古い池が残つてゐた。夜、夥しい蛙の鳴き声に耳を弄/font>（なぶ）らせながら、よく私は愛人の上を思つた。〔…〕
一体結婚などといふものは、形式だけのくだらないものだと考へてゐたかつた。けれども、だん＼／にさうばかりも言へなくなつてゐた。〔…〕彼女の幸福を私自身の幸福と感じながら、それでもまだ彼女のそれを、自分のとは別々に、彼方（むかう）に、……彼女の身のまわりに築かうとする考へを捨てられなかつた。」
里見弴「或る年の初夏に」, in：『里見弴全集』,第２巻,1977,筑摩書房,pp.16-17,19.
※「娘にはほしかつたが」：「まさ」は、この時、数えで 16歳。里見弴より 10歳年下だった。小谷野敦,p.88.
夕刻の宍道湖 小泉八雲は湖面を描写して、
「黒いインクのような水」と書いた。
東京と箱根、軽井沢で家族の“お伴”に日を費やしていた弴は、9月半ばすぎ、４ヶ月ぶりに大阪に戻ります。この間に、第１次大戦がはじまっていました。弴は直哉に出した絵葉書に、「戦争がいやだ」と書いています。
下阪すると、山中母子は、北新地の堂島裏町に引っ越していました。そこで、弴はまたその２階に下宿します。弴と「ミス・トモ」との関係は、山中家の周囲では、すでに公然たるものになっていました。「ミス・トモ」こと「山中まさ」は、この約 10ヶ月後に女児を出産します。
弴は、堂島の山中家に下宿先を決め、9月末帰京して、両親の許しを得ようとしますが、10月半ば、許可を得られないまま大阪に戻って、２度目の大阪住まいを強行します。11月12日の志賀宛て葉書では、「家の奴ら分からずやでイライラする」と書いています。
「このまさが、弴の終生の正式な妻となり、４男１女を産むことになる。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.88.
他方、志賀直哉は、7月には『東京朝日新聞』の連載小説を断念して、上京して漱石に会い、断って謝り、松江に戻ります。7月25日から 10日間ほどは、大山(だいせん)の大山蓮浄院に籠り、9月末までに、松江を引き払って京都に移っていました。南禅寺北の坊に滞在し、武者小路実篤の従妹・勘解由小路(かでのこうじ)康子（26歳）と見合いしたようです。そして、速くもその年 12月21日、武者小路宅で内々に結婚式を挙げてしまいます。式には、新婦の両親である勘解由小路夫妻と、武者小路夫妻のみ出席。志賀の両親は、結婚に反対して欠席しました。この結婚も強行だったわけです。
翌 1915年1月6日、志賀は、友人たちを集めて京都で結婚披露会を開き、里見も大阪から出席しています。
「｛1915年｝2月、また志賀との悶着が起こる。8日、志賀と待ち合わせをしたが行かず、9日、さらに雨のため行かずに待ちぼうけをさせ、10日に志賀宛に葉書を書いて、天気が悪かったので行かなかったなどと書いているが、志賀は、詫びの言葉がないと言って怒りの葉書か何かをよこしたらしく、弴は返事をして謝りながら、『近頃の伊吾』に腹がたっているなら仕方がないと言っている。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.89.
しかし、この時の悶着は、大きな結果にはならなかったようです。弴は、「腹がたっているなら仕方がない」という投げやりな返事を志賀に書いたものの、その翌日には 39℃の熱を出しており、「手紙拝見、涙ぐんだ。ただの風邪らしい」との葉書を、志賀に出しています。
「弴は、『中央公論』の当時有名だった編集者・瀧田樗陰〔…〕から原稿依頼の手紙を貰い、欣喜雀躍して『晩い初恋』を書き、4月号に載せた。これはまさとの恋を描いたもので、これまで女と肉体の関係はいろいろ持ってきたが、恋をしての関係は初めてだという意味の題である。〔…〕
だが内実は大変だった。まさは貧しい家から芸妓に出たため 2千円近い借金があり、弴はそれを支払わなければまさと結婚できず、実家の資産をもってすればその程度はわけはなかったが、かつて、縁談を持ってきても英夫｛里見弴｝がうんと言わないので母が『どうせお前は私たちが持ってくる話は気にいらないのだろうから仕方ないが、芸者や女郎を引っ張り込むのだけはやめてくれ』と言っていたくらいで、両親は猛反対していたし、｛有島｝武郎は弴の側についたが、〔…〕
｛6月｝19日には武郎から原久米太郎宛の手紙で、里見は大阪にいる、ずいぶん悲惨だ、女がかわいそうで話を聞いて泣かされたとある。まさは妊娠中に心臓が悪くなったようだし、山中家の方でもさまざまな悶着があった。〔…〕
そして 7月23日、女児が誕生し、武郎によって夏絵と名づけられた。8月11日頃、弴は上京して両親を説得しにかかったが、〔…〕」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,pp.89-90.
弴と「まさ」のために両親を説得しようとした有島武郎は、２人の「監視役」および有島・山中両家の仲立ち役として、箕田(みのだ)という知り合いの男を連れてきます。箕田は、元芸者を妻にしている人なので、適任と考えたようです。
ところが、弴は箕田に、「まさ」の借金の額を半分くらいに言っていたことが、箕田にばれてしまいます。箕田は、弴は“山中家に食い物にされている”と思いこみ、その後、夏絵が生後 48日で夭折したので、9月半ばすぎには武郎に対して、「この件は断然破棄」して、弴を「まさ」と別れさせるのがよいと手紙で進言します。
「9月8日、夏絵が危篤だという電報が届いたが既に夜遅く、弴は翌朝、大阪行きの汽車に飛び乗った。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.91.
ところが、「豊橋を過ぎたあたりで」実家から電報が届き、「夏絵」が死んだことを報せてきました。当時は、走行中の列車にあてて電報を打つことができたようです。
「『夏絵は小さいながら私のによく似た幅ツたい胸郭を備へた私の最初の子だ。可愛い可愛い大事な娘だ。かけがへのない貴いものだ。それが、私の側にゐたのはたつた19日、50日足らずでとられて了つた。こんな貴い 50日と知つたら東京へも出るんではなかつた。』（『夏絵』）
弴がしくしく泣き出すと、臨席の女が、どうかしましたかと声を掛けてくれたので、嬉しくなり、たまたま持っていた『白樺』の表紙裏に、子をなくしたことを書いて渡した。〔…〕
大阪へ着いた弴は夏絵の亡骸と対面し、あの世の祖母に向かって、『夏絵が行きますから宜敷お願ひします！』と呼びかけた。
しかし、悲しみにひたる間もなかった。女が妊娠しているというので結婚を許した両親は、ここに至って再度破談を考え始めた〔…〕。弴は箕田に反感を抱き、自分自身の経験がいかなる場合にも通用するものだと思っていると感じ、これが、『妻を買ふ経験』の『内藤』として描き出された。
10月、弴はまさを伴って上京し、平河町の宿屋に泊まって住まいを探し、麹町5丁目の裏通りに一戸を構えた。友人からは、世を忍ぶ浪人の詫住居（わびずまい）のようだと言われたという。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,pp.91-92.
青字は、原書の傍点付き文字。
11月16日付で弴が両親に結婚の許しを乞うた手紙には、「周囲が纏めた結婚には往々にして愛がなく、芸者相手の方がむしろ愛がある」(小谷野敦,pp.94-95)
「『何故に私が家族と云ひ、経済状況と云ひ、総ての点に於て甚だ面白からぬ条件を備えた彼女を、特に選んで嫁とらうと願ふかと申せば、それは第一には愛の問題で、之は動かす可らざる事実としてお認め下さいますやうにお願ひ致します。』」
とあります。これは、
「自身、尊敬する師匠の反対を押し切って芸者と結ばれた泉鏡花※が、明治28年｛1895年｝の随筆『愛と婚姻』に書いていることとまったく同じであり、鏡花の影響も無視できないだろう。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.95.
※「泉鏡花」：いずみ・きょうか 1873-1939。尾崎紅葉に師事。『高野聖』など、江戸文芸風の怪奇趣味、特有のロマンチシズムをもつ小説で知られ、日本の近代幻想文学の先駆者。里見弴、谷崎潤一郎、芥川龍之介らと交友があり、師と仰がれた。
里見弴は、『中央公論』1916年2月号に掲載した無題小説で、まさとの結婚を描いていますが、「そのうち、夫が妻を殺してしまうという展開になる虚構小説である。」新婚早々、妻殺しの小説を書いた動機について、『新潮』1919年1月号で、これは当時の実感にもとづくものだとして、次のように書いています：
「『前に云つたいろ＼／なごたつきの間、本当に純一だつたと云つてもいゝ迄に日夜昂奮し続けて居た私と妻の昂奮の度合に、可成りな隔たりが生じて来た為めに、胸を掻き毟り度いやうな、もだ＼／した癇癪の揚句、時には本当に叩き殺してやらうかと思ふ事があつた。それは勿論憎みから殺すのではなく、深く愛するから殺し度くなるのだつた』
〔…〕まさの借金を肩代わりしたため、のちに『妻を買ふ経験』などという小説を書くくらいだし、この頃は経済的にもよほど苦しく、癇癪も起きたのだろう。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,pp.96-97.
青字は、原書の傍点付き文字。
他方、志賀直哉のほうは、この間、はるかに優雅な新婚生活を送っていました。1915年2月京都で婚姻届けを提出したあと、康子とともに、5月はじめ鎌倉に移り、同月末には群馬県の赤城山・大洞に移動、宿の主人に建ててもらった山小屋で 9月はじめまで暮らします。そのあとは、上高地、京都、奈良を旅行し、9月末、千葉県我孫子・弁天山に買った家に定住します。
我孫子には、『白樺』同人の柳宗悦が居て、友人たちに転居を勧めていました。里見弴も、それに応えて弁天山に転居を計画し、翌16年3月頃から測量などをはじめています。
志賀直哉が「弁天山の家に入つたのは｛1915年｝9月の29日であつた。背後の丘が柳夫妻の住む天神山で、〔…〕井戸水とランプと提灯の生活にもかかはらず、やがて武者小路実篤やバーナード・リーチも移り住んで、此の一帯が柳宗悦言ふところの『吾々のコロニー』、白樺村の観を呈することになる。」
阿川弘之「志賀直哉」, in：『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,p.253.
志賀の赤城山での山小屋生活は、のちに自然描写の最高傑作といわれる短篇『焚火』(1920年）を生み出します。しかし、志賀は、14年に松江で新聞小説執筆に挫折したあと、まる３年間、作品の発表をしていませんし、1915年は「休筆状態」で、日記もつけていません（阿川弘之,pp.252-253）。
【28】『善心悪心』―――里見29歳、志賀33歳
1916年3月から、里見弴は、柳と志賀の誘いを受けて、我孫子・弁天山に土地を買う準備を始めます。これが実現していれば、白樺派の各家族が、ご近所で和気あいあいと‥‥、という“文化の村”が東葛の一角に誕生していたのですが｡｡｡
あいにくの里見の計画性のない性格が、志賀をイライラさせてしまいます。二人でだらだらと遊んでいたあいだは気にならなかったんでしょう。ちょっと環境が変っただけで、20年の友情も水泡に帰してしまいます。
里見自身は、この転居準備での行き違い‥‥里見の一方的な怠惰と不手際で、志賀に何度も待ちぼうけを食わせてしまったこと――が、志賀に「絶交」を宣告された原因だと思っていたようです。
はたして、そうなのか？ 本稿最後の・この節では、２人の７年あまりの「絶交」の原因を考えてみたいと思います。
「さて、弴はこの頃、志賀や柳の住む安孫子へ移り住むつもりでいたようで、土地のことや届け出のことまで志賀に頼んでいるから、かなり進んでいたようだ（『志賀直哉宛書簡集 白樺の時代』,2008,岩波書店）。
ところが5月〔16日に志賀を待ちぼうけさせたあと、――ギトン注〕17日に、またしても弴は、志賀に会いに行く予定が雨だったためやめた。弴としては、天気が悪ければ行かないかもしれない、と言ったつもりで、改めて訪ねることにしたようだが、18日に志賀から激怒した手紙が来て、我孫子は一昨晩は雨がなく昨朝も降っていなかった、電報を打てばよい、君は礼儀を知らないとあり、弴の生活への批判が書き連ねてあり、しかし君に不快はない、20日はいないので 21日に待っているとあったが、20日さらに手紙があって、弴は返書をして詫び、自分は礼儀知らずかもしれないが自分には全く覚えがない、しかし最近友達が遠ざかるのはそのせいか、今後あまり交渉のないようにしたいと書いている。
弴が待ち合わせにルースなのは、園池｛公致｝※も書いているから事実なのだろう。おそらくこれで、我孫子移住計画もなしになったのだろう。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,pp.97-98.
※「園池公致」：そのいけ・きんゆき。父は子爵。学習院中等科で里見と同級、『麦』『白樺』同人。小説『一人角力』(1919年）などがある。
たびたびの叱責に対して、「自分には全く覚えがない、……今後あまり交渉のないようにしたい。」などと言うのは、志賀のほうから見れば、反省もなく開き直っているとしか思われないでしょう。しかし、志賀は、「しかし君に不快はない」とも書いています。これまでの１対１の友達付き合いならば、それでも差しさわりは無かったのでしょう。にもかかわらず、志賀が里見の「礼儀知らず」を、今さら責めているのは、結婚して家族ができたためではないでしょうか。二人とも結婚した以上、“一家の主人”として礼儀も責任もわきまえて行動しなければならない、―――そういう考えが、志賀には常識としてあり、里見にも当然のこととして要求したのではないでしょうか。しかし、里見の返答は、この“常識”を拒否していた｡｡｡
もっとも、弴のほうではまた、雨とは別の事情があったかもしれません。連日徹夜で小説を書き、明け方まで書いていて、寝過ごしてしまったというのです：
「最後の部分を書き終つたのは明方で、その日志賀を安孫子に訪ねる約束を気にかけながら、身を横たへるや否や連日の労れに前後も知らず、夕方目覚めてからでは断りの電報も役に立たないと、そのまゝすつぽかしてしまつたのが、彼との８年に亙る絶好の因（もと）と、私はさう思つてゐるが、彼の本意はどうか。生涯どちらからもその点に触れて話したことがないから今もつての謎だ。
和解以後も、期間は短いが絶交は２度か３度あり、友情はその度ごとに深まりこそすれ損（そこな）はれはしなかつた。臨終に際して、堅く両手を握り合つたまゝ目をいつぱいに睜（みひら）き、早口に喋り続けた彼の言葉が、何を言ふのかひとこともわからなかつたこと心残りに堪へない。」
里見弴「あとがき」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.503.
↑ここで解説しているのは、『中央公論』1916年2月号に掲載した前記の無題小説（⇒：【27】↑)ですから、その年 1月のことと思われるのですが、里見は 1月12日付志賀宛て葉書で、18日締め切りの仕事が入ったので行けなくなったと断っています。そして、2月14日付葉書で、19日に夫婦で伺うと書いています。
したがって、無題小説の徹夜仕事は、我孫子への「すっぽかし」とは無関係なのです。あるいは、5月にも、「すっぽかし」の原因になった別の徹夜仕事があって、里見は取り違えているのかもしれません。
ともかく、里見としては、なぜ志賀に「絶交」を言い渡されたのか、よくわからない。「すっぽかし」以外には思いつく原因がない、ということなのです。
「志賀直哉は『白樺』では弴先生の兄貴株で、はじめは、二人の仲は親密で、〔…〕しかし、ある日突然、一方的に『汝、けがらわしき者よ』と書いた葉書が来て、絶交になった。理由は全くわからなかったと、弴先生はいわれた。」
瀬戸内寂聴『奇縁まんだら』,2008,日本経済新聞社,p.195.
他方、志賀直哉が遺した回想記を見ると、1916年の「絶交」の原因は、里見の「すっぽかし」ではない。自分の狭量なふるまいではあったが、里見がその頃発表した小説に腹を立てたので、思わず絶交の葉書を出してしまった、と書いています：
「｛1916年｝7月、弴は『文章世界』に『俄あれ』、『中央公論』に『善心悪心』を発表した。いずれも志賀と自分の交友を題材にしたもので、〔…〕後者は、志賀との交友を、志賀が市電〔山ノ手電車の誤り―――ギトン注〕に撥ねられるまでを描いたところだが、志賀がこれに怒って、遂に本式の絶交に至る。のちに志賀は、こう書いている。
『どういふ部分だつたか今は明らかに覚えないが、兎に角、里見の、私に対する見方に腹を立てて少し乱暴過ぎるハガキを出した。
我孫子にゐた頃で東京から帰りの汽車で読み、私は汽車の窓から其雑誌を田圃へ捨てて了つた。それから直ぐ郵便局へよつて其所（そこ）の筆で端書（はがき）を出し、それでも虫が納まらず、記憶にあるだけの里見に貰つた物を、皆、こはしてはき溜めに捨てた。〔…〕
あの時どうしてそんなに腹を立てたか。今なら不服を感じても、もつと余裕をもつて何でもいへるのだが、当時は神経が尖つてゐたからさういふ余裕がなかつたものと見える。里見にとつては寝耳に水の暴言であつたに違ひない。』(『正誤』)
〔…〕里見によれば、その葉書には『汝穢らはしき者よ』とだけ書いてあったという。弴の方では絶交の原因について、雨の日に待ちぼうけを食わせたから、と言っているくらいで、実際『善心悪心』のどこが不快だったのか、読んでも分からない。
生まれた女児は 31日に腸捻転で夭折しているから〔志賀の長女・慧子が 6月7日誕生し、7月31日死亡している――ギトン注〕、病弱な初めての子を抱えて、志賀は半ばノイローゼだったのだろう。しかしそれから弴はこの『汝穢らはしき者よ』という葉書を机の前に９年間貼って、何くそ今に見ていろというつもりで文学修業をした。
〔…〕志賀とはその後、友達の家で会ったが、志賀はまさ〔里見の妻――ギトン注〕にだけ話しかけて弴を無視し、秋頃、学習院の同窓会である花桜会へ行ったら志賀がいたので、不快ですぐ帰ってきたという。志賀との絶交の前後から、『白樺』の仲間たちとも遠ざかり、『白樺』に寄稿することもなくなり、弴は孤独になった。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,pp.98-99,101.
里見弴は「ある日、私｛瀬戸内寂聴｝に向って、いつにない厳しい表情でおっしゃった。
『君、小説を書くのなら、本当に強い心を持たなければだめだよ。ぼくなんか、志賀から来た絶交状の葉書１枚を、仕事机の前に貼って、９年間、それをずっと毎日にらんでいた。この葉書に対して、自分は絶対いいものを書いてやると思いつづけて、努力した。それくらいの激しい気持ちを持たないと、小説なんて書けないよ。』」
瀬戸内寂聴『奇縁まんだら』,2008,日本経済新聞社,pp.194-195.
たしかに、志賀を絶交の行動に駆り立てた遠因は、里見の「すっぽかし」や、志賀自身の神経の高ぶりなど、いろいろあったのでしょうけれども、直接のきっかけが、里見の新作小説を読んだことにあったのは、まちがえなさそうです。
志賀が汽車の窓から放り投げた雑誌は、『文章世界』ではなく、『善心悪心』の載った『中央公論』のほうだったようです：
「大正5年｛1916年｝の初夏、直哉は東京から安孫子へ帰る列車の中で、弴の新作『善心悪心』を読んだ。〔…〕直哉は読み終つて、掲載誌『中央公論』を汽車の窓から田圃へ投げ捨てた。我孫子へ着いたその足で郵便局へ寄り、局に備へつけの筆を使つて、
『汝けがらはしき者よ』
それだけ葉書に大書し、投函した。」
阿川弘之「志賀直哉」, in：『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,p.307.
『文章世界』に載った『俄あれ』は、埃っぽい７月の日に、突然の雷雨に見舞われて、年上の友人の家に駆けこんだ独身の男が、友人の妻とのあいだで、その家の若い書生ともども繰りひろげる心理的な危ういかけひきを描いたもので、里見の名作とされる短篇です。しかし、志賀がモデルと思われる・この家の主人（年上の友人）は、最後の２行で顔を出すだけですから、志賀が読んで昂ったのは、『俄あれ』ではないでしょう。
Pam Rueter
『善心悪心』は、すでに“電車事故”の部分を詳しく引用しましたが（⇒：同性の愛慾と葛藤(9)【23】）、それは、この小説の後半部分です。
前半のすじをかんたんに述べましょう：
「『善心悪心』【あらすじ】(1)
25歳の昌造｛里見弴｝は、優柔不断な性格から、『種々な対象との間に結ばれた困った関係が、……いつまでも、ぐづりぐづり尾を引いて残』ってしまい、それらの関係に拘束されて身動きの取れない息苦しさを感じるようになった。そこで彼は、そうした生活から『すツぽり蝉脱』することを計画するが、そのためには、『お京』という年上の遊女｛君江｝との関係を清算する必要があった。
ところが、昌造は、自分を背徳漢だとは思いたくなかった。自分は、『お目出度いほど善い人間だ』、卑怯かもしれないがお人好しだ、と思っていたかった。女との関係を清算するにしても、別れた後までも『女の胸のなかで、懐しい昔の恋人として永く生きてゐたい慾があった。』
そこで、昌造は、次のような異様な“別れ方”を実行する。彼の亡くなった祖母は、彼の名義で定期預金を遺していたが、彼の母が管理していた。昌造は、その証書と印鑑を盗み出して解約し、その金を全部『お京』に贈った。『お京』が自分で身受けして自由になるのに十分な金額だった。しかも、『お京』に会って渡すのを回避して、友人に金を持って行かせ、自分は新橋から『逃げるやうに京都への旅へのぼった』」
「善心悪心」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.331-334.
↑冒頭部分のすじは、1912年に里見自身が吉原遊郭の「君江」との関係を清算するために試みた「家出」の経緯に基いています。贈った金額は 40円（現在価値約 200万円）でした。もっとも、この「家出」は、↓小説の続く部分で述べられるように、失敗に終ったのです。
「『善心悪心』【あらすじ】(2)
夜汽車に乗った昌造の中で、『あゝ、俺もたうとう泥棒だ！』と叫ぶ心と、自分は『何か悪いことでもしたのか？』今までどおり『少し卑怯なだけで』お人好しの善人ではないか、と言う心とが争い合う。
京都では、佐々｛志賀直哉｝、市村｛稲生春季：26歳、学習院高等科の級友で京大在学中｝とともに、遊郭で舞妓（まいこ）たちと『雑魚寝』(乱交？）をする。昌造は、女たちを尻目に、久々の市村との同性セックスを慾して同衾した。
市村と放蕩に明け暮れて帰る金もなくなり、別の友人に借りて、東京に帰った二人は、舞妓遊びの余韻覚めやらず、先に帰っていた佐々とともに放蕩を続ける。」
「善心悪心」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.334-340.
まもなく、「お京」との関係も旧に復してしまい（↓）、祖母の遺産を費消したことと、遊び惚けたこと以外には何の成果もなく、昌造の『蝉脱』計画は失敗に終りました。
「『善心悪心』【あらすじ】(3)
昌造は、『お京』に誘われて彼女の家に行き、もとの関係に戻ってしまう。『お京』は身受けして目黒に一軒家を持ち、一家で引っ越すが、まもなく困窮して一家離散のうき目を見る。『お京』が目黒を売り払った日、昌造は彼女の伯父の長屋で『10枚の畳に６人寝の二晩を過ごし』『無智な、善良な人々の間に、最も居心地のよい安住の地を見出した』。
『お京』は浅草の活動写真館で唄うことになった〔当時、映画館は最も卑しい職業で、彼女の転職は堕落と考えられた―――ギトン注〕。昌造は『女をより不幸にしようと思つて、彼女の身の自由を購つてやつたわけではなかつた』が、現実にはそうなっていた。彼のなかの『悪心』が『満足して、出かした出かしたと褒めそやした』。」
「善心悪心」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.340-353.
ここまでのところでは、志賀がモデルの「佐々」は、ほとんど出てきていません。「佐々」が主要な役割を演じるのは、次の部分からです。
志賀は、里見に“絶交状”を出した動機について、
「兎に角、里見の、私に対する見方に腹を立てて少し乱暴過ぎるハガキを出した。」
と書いていました。『善心悪心』に、里見の志賀に対する・どんな「見方」が現れているのか、‥その点に注意して、読んでいきましょう。
「『善心悪心』【あらすじ】(4)
昌造｛里見弴｝は、佐々｛志賀直哉｝を副主人公とする自伝風小説『蝉脱とずる＼／べつたり』を脱稿して佐々に見せた。
この小説の中で、昌造は、佐々との付き合いについて、つぎのようなことを書いていた。
≪昌造は、６つ年上の佐々と対等に付き合うために、威勢を張って無理をしていた。が、背伸びするためには、自分のものではない『佐々の思想、趣味、道徳など』を借りて、踏み台にするよりほかなかった。その接ぎ木のような在り方は、昌造に苦痛をもたらしたから、昌造は、いっそ“土台”を『踏み砕いて』飛び降りてしまおうとまで思い、もがくようになった。
昌造は、あるとき佐々とともに、英国人の画家から次のような話を聞いた。
“オーガスト・ジヨンという画家を崇拝していたオスボルンという画家は、『立派に己自身の才能をもってゐながら』いつもジヨンの足跡をあとから追うようになってしまった。そのため自己の才能を開花させることなく、ついには田舎に引っこんだ。そして、子供の心に帰って自然画を１枚書き終えた時に、ピストル自刹した。”
この話を聞いて、昌造は『佐々を殺して了はうといふ考』が頭にこびりついて離れなくなった。オスボルンのように殺されるまえに、先手を打とうと考えたのだ。≫
昌造はまた、『蝉脱とずる＼／べつたり』を佐々に見せることによって、自分が４年間佐々に偽っていたウソを白状しようとはかった。昌造は自家の『年上の下婢』｛八重｝と通じていたのだが、佐々には、“神田の煙草屋の女”との関係だと言っていたのだ。
佐々に対面してウソを告白し詫びる代わりに、小説を見せて、『どうだつたい？』と、『殊更平気を装って』尋ねる昌造の態度に、佐々は苦りきった表情を見せた。佐々は、昌造を『下等だ』と思った。
その晩、二人は吉原の茶屋へ上がって遊んだが、芸妓の一人に恋心を抱いた佐々に対して、昌造は、芸妓たちの前で佐々の毛深い手を揶揄したりした。佐々は、自分の『真面目な愛情を』ばかにされたと感じて、昌造を怨んだ。
こうして、二人の付き合いはしばらく途絶えたが、昌造は、佐々との関係の変化を望んでいたので、そんなことは気にせず放蕩生活を続けた。」
「善心悪心」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.353-357.
里見が志賀に対して、自分と八重との関係を、“外神田の煙草屋の女”とのロマンスだと偽って数年間だましていたことは、二人の不和の原因としてしばしば言及されています。しかし、どうやら志賀を怒らせたのは、偽っていたこと以上に、それをバラすにあたって恥じ入ることもなく、小説を使って平然と“告白”してすますという、里見の白状のしかたであったようです。
里見は、中学生時代以来、志賀の強い影響下で、小説家となる才能を育てられてきたと言えます。志賀直哉なくして、作家・里見弴は誕生しなかったでしょう。しかし、里見は、一人前の作家となるためには、志賀の影響から自立しなければならないことを感じて、何年にもわたって、ほとんど足搔くような日々を送っていたことが分かります。
里見が志賀に対して抱いた観念的な“殺意”も、志賀からの軽蔑を逆に嘲笑うような里見の態度も、そこに根ざしていました。
「『善心悪心』【あらすじ】(5)
昌造は、浅草の活動写真小屋にいる『お京』から、みれんがましい電話を受け、別れた女が昔の恋人とよりを戻そうとしていることを知る。酔っぱらった彼女の後ろから楽屋の酒宴の乱痴気が漏れ聞こえる。彼が『善の力』を行使すれば、その結果は、女をいっそう堕落した境遇に転落させてしまうことを、昌造は改めて悟る。
しかし、昌造は、こうした幻滅を重ねることによって、『心の上に君臨するもののない「素人間」』として『成熟』し、『自由な心』を持つことができるのだ、と考える。
昌造は、場末の待合で、『女学生上り』で『摺れツからし』の若い遊女をみとめ、『がら＼／蛇』と名づけて馴染みになる。ある夜、『がら＼／蛇』を浅草に連れ出すが、酔った彼女の乱れように辟易してしまう。昌造は、俥夫２人を雇って彼女の家まで送り届けさせる。ところが、後日彼女から、姉妹で住む家に、その俥夫たちを迎え入れて泊まらせたと聞いた時には、さすがの『自由な心』の持ち主も『しよげ返つて了つた』」
「善心悪心」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.357-363.
このあとは、前回【23】で引用した・昌造と佐々の芝浦海岸での“オトコの裸か”鑑賞、およびその帰り道での電車事故の経緯になります。
昌造が電車事故で負傷した佐々を病院へ運ぶところから、【あらすじ】を見ていきましょう：
「『善心悪心』【あらすじ】(6)
佐々は、自分が性病の治療をしているＫ病院に運んでほしいと言う。他の病院で性病が発覚して、親兄弟に知れることを恐れているようだった。しかし、Ｋ病院は遠く、佐々のようすは瞳孔が開いているように見え、危急と思われたので、昌造は佐々をなだめすかして、俥でＵ病院へ向かう。
４、５年前、『オーガスト・ジヨンとオスボルン』の話から、佐々に観念的な殺意を持ったことはあったが、じっさいにこの友人が『死ぬかもしれない』と思った時には、昌造は、思ってもみなかった衝撃にとらえられてしまった。
病院で、佐々は最近の記憶を失っていた。『一体俺はどうしたんだい？』と訊く佐々に、電車事故に遭ったことを話してやると、『さうか、……ずゐぶん間抜けなことをしたもんだなア』と言って笑う。佐々が最近書いていた小説の内容、以前にＲ市へ行っていたことなども記憶がなく、それを話してやると、『ア、さうか』などと言って感心する。そこまで来ると、佐々は、また最初の質問に戻って、まったく同じ順序で同じ質問を繰り返し、これをその一晩に２０回以上繰り返した。しかも、こんなに記憶を失っていることを知っても、佐々は、
『自分で全く何等の不安をも感じてゐないらし』かった。昌造は、しまいには面倒になって、佐々を無視して寝てしまった。
翌朝、担当医から、もう生命の危険はないと聞いた昌造は、『何かもの足らない気がした。』
佐々は、見る見る回復に向かった。昌造は、病院に見舞いに行くと、しばしば佐々の家族と遭った。とりわけ佐々の祖母は、佐々が助かったことを喜んで、身を震わせているほどだった。
『俺は佐々の生死よりも、この人たちの喜びが見たかつたのではなかつたらうか。』
老祖母に繰り返し礼を言われると、『昌造も、何か自分のしたことが、特別善いことででもあつたやうな気がして来て、心から嬉しく、ニコ＼／してゐた。』」
「善心悪心」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.368-372.
たしかに、この小説には、里見の志賀の生死に対する微妙な心理、最愛‥なのかどうか、もっともしがらみの深い友人に対して、里見自身にもよくわからない愛憎の気持が描かれていると言えます。
しかし、志賀が読んで腹を立てたのは、やはりそのことではなく、里見の「私に対する見方」だったと思われます。
電車事故の「佐々」は、鉄道敷地内を歩いて怪我をする、たいへん不注意で「間抜け」な人物として描かれているかもしれません。大けがをしているのに、性病が発覚することをもっぱら気にしたり、記憶を喪失しながら、そのことを気にもせず、かえって自分について教えられて感心していたりする。ひょうきんとさえ言えるほど、間抜けかもしれません。
またその前の、遊郭での「恋」も、いかにも無粋でウブな素人に見えます。
しかし、それらの点を読んだだけで、
『汝、けがらわしき者よ』
という絶交状を書くでしょうか？ 志賀の絶交の動機について、どうにもこうにも、納得のできる答えは見いだせないのです。
晩年の里見が『善心悪心』について書いた解説―――すでに引用しましたが、ここでもういちど見ましょう：
「高等科2年級の夏休中かゝつてやつと読みあげた『レザレクシヨン』(トルストイ作『復活』の英訳）で、『悪行（あくぎやう）は悔いるを得べし、されど悪心は悔いるを得じ』(私の和訳）の一句で、その後の数年間、私はがんじ搦めにされてゐた。
度重なる悪行のあと、『墨汁５合も飲んだ気持』の自己嫌悪をくり返しくり返すばかりで、悪心の方は、『づる＼／べつたりズム』の旧態依然たるもの。はたからの目には白痴か狂人としか映りやうのないこの醜態も、善心の根が枯渇しきれないかぎり、まんざら無駄にも終らない、といふ、はかない慾が書きたさに、私の跳ね飛ばした毒汁で迷惑された近所合壁の方々には、なんとお詫びを申しあげようとあとの祭、黙するほかない。」
里見弴「解説」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.504.
ここで言う「悪行」は、小説のテクストから見るかぎり、主人公たちの際限のない放蕩生活ということになるでしょう。佐々の不注意な電車事故も、そうした放埒な生活の果てにあると言えます。それが、志賀を怒らせた「見方」かもしれません。
しかし、本稿でこれまで強調してきたように、この「悪行」とは、志賀と里見の相互了解のなかでは、二人のあいだの《同性愛》――その「ずるずるべったり」の関係をも指しています。
「けがらわしき者」とともに《同性愛》に耽溺し、しかも、里見とは違って、そこに何らの自省もなく、心理的抵抗も感じない、心底「間抜け」で“からっぽ”な人物‥‥そのような人として自分が描かれているように、志賀は感じたのではないでしょうか？
【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴――同性の愛慾と葛藤 ―――終り。
ばいみ～ ミ
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