07/31の日記

18:25
【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(9)

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 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(8)からのつづきです。


  マルクス/エンゲルスの共著『ドイツ・イデオロギー』は、編集中途の草稿の状態で遺された未完成の著作です。内容的に未完成で、さまざまに矛盾する主張を含んでいますが、それこそがこの作品の魅力でもあります。また、内容だけでなく、形式面でも大きな混沌をはらんだテクストであるため、字句はもちろん篇別構成・断片の順序に至るまで、編集者の介入を必要としており、版本によって相異があります。ここでは、廣松渉・編訳,小林昌人・補訳『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,2002,岩波文庫. をテクストとして使用します。

 上記岩波文庫版からの引用中、青字はマルクスの筆跡、それ以外(白字)はエンゲルスの筆跡。草稿の抹消箇所は下線付きで、追記・挿入は斜体で示します。



「エンゲルスの筆跡エンゲマルクスの筆跡ルスの筆跡」



「人間を動物から区別するのは、生産するみたいな感じでことによってである。」



「人間が自らを動物から区別するのは、道具を用いて生産することによってである。」



 この「ノート」は、著作の内容を要約することも、著者らの思想を伝えることも目的としていません。あくまでも、私個人の思索のための抄録と、必ずしもテクストにとらわれないコメントを残すためのものです。






 【24】「本論三2」――「人格的個人」と“生活/労働する個人”の乖離




「人格的個人と階級的個人との乖離、個人にとっての生活条件の偶然性は、それ自体ブルジョアジーが創り出したものである階級の登場とともに、初めて現れる。諸個人の間の競争や抗争が、初めて、こういう偶然性そのものを生み出し、展開する。こうして、ブルジョアジーの支配体制の下にある諸個人は、表象の中では以前よりもいっそう自由である――彼らにとっては自分たちの生活諸条件が偶然的なのだから。現実の中では、彼らは、もちろんいっそう不自由である――物象的な強制力の下にますます服属させられているのだから。身分との違いは、とりわけ、ブルジョアジーとプロレタリアートの対立において鮮明になる。

 都市の市民身分や種々の同職組合等が土地貴族に対抗して台頭した時には、彼らの生存条件、つまり動産と手工業労働
〔…〕が、封建的土地所有に対抗して権利が主張される肯定的なあるものとして現われ、そしてそれゆえにまた、最初の時点ではそれはそれなりに封建的な形態をとったのであった。

 逃散農奴になるとさすがに彼らは、それまでの自分たちの農奴身分を自己の人格にとって何か偶然的なものとして扱った。とはいえ、この点で彼らが行なったことは、桎梏から自己を解放しようとするどの階級もがそうするのと同じことでしかなく、しかもその際、彼らは階級としてではなく個々ばらばらに自己を解放したのである。そのうえ、彼らは身分制度の枠組みを踏み越えたわけではなく、ただ新たな一身分を成したにすぎない。
〔…〕――

 これに対して、プロレタリアたちの場合には、彼ら自身の生活条件である労働が、またそれとともに、今日の社会の生存諸条件の総体が、彼らにとっては何か偶然的なものになってしまっており、それに対して個々のプロレタリアは何らこれを制御するすべをもたないし、またいかなる社会的組織をもってしても、彼らにはこれを制御することができない。個々のプロレタリアの人格と、彼の――彼に押し付けられた――生活条件つまり労働との間の矛盾は、ここでは彼自身にとって顕著なものとなる。というわけは、とりわけ、プロレタリアはもう少年のうちから犠牲にされているからであり、自分の階級の中にいる限り、彼が別の階級に加えてもらえるような条件に恵まれる見込みもないからである。」

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.176-179.



 逃散農奴――「ただ新たな一身分を成したにすぎない」は、どんなことを指して言っているのか不明。

 「偶然性」がキーワードになっているようだ。













「注意。次のことを忘れてはならない。農奴たちを生かしておく必要があること。そして農業の大経営が不可能なこと――この不可能性とあいまって農奴たちへの割当地の配分がなされた――、これらの事情からしても、封建領主に対する農奴たちの諸義務を標準レベルの現物貢納と賦役まで引き下げるのに、ほとんど時間はかからなかった。この標準レベルは農奴に動産の蓄積を可能にさせ、それによって農奴が領主の領地から逃げ出すのを容易にし、彼に都市市民としてやっていく展望を与えたが、同時にまた、農奴たちの間の格差をも生み出した。ということは、農奴の中でも逃散する者はすでに半ば市民
〔ブルジョワ――ギトン註〕だということになる。この場合、手仕事に長けた農奴的農民が動産を手に入れる機会を最も多くもっていたということも、また明らかである。――――――

 ――――――

 こうして、逃散農奴たちは、すでにそこにあった彼らの生存諸条件を自由に発展させてそれをひとかどのものにしようとしたにすぎず、それゆえに結局のところ、自由労働にありついたにすぎない。

 これに対してプロレタリアたちは、人格的にひとかどの者として認められるためには、彼ら自身のこれまでの生存条件――これは同時にこれまでの社会全体の生存条件でもある――を、つまり労働を、廃止しなければならない。したがって、プロレタリアたちは、社会の諸個人がこれまで自分たちの連〔関〕全体的表現としてきた形態、すなわち国家に対してもまた、直接対立する立場に立っているのであり、彼らの人格的在り方を全うするためには、国家を打倒しなければならない。」

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.179-180.



 農奴⇒分割地農民⇒土地集積⇒富農 という道すじではなく、農奴⇒動産蓄積⇒逃散⇒都市下層民からツンフト外手工業者へ上昇 という道すじを考えているようだ。

 しかし、それは一つの示唆を与える。「逃散」というと、食いつぶして逃げて行くイメージがあるが、前近代の逃散は、そうではなく、荘園の庇護から脱しても(z.B.遊行民、非農業民)やっていけるようになったから、逃散するのではないか?

 「逃散農奴たちは、すでにそこにあった彼らの生存諸条件を自由に発展させてそれをひとかどのものにしようとした」――これが重要。歴史の考察は「現実的諸個人から出発する」と言っても、その「現実的諸個人」は、発展法則を意識してアンガジェするわけではない。自分の生活を向上させようとして、「すでにそこにあった……条件」を「ひとかどのもの」に仕上げようとしているにすぎないのだ。それ以上でも以下でもない・このことがだいじだ。

 「自由労働にありついた」――身分的従属(庇護)のもとでの労働ではなく、“自営者”としての労働。「日雇い」もそれに含まれる。



〔…〕これまでの歴史の各時代にあって自己を解放した諸個人は、すでにそこにあった、つまり彼らに与えられている生存諸条件を引き続き発展させたにすぎない。ある階級の諸個人が入り込んだ、そして第三者に対する彼らの共同的利害に条件づけられていた共同社会的な関係は、いつでも、これらの諸個人がただ平均的な諸個人としてのみ、しかも彼らがただ自己の階級の生存諸条件のなかで生きていた限りでのみ所属した共同社会でしかなく、彼らが諸個人としてではなしに階級の一員として参入した一関係であった。

 これに対して、自分たちばかりか社会の全成員の生存諸条件を自己の制御下に置くに至った革命的プロレタリアたちの共同社会の場合は、まさに正反対であって、諸個人は諸個人としてそこに参加する。これこそがまさに諸個人の結合(もちろん、現在までに発展してきた生産諸力を前提とする範囲内での)に他ならない。それは、諸個人の自由な発展と自由な運動との諸条件を彼らの制御の下に置く結合である。

 従来は、これらの諸条件は偶然に委ねられていて、個々の諸個人に対して自立化した。自立化が生じたのは、彼らが諸個人としては分離していたというまさにそのことによって、そして彼らの必然的な――分業に伴って不可欠なものとな
〔…〕った――結合によってである。従来の結合は、このような自立化した諸条件の上に乗った結合〔…〕(『社会契約論』で述べられているような――結合などでは決してなく、必然的な結合)でしかなく――例えば北アメリカの国家の形成や南アメリカの諸共和国を参照――、そこで諸個人はこういう諸条件の枠内で偶然性を堪能したのだった。一定の諸条件の枠内で邪魔されることなく偶然性を楽しんでよろしい、というこの権利を、人はこれまで政治的人格的自由と呼んできた。――この一定の生存諸条件とは、いうまでもなく、その時々の生産諸力と交通諸形態に他ならない。――――――」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.181-182.






 






 「従来は」以下の叙述――「北アメリカの国家の形成や南アメリカの諸共和国」の例で考えると、わかりやすいようだ。そこでは人々は、ルソーの「社会契約」のように“自由に”結合し合うかのように思いなして結合するが、じっさいにはそれは、「必然的な結合でしかな」い。「自立化した諸条件の上に乗った結合」でしかないのだ、という。“自由な”アメリカ開拓民の立場は、「逃散農奴」に似ている。

 しかし、エンゲルスらは、植民地という条件が眼に入らないようだ。先住民に対する土地占奪、破壊と大量殺戮、先住民の抵抗に対する制圧と防備、これらのことがなければ、植民者の社会秩序も自治的行政も意味を失う。北アメリカも中南米諸国も、イギリス、スペインの植民地統治機構がそのまま自立化することによって独立国となった(アンダーソン)。意識形態としては「ネーション」がキーワードになる。

 古代ギリシャ、イオニアでも、北アメリカでも、“自由”は、先住民に対する抑圧の裏面なのだ。たしかに、植民者の間では、相互間の支配・従属は生じにくい。支配されそうになったら、別の土地へ移って、新たな先住民を収奪すればよいからだ。つねにフロンティアは拡がっているので、新たに参入した者にも、収奪の富をもれなく頒け与えることができる。

 先住民を奴隷にして搾取するのではなく、先住民を追い出して(または皆殺しにして)、土地を奪い、みずから“開拓”する場合でも、植民者は、手つかずの《自然》に立ち向かうのではない。狩猟民であろうと、原始的牧畜であろうと、人間の集団が住んでいるというだけで、その土地の《自然》は飼い馴らされているのだ。植民者たちは、先住民が飼い馴らし再生産してきた土地、先住民がみずから一体化して生活してきた《富》としての《自然》を奪い盗ったのだ。

 しかし、アメリカ人が先住民を奴隷にしなかったのは、なぜか? “奴隷制が成立するには、それだけの生産力の高まりが必要だ”とマルクス主義者は言うが、アメリカの植民者は、黒人をアフリカから拉致してきてまで奴隷化している。“生産力”は十分にあったはずだ。

 奴隷制の成立には、被支配者側の条件が大きいようだ。被支配者が奴隷という制度を理解しない場合――《物象化》を受け入れない場合――、彼らは、隷従ではなく死を選ぶ。「自由か、死か」は、白人が言えば大ウソの自己欺瞞でしかないが、先住民にとっては、ぎりぎりの選択だったのだ。

 加えて、先住民は、彼らの《大地》から引き離されては生きていけない。植民者によって森がことごとく破壊され――彼らはそれを“開拓”と呼ぶ――、牧場の柵とカウボーイの銃で囲い込まれた土地は、もう先住民の《大地》ではないのだ。

 サーガ時代のアイスランドのような場合は、どうか? スカンジナヴィアから渡って来たのは逃散農奴であり、島に先住民は、いなかったのだろう。植民者たちは、“自由”であるだけでなく、相互に殺しあいをする。まるで、殺戮の対象になる先住民がいなければ、自分たちの間で殺しあうほかはない、と言うように。その動因は、アメリカ人が、奴隷化しない先住民を皆殺しにしたのと同じだろう。逃散農奴は、再び隷従化することを肯んじないのだ。

 『カレワラ』に現われたフィンランドの状況、また、ニヴヒ民話に現れたサハリン・アイヌとの相互殺戮も、同様のことではないか? 『カレワラ』のクレルヴォは、主人を破壊して奴隷の境遇から脱出し、また、敵対的な集落を皆殺しにする。奴隷制が定着しない状況が、伝説として昇華している。



「共産主義が従来のあらゆる運動と異なる点は、それが従来のあらゆる生産諸関係・交通諸関係の基礎を転覆するところにあり、そして自然発生的なものとして前提になっていたあらゆるものをそれまでの人間たちによって創出されたものとして、初めて意識的に取り扱い、諸前提にまといついていた自然発生性の衣を剥ぎ取って、それらを結合した諸個人の威力に従わせるところにある。それゆえに、共産主義の編成は本質的にいって経済的なもの、つまりこの結合の諸条件の物質的な確立であり、現前する諸条件をもって結合の諸条件とするものである。

 共産主義が創出する存立体は、諸個人から独立して存立するいっさいのものを
〔…〕不可能にしてしまう、まさに現実的な土台なのである。それゆえ、共産主義者たちは従来の生産と交通によって生み出された諸条件を、〔…〕非有機的な諸条件として取り扱う。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.182-183.



 「非有機的な諸条件として取り扱う」――意識的な制御の対象とする、という意味か?

 資本主義のもとでの“市民社会”では、諸個人は、「社会的分業――協働・交通――の編制」の網の目にとらえられており(『廣松渉著作集』,第11巻:「『ドイツ・イデオロギー』の国家論」,p.368)、国家をも含む「有機的 organische」統一体のなかにある。国家は個人に対して(真実は国家の共同体成員でない・支配階級以外の個人に対しても)、幻想的共同体として立ち現われる。しかし、共産主義社会では、「社会的分業」の諸条件は、「非有機的な unorganische 諸条件」として、「結合した諸個人の威力」のもとに従う。そこで、共産主義者は、「従来の生産と交通によって生み出された諸条件」――国家を含む――を「非有機的な諸条件として取り扱う」というのであろう。(ヘスとは、「有機的」「非有機的」の意味が逆になっている)


 共産主義に関する・このクダリは、モーゼス・ヘスの教説そのもので、「即自的」→「自然発生的」,「組織されていない」→「非有機的」など、用語は入れ換えているものの、内容的にはヘスを一歩も出ていない。当時のマルクス/エンゲルスは、フォイエルバッハの亜流と言われたヘスのそのまた亜流であった。

 共産主義社会は、「従来のあらゆる生産諸関係・交通諸関係の基礎……自然発生的なものとして前提になっていたあらゆるものを……意識的に取り扱い、……それらを結合した諸個人の威力に従わせる」と言うが、「あらゆる生産諸関係・交通諸関係」を「結合した諸個人の威力に従わせる」などということが可能なのか? 「従わせる」方法が示されていない以上、可能とも不可能とも、議論するだけ空虚だが、少なくとも、「結合した諸個人の威力」を体現していると自認する「国家」が、それを行なうことは不可能である。なぜなら人間には自由意志があり、大数的には利益をもとめて行動するからだ。国家が生産と分配を計画し決定しても、「人民」は形式的にそれに従うだけで、国家の計画通りには行動しない。私利を図ることのできる立場にある者は、機会を逃さない。市場の“必然性”が支配しない分だけ、役職者の恣意は野放しになる。イデオロギーが支配する分だけ、不合理な大衆的誹謗と魔女狩りが横行する。かくて、専横のみが支配し、“自由”は窒息する。(「スターリン批判」のように、原因を指導者に帰するのは、問題の悪質な・すり替えである。原因は、システムそのもの、「人民」自身にある。)

 いかにして、「結合した諸個人の威力に従わせる」ことが可能なのか? 結果的にそれを可能にする仕組み――マルクスは、農業共同体はそれをなしえていたと考えた――が考究されなければならない。しかし、「マルク協同体」は、あくまでも法制史学者による構成なのだ。ほんとうに、そのような実態があったのかどうかは、保証されない。仕組みをどんなに“科学的に”考えても、それを国家が実行するのであれば、「社会主義」国家の轍を繰り返すだけだろう。仕組みは、実践によって、つまり試行錯誤によって試されていかねばならない。

 そもそも、「威力に従わせる」というやり方以外にないのか? 「威力に従わせる」とは、「《自然》を支配する」のと同じやり方ではないか? 諸個人と「生産」「交通」の生み出した諸条件との“関係をコントロールする”ことはできないか?












 モーゼス・ヘスは、
「次のように論じている。

 ――人間の協働が即自的に保たれているにすぎない
〔マルクス/エンゲルスの用語でいえば、それが自然発生的であるような――ギトン註〕旧来の社会、組織化されていない unorganisierte〔同じく、非有機的な unorganische ――ギトン註〕社会では、人間の自己活動協働疎外され、協働が諸個人に対して外的な力として現われる。この『人間の相互的疎外のもとでは、人々は統一するもの das Vereinende を非人間的・超人間的なもの Wesen のうちに求めざるをえなかった』(Moses Hess: Philosophische und sozialistische Schriften, hrsg. von A. Cornu und W. Mönke, S.347)が、それには一定の歴史的必然性があった。けだし、旧来の社会においては、人々に活動(労働)を迫るさまざまな外的強制がはたらき、また協働を即自的に保証する媒介として貨幣、財産が存在するというように――協働疎外された形態!――"理性の狡智"ではないが『疎外された力』によってはじめて社会の存立が保たれえたからである。今やしかし『疎外の期間を通じて人間の生産力が高められ』(ibid., S.347)疎外を止揚して『直接的な交通』が可能となる客観的な条件が成熟した。『近代産業のおかげで……人間社会を組織化するための素材・内容はすでに獲得されているのだから、……形式上の障碍を除去しさえすればよい。……もはや新しき内容〔生産力と読め!――廣松〕に照応せざるがゆえに倒壊に瀕している旧い形式〔生産関係と読め!――廣松〕から新しい内容が立ち出で自己に適った形式を創り出すであろう』(ibid., S.277)。――ここにみられるヘスの思想的水準は『ドイツ・イデオロギー』の旧層のそれにほぼ近いということができよう――。ヘスはこのような水準において疎外をはじめ一連の問題を論じ、共産主義を説いたのであった。」
『廣松渉著作集』,1997,岩波書店,第8巻,「初期マルクス像の批判的再構成」,pp.325-326.



 廣松氏の指示に従って「生産力」「生産関係」と読むべきではない。それでは「マルクス主義」になってしまう。われわれは『ドイツ・イデオロギー』に従って、「分業」「交通形態」と読むべきである。

 廣松氏も指摘しているように、『ドイツ・イデオロギー』の議論は、ヘスの社会理論・共産主義理論の枠内にある。

 それにしても、ヘスの、なんと鮮明な論理であることか! マルクス/エンゲルスよりずっと分かりやすい。少なくとも、ヘスには、マルクス/エンゲルスのような“ごまかし”がない。あいまいな部分は、あいまいなまま呈示している。






 【25】断章――モーゼス・ヘス




「モーゼス・ヘスは
〔…〕ヘーゲル歴史哲学を換骨して共産主義を立てたということができる。

 周知の通り、ヘーゲルの歴史哲学は、歴史を『自由の実現していく過程』として把え、専制君主ただ一人が自由な東洋、若干の者が自由の主体となるギリシャ・ローマを経て、ゲルマン系の諸国民において自由が完現することを説く。
〔…〕自由実現の行程は『世界理性の狡智』に俟っており、自由の完現にしても、結局のところ理想化されたゲルマン・プロシャ的国家に託される。

 これを批判的に継承して、自由実現の行為を現実の人間の業となし、かつは自由の現実態をゲルマン国家に代えてフーリエの社会主義的未来像に託したチェスコウスキー〔A. von Cieszkowski〕を承けて、ヘスは更に一歩を推し進めたのでのであった。

 ヘスは、ヘーゲル派と合流する以前から独自の歴史哲学を立て、人類史の最初の段階に財産の共有制を基盤にして無意識的に存立していた自由・平等・調和を――これがその後、歴史的・必然的に崩壊したあとをうけて――今度は意識的な人間の活動によって回復していく過程として歴史の行程を詳細に描いていたが(『人類の聖史』Die heilige Geschichte der Menschheit, 1837)、41年からは早くも歴史の『土台』に着目しはじめた。古代の奴隷は当時の物質的生産の状態によって規定されていたことを指摘したり、ブルジョア社会の二極分解を指摘するというように、彼は人類の発展を社会史的に制約されたものとして把え、ヨーロッパの政治・社会史から社会主義を基礎づけようと試みる(Die europäische Triarchie, 1841)。」

『廣松渉著作集』,1997,岩波書店,第8巻,「初期マルクス像の批判的再構成」,pp.323-324.



 フーリエ→チェスコフスキ→ヘス‥という系譜。

 「人類の発展を社会史的に制約されたものとして把え」――ヘスのとらえかたは、もちろん決定論ではない。たとえば、前節に引用した部分から、「旧来の社会、組織化されていない社会では、人間の自己活動協働が疎外され、協働が諸個人に対して外的な力として現われる。……それには一定の歴史的必然性があった。けだし、旧来の社会においては、人々に活動(労働)を迫るさまざまな外的強制がはたらき、また協働を即自的に保証する媒介として貨幣、財産が存在するというように……『疎外された力』によってはじめて社会の存立が保たれえたからである。」――「歴史的必然性」は、あくまでも一定程度働いたにすぎない。人間は、「さまざまな外的強制」の作用を受けるけれども、けっして、“内的必然法則”にしたがって行動するわけではない。






 






「彼
〔ヘス〕は、しかも、チェスコウスキーの指摘に則って『歴史をさまざまに解釈し説明してきただけの歴史哲学』から『歴史を変革する実践』『行為の哲学』への転換を図る。『〔…〕歴史の認識には、過去と現在から……未来を推論することが本質的に属する。……この課題の解決にともなって、歴史の哲学は行為の哲学となる』(Moses Hess: Philosophische und sozialistische Schriften, hrsg. von A. Cornu und W. Mönke, S.85)。そしてここに、未来として単に予見されるものではなく、〔…〕人間の自覚的行為によって実現されるべきもの、それが社会主義・共産主義の社会なのである。

 『行為の哲学』は、ヘスの場合、固有の主体概念に俟つ。彼はデカルト以来のコギト―に代えて、
〔つまり、「自己意識」ではなく〕人間を自己活動 Selbsttat, Selbstbetätigung の主体として把え、しかもこの人間を本源的に社会的な存在として把える。ここにおいて人間の本質は協働 Zusammenwirken にあるとされる。『この協働こそが個人の現実的本質である。……思惟や行動も専ら協働から生ずる。……《精神》という神秘的な名で呼ばれているところのものも……この協働にほかならない。協働がはじめて生産力を現実化する、云々』(ibid., S.330f. vgl. SS.210, 228, 275, 287)。ヘスは、人間を単なる類的存在、単なる共同体をなす存在 Gemeinwesen ではなく、協働をなす存在、協働存在として規定し、社会的な仕方で労働する存在というこの主体概念のもとで、彼のいう『自由』の概念、それの真の実現としての共産主義、これを実現するための現実的・歴史的諸条件、遡っては社会経済のメカニズム、等々を説くのである。」
『廣松渉著作集』,1997,岩波書店,第8巻,「初期マルクス像の批判的再構成」,pp.324-325.



 「『歴史をさまざまに解釈し説明してきただけの歴史哲学』から『歴史を変革する実践』『行為の哲学』への転換」――マルクス/エンゲルスの・あの有名な章句は、チェスコフスキ→ヘスに承継されてきたテーゼの、まったくの引き写しでしかないことを、われわれは知る。「社会主義・共産主義の社会」とは、「過去と現在」に関する歴史哲学から「推論」された未来にすぎないのであって、それを、「人間の自覚的行為によって実現されるべきもの」と言い直したにすぎない。もっとも、ヘスのように単にそれだけならば、常識からそれほど懸け離れてはいないだろう。ところが、マルクス/エンゲルスの場合には、ヘーゲル弁証法のシェーマをそこに持って来て、原始共有制の「否定の否定」によって、頭でっかちな未来を作ってしまうのである。

 「協働こそが個人の現実的本質である。」――「われわれが出発点とする諸前提は……現実的諸前提である。それは現実的な諸個人であり、彼らの営為であり、そして、彼らの眼前にすでに見出され、また彼ら自身の営為によって創出された、物質的な生活諸条件である。」(岩波文庫,p.25.)という『ドイツ・イデオロギー』の「歴史哲学」の出発点は、ヘスのこのテーゼに基づいていることが分かる。ただし、マルクス/エンゲルスのオリジナルな点は、「彼ら自身の営為によって創出された、物質的な生活諸条件」という、環境に影響されつつ逆に環境を変化させてゆく人間たちの「活動」の作用を導入していること。

 つまり、エコロジーの発想こそが、彼らのオリジナリティだったのだ。

 「協働がはじめて生産力を現実化する」――「協働」に対応するマルクス/エンゲルスの概念としては、「分業」が考えられる。しかし、「協働」は、「分業」という語よりも、生産力が現実化した事態を幅広く指すのに適しているように思われる。

 「分業」の語は、ヴィルヘルム・シュルツ(『経哲草稿』に長文の引用がくりかえし現れる)から来ているのかもしれない。あるいは、アダム・スミス?



「44年の時点におけるマルクスは、まだ到底ヘスの議論を全面的に受けとめるだけの思想的状況にはなかった。
〔…〕

 ヘスはフォイエルバッハの宗教批判の論理、人間の類的本質の自己疎外という論法を社会経済問題に適用し、そのことによって社会主義的・共産主義的な結論を導き出そうと企てる。ヘスはその一環として『神の本質と同じ仕方で貨幣の本質を規定しうべきこと、貨幣は……実践的に疎外された人間の本質であること』を指摘し、
〔…〕『独仏年誌』のために書いた Über das Geldwesen をはじめ一連の論文で自らそれを実行してみせる。

 マルクスは
〔…〕、今やこのヘスの路線に則って『〔…〕人間の疎外された類的本質としての貨幣の本質』について語るだけでなく(『経哲草稿』MEGA, 1.Abt., 3.Band, S.147)、神の本質が人間であることの暴露によって神の超越的な威力が剥奪されるのと同様『人間そのものが私有財産の本質と認められることによって、人間の外にあって人間から独立した富は止揚される』(ibid., S.105)、『共産主義は止揚された私有財産の積極的な表現である』(ibid., S.111)ことを説き、地上の疎外とこの疎外からの回復を論ずる。」
『廣松渉著作集』,1997,岩波書店,第8巻,「初期マルクス像の批判的再構成」,pp.326-327.



 “貨幣の秘密”を暴露すれば貨幣制度が廃止されるかのような、フォイエルバッハの“意識の改革”を経済に持ち込んだ・異常なまでに非現実的な安易さは、のちの共産主義革命論にまで尾を曳いていないか?

 それを無理やり実現しようとすれば、“権力奪取”と、奪取した権力による強権的思想統制(「社会主義的人間になれ!」)となるほかはない。システムの問題――まさに、システムにおける存在が「意識」を作るということ――が等閑視されることとなった。強権的なシステムのもとでは、強権を利用して私利を図る意識が醸成される。市場を否定して集権的分配を行なえば、その集権的分配機構(実は、統制経済そのもの)が「土台」となって、「意識諸形態」が発生する。まさに、“史的唯物論”の言うとおりではないか!













「『経哲手稿』が着眼と発想だけでなく、数々のキャッチフレーズやレトリックに至るまでヘスの論稿と著しい一致を示していること
〔…〕。『経哲手稿』におけるマルクスは、ともあれ、ヘスに優る事象的な知識に立脚して、『国民経済上の事実から出発』しつつ、〔…〕私有財産を『疎外された労働、疎外された生活、疎外された人間という概念から分析を通じて解明』(ibid., S.91)し、さらには、〔…〕『没概念的な国民経済学のカテゴリー』を疎外論を以って批判的に基礎づけ、国民経済学的諸事実という形で定在している自己疎外の内的論理そのものが『回復』を指向していることを開示し共産主義をこの回復の運動として定礎する〔…〕

 より大きな射程でいえば、旧来の姿勢――すなわち、市民社会的状態
〔…〕に対して『類が個として実存』する真の人間的共同体を対置するという姿勢――を蝉脱して、今や、@市民社会的状態の非本来性が奈辺にあるか、Aこの非本来的状態の成立した必然性、Bこの状態の自己止揚の必然性とその行程、Cそこに招来さるべき人間の即自的対自的な在り方、これを歴史哲学的なパースペクティヴのもとに解明していくという新しい視座の設定を意味する〔といっても、本来はヘスが有していた視座を受け入れたにすぎない――廣松註〕〔…〕

 マルクスはフォイエルバッハをヘス式に改釈するとはいえ、『経哲手稿』ではまだ、いわばフォイエルバッハとヘスとの中間の立場にあった
〔…〕

      
〔…〕

 44年の8月、マルクスが『経哲手稿』を草し終えた頃、エンゲルスがパリを訪れた。
〔…〕ヘスの影響のもとに2年前から共産主義者になっていたエンゲルスと、同じくヘスの影響下に立ったマルクスとが『多くの点で驚くほど意見が一致し』意気投合したのも訝しむに足りない。

 エンゲルスが立ち去ったあと、マルクスはエンゲルスの書き遺した原稿に大幅な増補を加え、『神聖家族』に仕上げた。」

『廣松渉著作集』,1997,岩波書店,第8巻,「初期マルクス像の批判的再構成」,pp.327-332.






 






【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(10) ―――につづく。   










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カテゴリ: ユーラシア

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