06/09の日記
15：29
【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴―――同性の愛慾と葛藤(2)
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鎌倉、滑川河口
こんばんは。(º.-)☆ﾉ
【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴―――同性の愛慾と葛藤(1) からのつづきです。
【４】志賀直哉と“男色家”たち
「キリスト教に接したあとも、明治30年代後半の数年間を通じて、直哉の生活にはかすかながらその方面の匂ひがつきまとつてゐる。第一に、直哉を内村鑑三のところへ連れて行つた末永馨が、小柄な美青年であり、結果的に一生の殆どを独身で通した人である。
末永はアメリカへ去るに際し、一高の名物教授岩元禎に直哉のことをよろしくと頼んで行くのだが、その岩元教授が名だたる男色家であることは、当時一高で知らぬ者が無かつた。〔…〕その書斎の机の上には、のちのちまで志賀直哉の写真が額に入れて飾つてあつたさうである。」
阿川弘之「志賀直哉」, in：『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,p.127.
「美少年がつい眼につく〔志賀直哉の――ギトン注〕性癖だけは、信仰上の制約と別のものとして残つてゐたらしい。
明治37年4月9日の日記に、
『7時14分発の電車にて（箱根塔ノ沢を）出発す。小田原の小学校に通ふ少年の内誠に美しき十才ばかりなる有り 近年見かけぬ程に美し。国府津よりの滊車中は疲労に何様たへがたく漸く新橋に着く 此所にて岩元氏に会ふ 気まり悪しきヿ〔こと〕云はん方なし』
とある。
『美少年』につづいて偶然『岩元氏』が出て来るのであとの数行も引用したが、此のきまり悪さは多分、岩元禎のところへドイツ語を習ひに行く約束を長い間すつぽかしてゐたのが、新橋駅頭ひよつこり出会つたがためであつて、それ以上特別の含みは無いだらう。」
阿川弘之「志賀直哉」, in：『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,p.128 .
明治37年（1904年）に志賀直哉は 21歳。相手の少年は 10歳前後の小学生ですが、志賀はもともと、カッコカワイイ男の子がいると眼が行ってしまう性癖なのだと思われます。美少年どうしは眼が合う‥‥というのはよくあることで、ゲイというよりＢＬレベルのことですが、志賀直哉のように 10代から少年どうしのセックスをしていれば、その傾向は強くなったでしょう。
阿川弘之は、このへんではことさらに岩元禎との関係を否定していますが、生前の志賀に確かめたわけではなさそうです。新橋駅で会ったのも、志賀の日記の書き方からは、偶然出会ったともとれるし、待ち合わせて会ったともとれます。「気まり悪しきヿ云はん方なし」も、単に不勉強を恥じたにしては大げさです。
たとえば、岩元教授に呼ばれて訪ね、身体の関係を持ってしまったが、志賀としては大人との男色に抵抗があって、行かないようにしていた――といった状況も考えられます。資料からはどちらにもとれるし、現在では確かめようのないことです。
しかし、里見弴の『君と私』にも、1902年の夏、里見らが千葉県・鹿野山で夏休みを過ごしているところへ、志賀直哉と岩元禎教授が２人で訪ねてきて、数日を過ごし、志賀と岩元は、２人で房総半島の先へ徒歩旅行を続けるために別れて行ったとあります。志賀と岩元のあいだに、２人だけの密なつきあいがあったことは、まちがえありません。
志賀家の書生「末永馨」に関しては、前回【１】で見たように、直哉は「兄貴分か従兄のやうに」親しくしていた、と年譜資料にも出ています。当時の上流家庭での習慣から見て、直哉と末永が身体の関係を持っていたことは推測できます。
里見弴の場合には、書生「山川」との身体の関係は、年譜にも明確に書かれています。末永が直哉を内村鑑三のキリスト教「夏期講談会」に連れて行ったのは 1901年の夏（直哉18歳、弴14歳）で、このころ弴のほうは、山川との同性関係に耽溺していました。
直哉との同性愛の相手だった末永が、禁欲的なキリスト教の講習会に連れて行ったことは、矛盾に見えるかもしれませんが、本人たちにとっては、矛盾ではなかったでしょう。もう志賀も 18歳なので、そろそろ“やりモク”(セックスが目的の同性愛）は卒業して、もっと精神的なものを求めていたかもしれません。末永も、志賀の成長を願って、あえて厳しい修練の場に連れて行ったことが考えられると思います。
この年7月、折りから世論が沸騰していた足尾鉱毒問題で、内村鑑三は、社会主義者の木下尚江、片山潜らとともに田中正造ら被害住民側を応援する演説会を開き、志賀直哉はこれに参加して共鳴し、父と激しく衝突します。直哉の祖父・直道はかつて足尾銅山を共同経営していました。
直哉のほうは、キリスト教そのものよりも、演説会で接した内村の人格に感銘して、「夏季講談会」にも参加したのかもしれません。（Wikiでは、演説会参加は「夏季講談会」より後の11月としていますが、岩波『志賀直哉全集』第14巻所載の年譜により7月としました。）
「明治33年〔34年の誤りか――ギトン注〕、私は18歳で、〔…〕何か私にも精神的な欲求があり、書生の末永君と一緒によく近所の霊南坂教会、或ひはその他の教会に説教を聴きに行つた。〔…〕
角筈の内村先生の所の第2回夏季講習会〔1900-1902年３回開催。――ギトン注〕の会員になつた末永君が第1日の午後、先生の話を聴いて甚（ひど）く亢奮して帰つて来て、今晩の会から私も是非出席するやう、〔…〕直ぐ出かけようと、総て事後承諾で、私は連れて行かれた。〔…〕
私は此夏の講習会から７年餘り先生に接して来た。不肖の弟子で、先生にとつて最大事である教の事は餘り身につけず、自分は自分なりに小説作家の道へ進んで来たが、正しきものを憧れ、不正虚偽を憎む気持を先生によつて引き出された事は実にありがたい事に感じてゐる。」
「内村鑑三先生の憶ひ出」, in：『志賀直哉全集』,第７巻,1974,岩波書店,pp.294-295.
【５】志賀直哉と内村鑑三
じっさい、内村門下での直哉は、信仰に関してはどれほど真剣だったか、疑問に思われる点が多々あります。
新宿の「女子独立学校」内（現在の西新宿1丁目6番エルタワー所在地にあった）で行われた内村の「会」に参加するたび、直哉は自家専属の人力車を会場の外に待たせておき、終るとすぐに歌舞伎座の芝居見物に直行していました（阿川弘之「志賀直哉」, in：『阿川弘之全集』14,p.104）。当時、芝居見物は不良学生のすることとされており、内村は厳しく禁じていたといいます。
直哉にとって、内村のキリスト教の教えのなかで、もっとも受け入れがたかったのは、性的禁欲でした。
志賀の小説『濁った頭』(1911年）から、関係する部分を拾ってみると：
「私は17歳の時から丁度7年間温順なキリスト教徒だつたのです。〔…〕然し只一つ姦淫する勿れ、この掟だけにはいつも＼／私の暢気な心も苦しめられました。
基督教に接する迄は私は精神的にも肉体的にも延び＼／とした子供でした。運動事が好きで、ベイスボール、テニス、ボート、機械体操、ラックロース、何でも仕ました。水泳では鎌倉と江の島の間を泳いだ事もあります。学校の放課後も雨さへ降らなければ夕方迄は屹度運動場で何かして居ました。
〔…〕然し学問の方はそれだけに怠けて居ました。夕方帰つて来ると腹が空ききつて居ますから、６杯でも７杯でも食ふ。で、部屋に入ればもう何をする元気もない、型ばかりに机には向つても直ぐ眠つて了ふと云ふ有様です。これが当時の日々の生活でした。
それが基督教に接して以来、全（まる）で変つて了ひました。
〔…〕運動事は総てやめて了ひました。大した理由もありませんが、さういふ事が如何にも無意味に思はれて来たのと、一方にはみんなと云ふものと、自分を区別したいやうな気分も起つて来たからです。」
「濁つた頭」, in：『志賀直哉全集』,第１巻,1973,岩波書店,pp.204-205.
青字は、原文の傍点付き文字。
「私」は志賀直哉自身をモデルにしています。当時、志賀が通っていた学習院中等部では、一部の学生が“結社”をつくって一定の主張を決議したりすることが流行していました。これは、全国どこの中学にもあったことです。
志賀が「入れられ」た“結社”は、バンカラ風の質素な身なりをする、贅沢をしない、といった決議をします。富裕家の子弟が多かった学習院の主流にあえて反発する趣旨だったのでしょうが、人一倍オシャレで贅沢だった志賀には、これは堪えがたいことでした。志賀は、ただちに退会を申し出ます。
「校風改良といふやうな事も、今日の決議のやうな、総て外側から改革して行く求心的の改良法で出来る筈のものではなく、中心に何ものかを注ぎ込んでそれから自然遠心的に改革されるべきものだ。」
「濁つた頭」, in：『志賀直哉全集』,第１巻,1973,岩波書店,p.205.
「幹事」に志賀はそう告げて、退会したのでした。退会の本当の理由が、彼の美意識、ないし贅沢をやめたくないからであることは明らかですが、本人は、そう思っていない。本人は、自分の行動は、人間の外面よりも内的精神を尊重するからだと信じていて、それをそのまま、“真実を書くこと”を基調とする小説にも書いている。
ここには、リースマンが近代人の特質として理念化した「内部指向型」(⇒：『孤独な群衆』）の精神構造が、典型的に表れています。
当時、日本人の大部分は「伝統指向型」だったと思われますが、志賀のような上流知識階級の子弟は、内村鑑三などの欧米帰り知識人の影響を受けて、「内部指向型」に“目覚め”ていたのです。
「得意でした。これは今まで味つた事のない誇でした。〔…〕私にはこれが宗教から与へられる唯一のありがたい物だつたのです。皆（みんな）の仕てゐる事が益々馬鹿氣て見える。私は学校が済むと直ぐ帰つて、色々な本を見るやうになりました。伝記、説教集、詩集、こんなものをかなり読みました。〔…〕
然し間もなく苦痛が起つて来ました。性慾の圧迫です。
〔…〕初めの１年程はそれでも小説類を全廃して居たからまだよかつたのですが、２年目程からは又それに読み耽るやうになりました。
当時同じ教会へ行つてゐた文科大学〔東京帝国大学文科大学[文学部]を指す――ギトン注〕の学生で、その時分から小説や戯曲を公にしてゐた人ですが〔小山内薫か？―――ギトン注〕、それから私は色々、外国の新しい文学の話を聞いて新しい小説を読むのを覚えたのです。随分肉感的な事を書いた本も読みましたが、〔…〕
一方にはさう云ふ刺激を受け、他方には肉食から来る同じ刺激を受け、尚肉体を使ふ運動事はやめて了ひ、しかも、考としてはそれを全然否定しないでは居られない私と云ふものは、何の事はないうつつ攻めの拷問にあつて居るやうなものでした。行く所は如何（どう）しても独りでする恥ずかしい行（おこなひ）です。この為にはどれだけ苦しんだでせう。ナイフを腿へ突きたてようとした事もありました。マッチを擦つて腿へのせた事も二三度ではありませんでした。
然し当時の私は宗教上の問題などには全く自信のない人間だつたのです。〔…〕只々教会で教へられる事を其儘に信じて、何でも彼でも自分自身を、それへ嵌込んで行かうと努力したのです。然し性慾の事ばかりはどうにも自由になりませんでした。
仕舞には自分は特別に強い肉慾を持つて生れた不具の人間ではないのかしらと思つても見ました。」
「濁つた頭」, in：『志賀直哉全集』,第１巻,1973,岩波書店,pp.205-206.
青字は、原文の傍点付き文字。
（上）女子独立学校内の自宅での内村鑑三
（下）同所にて、第3回夏季講談会（1902年）
志賀直哉は、1907年9月に内村門下を離れます。直接には、自家の女中「千代」との結婚問題（【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴―――同性の愛慾と葛藤(1)【１】参照）で内村が、家族の同意のない結婚に反対したためです。しかし、中篇小説『大津順吉』を見ると、志賀は 20歳（1903年）ころからすでに、性欲とキリスト教の衝突に悩んでいました。内村門下に入って「２年目程から」という『濁った頭』の記述に対応するでしょう。
そこで次に↓、『濁った頭』の翌年に発表した『大津順吉』から、関係部分を引用してみます。
「17の夏、信徒になって、20過ぎた頃からは私には女性に対する要求がだんだん強くなって行った。私は何となく窮屈になった。その窮屈さが自分でも厭（いと）わしく、もっと自由な人間になりたいと云う要求を時々感ずるようになった。〔…〕
私は自分の信仰は17の時からずーッと教えを聴いている角筈のＵ先生に預かっていて貰うような心持でいた。〔…〕
―――『淫を避けよ』と云う言葉をモットオにしていた位で、私にとって教えでの最も不調和なものは姦淫罪の律（おきて）であった。教えに接するまでの三四年間に男同士の恋で自由を行なって来た、その習慣からも姦淫は私にとつて殆ど唯一の誘惑になつてゐた、私は教えに接すると間もなく烈しく自身の肉体を呪うようになった。
その頃私はレイノルズの『天使の頭』と云う題の写真銅板の額を自分の部屋の鴨居にかけて置いた。可愛らしい子供の頭が四ツ五ツ、首のつけ根から生えた小さな翼で空を飛び廻っている画だ。肉体を切（しき）りに呪っていた私にはこの絵が殆ど来世での理想だったのである。
或る日、先生の居ない時、弟子たちが十人ばかり寄って、『復活の時には この肉体は どうなるか？』と云う問題の相談をした事があった。〔…〕
未だ新米の信徒だったから私は、恐る恐る小声で云った。
『僕は首から上だけで復活してくれないと困ると思うんです。そうでないと天国もこの世も結局同じ事になってしまうと思うんです。』
誰も相手になってくれなかった。
〔…〕
こんな相談をしていた頃からは五六年経って、或るクリスマスの晩だった。皆が円形を作って膳に就くと、先生は快さそうに一座を見渡して、
『この中ではもう中野君と大津君が一番古狸だネ』と云った。私もそんな事を云われるようになった。〔…〕然しこの間最初から変らずに、絶えず私を苦しめて来たものは私の肉体に湧く力であった。
ある時先生がこう云う話をした。
『姦淫の大きな罪である事を本統に強く云い出したのはキリスト教が初めで、そして姦淫は殺人と同程度に大きい罪悪である。』
私はこの言葉から恐ろしく不愉快な響きを受けた。
それは私の『心』と『体』とが絶えず恋する者を探しながら、境遇と思想とにさまたげられている、その不調和が苦しくて苦しくてならない時だったからでもあった。
その頃私は自分の部屋の床の間に実大の顔より少し大きいヴィーナスの石膏の首を懸けておいた。〔…〕この石膏の女に一種の愛情を持っていて、悶えるような堪えられない気分になると時々私はその冷たい固い唇に接吻をした。私の鼻と触れ合うヴィーナスの鼻が仕舞いに薄黒くなった。〔…〕」
志賀直哉「大津順吉」, in：『新潮日本文学 ８ 志賀直哉集』,1969,新潮社,pp.275-277.
青字は、原文の傍点付き文字。
内村鑑三に入門する前の志賀は、女性とは身体の経験がなく、セックスは、同年代・年下の少年とだけであり、しかも「三四年間」の「習慣」になっていました。対象は、路上での行きずりの「キャッチ」のほか、学校の同級生、下級生、また彼らを通じて知り合った少年たちでした。
ですから、志賀がキリスト教との衝突に悩んだ「性欲」とは、現実的には、同性愛の性欲だったのです。そのことは、肉体のない“天使の絵”のエピソードとも符合します。
しかし、志賀はまもなく、少年天使に代えて“ヴィーナスの石膏像との接吻”で気を晴らすようになります。
志賀が、同性愛から異性愛に移行したのは、内村門下での禁欲中のことであり、それは“成長”や“発達”などとは無関係であって、おぞましいとされる“ソドム”の愛よりは、是認されるみこみのある異性愛に移ったのだとみることができます。（門下から離れると、同性愛も復活し、新たに里見弴との関係も生じた。後述）
同性愛は異性愛の“代用”などではなく、むしろ、異性愛や結婚こそ、同性愛の“代用”として希求される場合があることを、志賀直哉の例は示しています。
「そう云う私は先生の言葉に反対して『関子と真三』と云う小説をその時書いた。これが私には初めての出来上った小説であった。内容は結婚した夫婦の間にも姦淫罪はある、結婚しない相愛の男女の性交にも姦淫でない場合が幾らもあると云う考えで、一体姦淫とは何だ、と云うような事を書いたものであった。」
志賀直哉「大津順吉」, in：『新潮日本文学 ８ 志賀直哉集』,1969,新潮社,p.277.
青字は、原文の傍点付き文字。
『関子と真三』に登場する夫は、内村鑑三をモデルにしていると思われます。『関子と真三』は発表されませんでしたが、その一部分が『濁った頭』に引用されています。「夫」は、「惨酷なる道徳家」だが「妻に対しては人一倍烈しい情慾を燃やす」人物として描かれています：
「『然し此惨酷なる道徳家も只一ツ、妻に対して優しい時がある。それはどういふ時かといへば、彼が肉慾に燃え切つてゐる時である。彼は道徳家である。然しその妻に対しては人一倍烈しい情慾を燃やすのである。彼が慾に燃えるのは時をかぎらぬ。それは直ぐ顔色に現はれる。一種の力ある恐ろしい容貌になるのだ。其容貌をもつて他（よそ）から帰つて来る時にはお清は思はず身を震はしたのである。しかも彼女はかう云ふ時にのみ、優しい言葉を掛けられるのだ。夫の帰つた時は彼女は例として、奥まつた、夫の部屋に着更へを持つて行くのだ……
お清は初婚の女である。来た当時は、それをひどく恐ろしい事に考へた。然しそれも自分の我が儘からで、何所の妻も始終かういふ想をしてるのであらうと断念して居た。妻は身仕舞もそこ＼／に夫の脱ぎ捨てた衣類を纏めて引き下がるのである。それまで、優しかつた夫は急に邪見になるのが常であるから。
夫は一体邪見な男である。然し肉慾をはたした後程邪見な事は又ないのである。』」
「濁つた頭」, in：『志賀直哉全集』,第１巻,1973,岩波書店,pp.215-216.
この、「結婚した夫婦の間にもある姦淫罪」の描写は、行為を細密に描いているわけではありませんが、「道徳」を唱えながら女性を道具としてしか扱わない男の本質をあますところなく描いていると言えます。まだ女性経験がそれほど多くなかつた 1911年以前の志賀直哉が、自分の体験を下敷きにしたとすれば、同性愛以外ないはずです。
同性愛、とくに路上での“行きずり”同性愛の体験は、《人道主義作家》志賀直哉の形成に重要な寄与をしたと考えます。同性愛経験のないヘテロ男性は、相手の優位に立つ性行為しか体験したことがないのです。すくなくとも、男性に対して劣位におかれる性行為の体験はありません。したがって、性差別を自らの体験として実感する機会は、彼らには無いのです。
情欲の場面になると、まるで顔色を変えて変貌してしまう男性、恐ろしい顔で優しい言葉をかける男性、自分が射精し終えたとたんに、手のひらを返すように邪険になってしまう男性、‥これらの描写は、同性愛経験を持つ志賀ならではのものだと思います。
【６】恋と“男色”の時代―――弴15-18歳、直哉19-22歳
1901年（志賀18歳）に内村の講談会に入門したあとの志賀直哉は、それまでのスポーツ少年から変貌し、里見弴の前でも、もっぱら里見の次兄や上級生と哲学の議論を交わすようになったので、里見は、「むづかしい話しの好きな、真面目くさつた君」「親しみ憎い人」になったと感じました。そのため、里見は、しばらくのあいだ、志賀と距離をおくようになります。
それでも、二人は、学校（学習院中等部）の級友らのグループ交際のなかで、ひんぱんに顔を合わせるようになるのです。
この期間には、志賀直哉は、内村鑑三のキリスト教による禁欲生活を実践しようとして苦しんでいた一方で、【４】で触れたように、男色家の岩元教授（当時34歳）と２人だけの長期徒歩旅行をしたりもしています。
また、里見が 1902年ころから思いを寄せていた「柳沢保承」という下級生を志賀が奪い取ってしまい、翌年（志賀20歳、弴16歳）、恋仲になって里見の前に現れるという一幕もありました（本節末に後述）。志賀が『暗夜行路』に書いた「人の稚児を奪った」話（⇒：志賀直哉と里見弴(1)【３】）は、このことだったのかもしれません。
1902年秋、里見の同級生グループと志賀の同級生グループが、ベースボールの試合などで交際するようになりました。↓これは、その試合の帰りの思い出です。
「昼の労〔つか〕れで眠くなつた私は、『君たちの話し』を聞きながらうと＼／してゐた。それを気の毒に思つてか、君は帰り途に士官学校の前から四谷見附まで私を背負（おんぶ）して行つた。もう 15になる私は、少し羞（はづ）かしかつたけれど、夜が更けても人通りも少く、それに何しろ眠かつたので、云はれるまゝに君の背に乗つてゐた。〔…〕
『おかげで暖くなつたよ』
君はこんなことを云つて、笑つて、別れて行つた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.91.
「士官学校」は、市谷台、現在の自衛隊駐屯地にあった陸軍士官学校。
妙義山・金洞山 左から鷹返し、東岳、中ノ岳
「その翌年｛1903年｝俊之助兄や黒田君や君にくつついて、本郷座へ『金色夜叉』を見に行つた。〔…〕７月、矢つ張り君たちの仲間に混つて玉川畔へテント旅行をした。〔…〕川瀬の音を聞きながら一夜を明かした。〔…〕私はだん＼／君に親しむやうになつて行つた。
この時分、君が一番多くうちの俊之助兄のところへ遊びに来てゐた。〔…〕
学校の方では殊に、君と私の間は、中学時代の一級の差でも越えられない罅隙（ギヤツプ）が、而も４つ５つもなかを隔ててゐた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.91-93.
↓つぎは、1904年10月の妙義山登山。志賀(21歳)、里見(17歳)のほか、里見の次兄・壬生馬、柳宗悦らが参加。
「険しい金洞山の頂上の断崖に立つて、私は子供らしい亢奮から、元来が臆病者のくせに、つか＼／と端（はし）へ出て放尿した。君は下まで見えたかと訊いた。私は途中で見えなくなつたと答へた。麓の杉並木へかゝつた頃にはもう夕闇が迫つた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.93.
1904年2月、日露戦争が勃発しています。日本軍は仁川と旅順のロシア軍を奇襲して交戦に入ったあと、同月中に宣戦布告します。例によって“宣戦前の開戦”という日本軍の狡猾きわまりない手法（→真珠湾攻撃）は、この時に確立したと言えます。
しかし、開戦当初は、日本国内の一般の関心は、それほどではなかったようです。まだ、内村鑑三、幸徳秋水ら知識人の非戦論も続いており、ロシアを屈服させるまでこの戦争を遂行して帝国主義国の仲間入りをすることまでは、国民は予想していなかったのかもしれません。
まもなく、日本は韓国（大韓帝国）政府を脅迫して事実上の管理下におき（韓日議定書、第1次韓日協約）、中朝国境を越えて進軍し満洲南部が露日の主戦場となるや、ようやく世論の関心も高まってきました。9-11月には３回の旅順総攻防戦となり、↑上の妙義山登山は、まさにその渦中で行なわれました。
この旅行の主たる目的は、里見の次兄壬生馬が、小諸(こもろ)の島崎藤村を訪ねることにあったようですが、弴、直哉ら下の世代は、登山にのみ関心があったようです。金洞山の岩場に立って放尿するという、かなり危険な行為を弴があえてしたのも、戦況に促されて興奮を高めていた当時の民心の中にあってこその蛮勇だったと言えます。
さらに翌年初めに旅順が陥落し、戦勝の形成となるなかで、↓以下に見るように、戦闘をテーマとする「錦絵(にしきえ)」や、武士道をテーマとする芝居の見物を通じて、里見、志賀らの仲間うちの連帯が高まってゆく状況もうかがえます。
日露戦争という・この出来事なくしては、藤村らの《自然主義》の勃興も、志賀らの《白樺派》の成立もありえなかったでしょう。帝国主義侵略なくして、日本近代文学はありえなかったし、世界のすべての“国民文学”は、帝国主義侵略者の文学として興ったのです（⇒：【必読書150】石川啄木『時代閉塞の現状』(2)【４】曺泳日『世界文学の構造』）。
「世間が旅順の戦況で夢中になつてゐた年の正月｛旅順が陥落した1905年1月｝、私は初めて君の家へよばれた。その頃私が夢中になつてゐた錦絵を君が沢山もつてゐると聞いて、わざ＼／同級の岩田を誘つて一緒に見せて貰ひに行つたのだ。（年長の学生を独りで訪ふといふやうなことが、なんとなく憚られるやうな気風は、まだ＼／学生の間に盛だつた。）〔…〕丁度君は夕方から明治座へ初御目見得の芳三郎と徳三郎を見に行くといふ日だつた。私も盛に誘はれたけれど、断つて、〔…〕
宮戸座で『蟒於由高評仇討』※を見て来た君は、ひどく誘惑的なことを書いて、『好源斎』などと署名して私を誘つた。『兄貴｛有島壬生馬｝なんかに叱られたつてかまふもんか。今度は是非々々見て置き給へ』などと書いてあつた。君の友達が２人一緒になつた。夜芝居で、〔…〕少し亢奮してぶら＼／帰つて来る浅草公園の夜も、私には初めてだつた。銀杏の木の枝に鶏が眠つてゐたのを君が指さしたりした。〔…〕この頃から芝居と錦絵とが君と私との間の主な話題で、だん＼／親しく話すやうになつた。〔…〕兄といふ仲介者なしに一緒に芝居などを見るやうになつては来たが、まだ＼／私は君との隔りの広さは越え難いものだつた。ずつと大人に見えた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.94.
※ 蟒於由高評仇討（うわばみおよしうわさのあだうち）：歌舞伎の演目。腕にウワバミの刺青のあるお由が、夫を殺した軍十郎を色仕掛けでだまし、仇を討つ筋書き。明治末～大正期に、女形・澤村源之助の演技で好評を博した。
年譜によると、志賀が里見に「ひどく誘惑的なことを書いて」誘ったのは、絵ハガキで。源之助を描いた宮戸座の絵ハガキでしょう。
「年長の学生を独りで訪ふといふやうなことが、なんとなく憚られるやうな気風」とは、遠回しな言い方をしていますが、“男色”のことです。年上の学生と１対１で仲良くすれば、身体の関係のある「恋愛」と思われ、じっさいにもそうだったということです。
そこで、里見も志賀も、会う時には自分の仲間を誘うなどして、相手に警戒させないように、また家族や友人の疑惑を招かないようにしています。しかし、少なくとも志賀のほうには、里見を“男色”に引き込む意図があったことはまちがえないでしょう。
しかし、志賀の里見への「恋」は、けっして一途なものではありませんでした。だいいちに、志賀は、当時内村鑑三の門下で、いっさいの肉欲を堅く禁じられている立場でした。そればかりでなく、志賀は、里見が２年ほど前から「柳沢保承」という下級生に思いを寄せていることを、以前から知っていたか、里見に近づくなかで知ったかして、里見より前に、まず「柳沢」のほうを奪い取って自分のものにしてしまいます（1905年夏までに）。
志賀の意図は、「柳沢」が本命だったのか、里見が本命だったのか、わかりませんが、里見が本命で、まず里見の思慕の対象を無くしたうえで、嫉妬させ、自分のほうに向けさせようとした遠大な知略と考えても、おかしくはありません。
志賀・のこの作戦には、偶然の好条件が幸いしました。里見の次兄・有島壬生馬が、この年５月に発って、ヨーロッパへ美術の修学に向ったのです。志賀の親友・壬生馬の存在は、志賀に“あこがれ”を抱いた時期の里見にとって障害に感じられました。志賀のほうが里見を欲するようになると、今度は志賀にとっても、壬生馬の存在が邪魔になります。壬生馬の洋行は、期せずして、志賀と里見の二人にとっての僥倖となったのです。
そうした二人の動向に気づかない壬生馬は、志賀にも、自分が留守中の弟を宜しく頼み、志賀と里見は、新橋の波止場で、涙を流して壬生馬の船出を見送ります。
つぎ↓は、壬生馬出発後の1905年8月。
「或る晩一緒に真砂座へ『業平文治』と云ふ芝居を見に行つた。〔…〕その晩帰つたらもう一時近かつた。私はそれから母の寝てゐる蚊帳のそとに坐らされて、ヒドく叱られた。〔…〕
それかと云つて以後母の云ふなりになるのでもなかつた。その後も相変らず芝居を見たり、小説ばかり読んでゐたりした。それにつれて君との交渉はます＼／多くなる。流石の私も、君の陰口を利かうとする母に対しては、いつになく口答へをした。いつの間にか私は君を尊敬し、信頼してゐた。芝居や小説を罪悪視する父母に対しても、私は無意識に、君といふ味方があるので気丈夫に思つてゐられたくらゐのものだつた。嘗て俊之助兄を敬つたやうに君を敬ひ、そのうへ兄には求められなかつたもつと自由なところを君に得た。大げさに云へば英雄崇拝、といふやうな気分の強いことは、私のうちの同胞（きやうだい）全部を通じた性癖であるが、私は殊に『こころからエラいと思ふ人』なしには生きられない方だつた。〔…〕俊之助兄が日本を去つてから一番近く、先に立つて行く人はたしかに君だつた。いつの間にかさういふ心持で君に対するやうになつてゐた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.100-101.
「この年｛1905年｝の夏休には、もう、君たちと一緒に暮すやうになつてゐた。
元箱根に８畳２タ間の貸し別荘を借りて〔志賀、黒木三次[志賀の同級,のち伯爵]、里見の３人で夏休みを過ごす。―――ギトン注〕〔…〕
或る嵐の日、君と二人でボートで乗り出したことがある。二人して着物の裾をまくつて頭の上へ拡げてゐるだけで、小舟は磁石に引かれる鉄片のやうに走つた。ずぶ濡れになりながら、〔…〕波がどん＼／はいつて来てもさう驚かなかつた。〔…〕二人でうん＼／漕いで帰らうとしたが駄目だつた。たうとう岸へ吹きつけられた。知りあひの宿屋へボートをあづけて、浴衣や傘を借りて陸から帰つた。〔…〕宿屋を出る時、座敷のなかから尻端折などして、『ぢやア、そろ＼／出かけようかね』と云つた私の調子が、我ながらあんまりよすぎて、君と顔を見合せると暫くは転げて笑つた。そんなつまらないことではあるが、あゝいふ二人にしか通じない可笑しさ、といふやうなものが、もう、お互の間に出来かゝつてゐた。
或る日、安井君｛柳沢保承｝がカーキー色の学校服で登つて来た。私たちは夕方湖で泳いだ。それを見ていた安井君に附いて来た家扶は、さも安心したやうに、〔…〕この少年を託して山をおりて行つた。それからは４人の頭が中央で合ふやうに、部屋の四隅へ放射形に床をのべて寝た。〔…〕
君と私との間に安井君は妙な結びをしてゐる。これより３年ほど以前、私は安井君を恋してゐた。一つ違ひのこの少年の何物かが、私の心を、役者に恋した子守ツ娘のやうな卑下と熱望とで充した。十月（とつき）ほどの間、私はたゞの１日でもこの少年を思はない日はなかつた。それでゐてたうとうその心を打ち明けようともせずに了つた。丁度その時分｛元箱根で同宿した 1905年｝、君と安井君とは恋し合つてゐて、私も薄々それは知つてはゐたが、不思議に君に対する私の感情を少しも害しはしなかつた。私の、前後覚えのないほどの熱情は、そんな噂の上に私を超越させてゐた。だから、君と私とのことを書かうとしてゐる今、このことは不必要のやうでもあるが、間に安井君と云ふ一人の人を置いて、同じ時代に、君と私とがまるで違つた（或は全く同じな）心の状態を別々に経験してゐたと云ふ点を面白いと思ひ、序〔ついで〕に書いた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.97-100.
「丁度その時分」というのは、文脈から見ると、里見が柳沢（「安井君」）に思いを寄せていた「３年ほど前」のことのようにも読めます。しかし、年譜の1905年の条には、
「夏、志賀と元箱根に一夏を過ごす。後から柳沢が来るが、志賀は彼と恋しあっている。」
とあります。そもそも、志賀、黒木、里見の３人のいる元箱根に「柳沢」がやってきて合流した自体、志賀が呼び寄せたとしか考えられません。里見は、上の引用部分では、ことさらに、自分は平気だった、嫉妬などまったく持たなかった、と言わんばかりの書き方をしていますが、事実は、志賀と「柳沢」との・たがいに親密なありさまを見て仰天したのではないでしょうか。
箱根・芦ノ湖（箱根町港から）
このすぐあと、里見は、母から来た手紙を理由にして、嵐の日にもかかわらず、あわてるように帰京して行きます。『君と私』では、里見は手紙を誤読して「帰って来い」という意味にとってしまったが、帰宅してみると、そんな必要は無かった。志賀から「羨ましがらせの手紙」が来たので、里見は自分では見たくない芝居をわざわざ見に行って、その評判を大げさに志賀に書いて「腹癒せ」にした、と書かれています（p.100）。
じっさいのところは、「柳沢」の来訪で、志賀との“甘い蜜月”を破られ、逃げるようにして立ち去ったが、志賀はなおも手紙で、「柳沢」との幸せな同宿生活のありさまを書いて、里見の羨望を掻き立てた、ということでしょう。
こうしてみると、志賀直哉という青年は、同性愛に関してはナカナカの策士で、里見弴という“狙った獲物”を手に入れるために、あの手この手を尽くしていることがわかります。しかも、この時、志賀は内村門下にいて、厳しい禁欲の戒律に服しているのです。
同性愛に関するかぎり、禁欲の戒律は決して“妨げ”にはならない。むしろ、単なる純情な“恋”―――里見の柳沢に対するような―――を越えて、権謀術数をもあえて辞さない・おどろおどろしい情慾に変質させる場合さえある、‥‥と言うことができるでしょう。
また、『君と私』で、里見が、
「だから、君と私とのことを書かうとしてゐる今、このことは不必要のやうでもあるが、〔…〕」
以下、ながながと、このエピソードを書く理由を言い訳しているのは、志賀の批判に対する予防でしょう。『君と私』という私小説じたい、里見が、同性愛の相方である志賀の“呪縛”から、精神的に独立することを願って執筆したと考えられます。当然のことながら、志賀からは、「こんな余計なことを書くな」「おまえの小説のテーマと関係のない柳沢のことなど書くな」という批評（じつは苦情）が寄せられることは、目に見えていたのです。
ばいみ～ ミ
彡
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