03/28の日記

03:41
100年たってようやく‥(18)

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こんばんは。。






『銀河鉄道の夜』は、きのうの話でおしまいにする予定だったのですが、しばらく時間がたったら“その先”の構想が沸いてしまいました。。。:







カムパネルラがいなくなったあとで、ジョバンニの前に輝く「マジェランの星雲」とは何でしょうか?




“マゼラン星雲”は、南半球で見える大・小の近銀河系で、つまり銀河系(天の川)の近くにある別の2箇の銀河系です。


もちろん日本からも、この童話の舞台設定と思われるイタリアからも見えません。つまり、“銀河の旅”によって、港町のスラムにうごめいていたジョバンニの“弱者”の視野は、決定的に拡大されたことになります。




〔初期形三〕では、“カムパネルラの失踪”と、この“マジェランの星雲”発見との間に、「黒い帽子」の学者によるお説教が挿まれていて‥、

つまり、ジョバンニの「弱者の認識」は、科学によって、認識の主体たる地位を奪い取られてしまいます。お説教のおかげで見せていただいた‥というわけです。



しかし、もともと〔初期形一,二〕では、「黒い帽子」の学者は登場していなかったのです!






〔最終形〕では、「黒い帽子」の学者のお説教といっしょに、“マジェランの星雲”もカットされています。


しかし、この変更は、多分に『校本全集』編集者の意向が働いています。というのは、このあたりになると、作者宮沢賢治の改稿指示が曖昧で、どこからどこまでが削除されるべきなのか、解釈の余地があるのです。



いま〔最終形〕とされているのは、筑摩書房版のテキストで、新潮文庫(⇒銀河鉄道の夜・新潮文庫版)も、これに従っています。

しかし、岩波文庫(⇒銀河鉄道の夜・岩波文庫版)と角川文庫(⇒銀河鉄道の夜・角川文庫版)のテキストでは、「黒い帽子」も「マジェランの星雲」もそのまま残っています。つまり、「黒い帽子」とブルカニロ博士が登場した上に、カムパネルラの父の「博士」も登場するという・〔初期形三〕と〔最終形〕を重複させたような欲張ったテキストになっているのです。



このように、出版社によって別様のテキストが流布されることになってしまったのは、作者が最終的な推敲をし終らないうちに亡くなってしまったからだと思われます。

そこで、ストーリーから矛盾をなくす方針で作者の推敲を徹底化したのが筑摩書房と新潮社、変更を最小限にとどめたのが角川文庫だと思います。(岩波文庫は、こうした作者の草稿の状態が正確に調査される前の・関係原稿を適当に繋げてとにかく全部ぶちこんだ総花的テキストのまま。)






しかし、そうだとすれば、筑摩でも新潮でも角川でもないテキストを、宮沢賢治がもう少し長く生きていたらまとめたであろう最終形として編集することも許されるはずです。


「黒い帽子」とブルカニロ博士の削除は、〔最終形〕の作者の意向に沿うとしても、「マジェランの星雲」は、「黒い帽子」が導入される前からあった部分ですから、削らなくてもよいのではないかと思われます。




そこで、“ギトン流最終形”のマジェラン星雲の部分を組み立ててみますと、↓つぎのようになります(一部は〔初期形二〕から復活しています):





「『けれどもほんたうのさいはひは一体何だらう。』ジョバンニが云ひました。『僕わからない。』カムパネルラがぼんやり云ひました。

    〔…〕

 『カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。』ジョバンニが斯う云ひながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。

 そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ、汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。『あゝマジエランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。』ジヨバンニは唇を噛んで、そのマジエランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために!

 天の川を数知れない氷がうつくしい燐光をはなちながらお互ぶっつかり合ってまるで花火のやうにパチパチ云ひながら流れて来向ふには大犬座のまばゆい三角標がかゞやきました。


 ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむってゐたのでした。胸は何だかおかしく熱り頬にはつめたい涙がながれてゐました。

 ジョバンニはばねのようにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯を綴ってはゐましたがその光はなんだかさっきよりは熟したといふ風でした。そしてたったいま夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかりまっ黒な南の地平線の上では殊にけむったやうになってその右には蠍座の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変ってもいないやうでした。

 ジョバンニは一さんに丘を走って下りました。まだ夕ごはんをたべないで待ってゐるお母さんのことが胸いっぱいに思ひだされたのです。〔…〕」









ギトンは、↑このほうがよいように思います。というのは、ここではじめてジョバンニは、「弱者の認識」を自分のものとして獲得することを許されているからです☆。「ほんたうの幸福をさがすぞ」という決意も、「黒い帽子」に教えられたものとしてではなく、カムパネルラとの最後の会話をひきついだジョバンニ自身の決意として述べられています。


☆(注) しかし、それと対照的に、カムパネルラのほうは、「弱者の認識」が、どうしても分からないのです。彼は、サソリの“自己犠牲”の説話を聞いて涙を流すのですが、“自己犠牲”は「弱者の認識」とは相容れないものだと思います。(これは重要な点です。神風特攻兵に愛された“聖人”とは別の宮沢賢治が、〔最終形〕には居ます。)“自己犠牲”に涙を流したカムパネルラは、「弱者の認識」を語りだしたジョバンニに、「『僕わからない。』‥ぼんやり云ひました。」もうジョバンニの言うことが解らないから、カムパネルラは「ぼんやり」となってしまうのです。







そして、ジョバンニが「弱者の認識」をわがものとしたその結果として、

下界に下りて来たジョバンニの前に、意地の悪い「牛乳屋」は親切な「牧場」に変り、

カムパネルラの仲間のマルソがジョバンニに親しく話しかけ、

カムパネルラの父は、「ジョバンニさん。あした放課後みなさんとうちへ遊びに来てくださいね。」と言い、ジョバンニの父もまもなく帰ってくると言う。

つまり、ジョバンニはもはや“孤独な少年”ではなくなっているかのようです。


ただ、肝心のカムパネルラだけが、「もうあの銀河のはずれにしかいないというような」状態で、失踪しているのです‥!





現在は紛失していますが、↓つぎのような挿入場所不明の追加原稿1枚が、用紙全体に×印を記されて草稿の束の中にあったといわれます:



「けれどもまたその中にジヨバンニの目には涙が一杯になつて來ました。

 街燈や飾り窓や色々のあかりがぼんやりと夢のやうに見えるだけになつて、いつたいじぶんがどこを走つてゐるのか、どこへ行くのかすらわからなくなつて走り續けました。

 そしていつかひとりでにさつきの牧場のうしろを通つて、また丘の頂に來て天氣輪の柱や天の川をうるんだ目でぼんやり見つめながら坐つてしまひました。

 汽車の音が遠くからきこえて來て、だんだん高くなりまた低くなつて行きました。

 その音をきいてゐるうちに、汽車と同じ調子のセロのやうな聲でたれかが歌つてゐるやうな氣持ちがしてきました。

 それはなつかしい星めぐりの歌を、くりかへしくりかへし歌つてゐるにちがひありませんでした。

 ジヨバンニはそれにうつとりきゝ入つてをりました。」





↑これは、〔最終形〕の終結部として書かれ、その後破棄された下書きと考えることもできそうです。



つまり、「ほんたうの幸福をさがすぞ」という決意を抱いて帰って来たジョバンニは、もはや以前のような“孤独な少年”ではないのですが、だからといって、カムパネルラのいない世界で何ができるでしょうか?

ジョバンニは、もう一度あの“星めぐり”の世界へ、カムパネルラを探しに行きたいという気持ちになっているのです。。。







そういうわけで、さいごにひとこと:



おいジョバンニ、カムパネルラをさがしに行かう!!




そうです。。。

 「みんながカムパネルラだ」なんてゴマカシのお弁ちゃら抜かす黒帽子は、石炭袋に放り込んでやりませうw

 カムパネルラはひとりしかいない!






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カテゴリ: 宮沢賢治

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