく、ただ、そのように大ぶろしきを広げて宣伝する軍部、政府、そのエピゴーネンたちに吹き込まれて、国民がみな、このような途方もない話を信じてしまっている現状を述べているのだと思われます。

 そして、途方もない話を信じた国民の頭の中で、巨きな論理の擦り替えが起きます:

 「宝の山」だ ⇒ だから我々の生存に不可欠だ



 ほんとうは、

 「宝の山」だ ⇒ だから我々はどうしても欲しい

 と、慾に目がくらんで思念しているのに、その身勝手な欲望を強引に正当化するために、“民族の生存に不可欠”、「生存上の絶対必要」などと言い換えるのです。



 吉野作造は、《満州事変》を契機とする軍部の“侵略思想普及”キャンペーンに、国民各層がこぞって踊らされてゆく心理を、みごとに描き出していると言えます。















 こうして、吉野作造は、《満州事変》における日本の行動の本質は「侵略」であり「帝国主義」であることを明らかにするのですが、彼の議論はそこで終りではありません。

 なるほど、100年を経た現在の時点から見ている私たちは、歴史はそうだったのか‥ 昔の日本人はばかなことをしたものだ‥ と言えば済むことかもしれません。しかし、同時代に生きている吉野にとっては、それでは済まないのです。

 何とかして、《満州事変》以来振りまかれた間違った説を信じ、間違った方向へ走って行こうとしている国民を説得して、もとのまともな心境に戻させなければならない―――吉野は、そう考えたのだと思います。







 たしかに、当時の国民の間に広がっていた“「満蒙」は日本民族の生存に絶対必要”という「特殊権益」論は、現代の私たちには、非常にばかげた議論に感じられます。

 よりによって、満州だとか蒙古だとか、こんな寒い僻地にどうして固執するのかわからない。同じ中国でも、もっと暖かい所があるではないか。鉱山も炭田も、満州にだけあるわけではない。もちろん、華中、華南には、すでに他の外国の勢力が入ってしまっているが、英米仏は、日本のように軍事力で排他的に権益を独占しようとは、必ずしもしていない。開発技術力も、製品の質も、商売のしかたも、欧米のほうが数枚上手だとしても、日中国民間の友好親善をベースに、自由競争で参入して行けば、多少のおこぼれはあるはずだ。

 そもそも、すでに植民地にした朝鮮の統治さえ、まともにできていないのに、このうえ満州にまで暴力的に勢力を広げて、どうしようと言うのか?‥“敵”を増やすだけではないか?



 じつは、吉野作造も、100年前の当時、私たちとほとんど同じことを感じていたようなのです。同じころ書いた他の論考では、ざっと↑ここに書いたようなことを、将来の日中関係の展望として書いています。







 しかし、この《満州事変》後の時点では、国民の間に広がってしまった“「満蒙」生存不可欠”論、“満蒙特殊権益”論は、容易に否定できないほど信仰化してしまっていると感じたのでしょう、吉野は、つぎのような説得の論理を組み立てます:

 “「満蒙」は日本民族の生存に絶対必要”という考えを、あえて肯定し、百歩譲って相手の論理に立ちながら、そのような理由での軍事行動は、果して本当に正当化しうるのか?‥国際法上どう言いつくろうか、という問題を越えて、心底道義的に正当だと信じることができるのか?―――と問うのです。



 単に“日本民族の生存に必要だから”と言うだけでは、国際法上正当化根拠となりえないだけでなく、道義においても正当化されないでしょう。なぜなら、満州には、満州の住民がおり、また、中国という他国が、そこを領土の一部としているからです(ちなみに、住民の圧倒的多数は中国人です)。

 “なんら正当の理由なく他国の領土に侵入し占領した。つまり侵略だ。”との非難に対して、“そこに欲しいものがあるからだ。わが生存に必要だからだ。”と言っても、道義上満足できる答えとはなりえません。


 吉野は、この道義を、

「私共は子供の時から渇しても盗泉の水を飲むなと教えられて来た。」

 と表現しています。




 それでは、何とか他に正当化できる理屈はないかと考えてみます。

 ここで、吉野が俎上に乗せるのは、"土地均分"を国際間で行なうという・“国民社会主義”者の一部が唱えている途方もないプランですが、これも、説得のための思考実験です。このようなプランに正当性や実現可能性があると考えているわけではないでしょう。





「曰く、国内における搾取関係を廃絶して国民一般の生活水準を平均せしむべきが如く、国際関係に在っても土地及び資源に対する平等の獲得を要求するは正当の権利であると。
〔…〕日本の如く土地も狭く資源に恵まれずその上人口の極めて夥多なる民族は、この権利を許されずしてどうして活きて行けるか。満蒙の如き西伯利(シベリア)の如き将た濠洲の如き人口に比して過分に広大な地積と資源とを擁してしかも門戸開放に肯じない態度には、少なくとも徳義上の根拠がない。

 故に一片の理論としては、土地及び資源の国際的均分を原則としこれに基づいて占有の過不及を整理せんとする考えは正しいと思う、
〔…〕

 そこに民族生存上の絶対必要というに基づく帝国主義的進出のいちおう納得せらるべき理由が存するわけだ。日本がこれ程困って居るのに嫌だというのは支那の没義道だ、

 とはいえ支那は予期しない××〔犠牲〕を払わせられるのである、人情として実は出したくはない、出さねばならぬとしても成るだけ少額で済ましたい、これに対して日本の方は少しでも余分に××〔取り〕たいと来る。
〔…〕

 かかる問題が強弱の勢いを異にする間に起ると紛糾が一層大きくなる。力の強い国が動もすれば強いに任せて適当の圧迫を対手国に加えるからである。さすると必要の度を超えた××××〔軍事行動〕になる。帝国主義的進出も××××〔軍事行動〕の色彩を濃厚にすると今日の時勢においても公認を得難きは言を待たない。」

(「民族と階級と戦争」)



 つまり、一片の理論としては興味深いかもしれないが、じっさいに実行するのは不可能と言わざるを得ない。国家間の合意で任意に話がまとまるとは思えないし、だからといって強権を発動すれば、それはまさに帝国主義的侵略そのものである。

 「一片の理論としては、‥正しいと思う」と書いているのは、あくまでも議論の過程での譲歩に過ぎず、吉野は、この“国際間の土地均分”という国家社会主義者の理屈に賛成しているわけではないと、ギトンは考えます。

 むしろ、このようなファシズムの理屈は、一見もっともらしいことを言いながら、その実は、資源の略取を目的とした軍事侵略を、正当化するために主張しているにすぎないのです。吉野の本意は、それを言いたかったのだと思います。




 ただ、吉野が「理論としては、‥正しいと思う」と相手に譲歩しているのは、このような議論も、頭から否定するべきではなく、異なる立場の間で議論することによって、自らの理論的立場を反省することができ、相互に益するところがあると考えているからだと思います。つまり、共産主義であろうと無政府主義であろうと国家社会主義であろうと、“自由な言論”として唱えられる以上は、公の土俵に迎えてよい、それこそがデモクラシーであると、吉野は考えていたのです。






    









 ただ、赤松克麿の国家社会主義活動に対して、吉野作造がどうしても許容できないと考えたのは、その思想のゆえではなく、現役軍人と結託して政治のファッショ化(クーデター、軍部内閣、代議制廃止など)を企てているからなのでした:






「国民社会党に参加するつもりの赤松克麿弟に対し、『予はその主義に文句があるのではない 現役軍人と結託するといふ事実に危険を感ずるのだ』と指摘した(『吉野日記』1932年3月13日)。吉野は赤松一派の『国民社会主義』が現役軍人と結託する点に、ファッショ化の危険性を見出していたのである。」

田澤晴子『吉野作造』,p.244.






 ここには、“民主主義を暴力で破壊しようとする者にも、民主主義的言論を許し、かれらの野望の実現に手を貸してよいのか?”というたいへんむずかしい問題が横たわっています。

 それは、吉野の死から 80年たった今日も、なお未解決の難問なのです。










ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 日本近現代史

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