03/17の日記

23:10
【必読書150】スピノザ『エティカ』(10)―――「理性」とは、さざなみに砕ける人の夢か?

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スピノザの家(レインスブルフ) スピノザは  
ライデン郊外のこの家に間借りして(1660-63)   
『エティカ』の執筆をはじめた。     










 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【必読書150】スピノザ『エティカ』(9)からのつづきです。






 【38】「理性」は、どこからやってきたのか?



 人間の「認識」という実践、「理解する」という活動は、閉ざされた「精神」の内部における推論ではなく、外へと向かう「精神の緊張」にほかなりません。

 「理性」は、どこからやってきたのか? 何をしに来たのか? 私たちには、現代フランスの哲学者・小説家ジャン=クレ・マルタンの↓次の叙述が参考になるかもしれません。



「われわれはみな、外部から到来してわれわれの行動の力を制限する傾向に支配されている。球は傾いた平面でころがって動く。われわれもその傾きを感じ取る。しかし、いかなる個人も外部からおのれに作用する無限の原因に“起動力を発揮して”対抗することはできなくても、だからといって生命力を持たない無力な存在であるわけではない。
〔…〕身体はしばしば〈私〉なしで機能する。たとえば馬鹿笑いをするときだ。爆笑の動きを止めることができるものは何もない。そういう風にして、おのおののものは抵抗や力を表出するのである。〔…〕しかし、〔…〕笑わないではいられなくても、私は笑う存在とは別の何かである。〔…〕私が私の存在のなかに居続けようとすることをうながす本質、この欲望は、単に無力の結果生じたものとして否定的なかたちで説明することはできない。

      
〔…〕

 努力
「コナトゥス」――ギトン注〕は本質的になにか自分の気に入ったものの次元にあるのではない。それは起動的なものでもなければ、動物を動かす本能的力、あるいはわれわれのなかにある獣性のようなものでもない。われわれはおのれに多くのことを要求し、そのために苦悩を発動させる。〔…〕

 私という存在は全面的に努力
「コナトゥス」――ギトン注〕なのだ! しかし、この力だけでは私が具現化する特異的存在を支えることはできない。存続するための身体の努力には、外からわれわれに到来するものを理解するための精神の緊張がともなう。〔…〕したがって別の力、別の傾向が必要であり、この場合魂により近い力、真なるものを真なるものによって真なるものとして感知することができる精神の力が必要となる。真の観念は身体がおのずから努力「コナトゥス」――ギトン注〕するようにおのずから確立されるのである。」
ジャン=クレ・マルタン,杉村昌昭・訳『フェルメールとスピノザ―――〈永遠〉の公式』,2011,以文社,pp.21-24.



 「理性」は、“知りたいという欲望”なのです〔『エティカ』第4部・付録4〕。

 ともすれば「想像」や「感情」に流されて、外から到来するものに「隷属」するほうに傾きがちな自己に対して、見通しを拓こうとする“努力”です。だから、厳選された“公理的「共通概念」”だけでは、満足しないのです。何よりも、「身体」が直接接触する諸「物体」との関係を通じて、“真”なる特性と“種類”を見通したい。なぜなら、この「理性」――スピノザの「理性」――は、書物や伝聞を信用したがらない、手ごたえのある直接経験によって“真”なるものをつかみとりたいと念願するからです。

 なるほど、そうした帰納的探究の大部分は、「非十全」な認識にしか達しないかもしれません。経験は、「身体」のキャパシティを超え続けるでしょう。それでもなお、不可解の帷(とばり)に隠されたわずかな隙をもとめて、「理性知」「十全」性を求めて“外部”を志向するのです。

 たしかに「想像知」には、自己中心、“人間中心”の認識になりやすい欠点があります。そのために、“種類”による認識は、擬人化された御伽話や“人為分類”になりやすいのです。「テーブル」「椅子」は、物体自体の性質による区別ではありません。“人間がテーブルとして使うものが「テーブル」で、椅子として使うものが「椅子」だ”とでも定義するほかはありません。

 “種類”による認識は、恣意による表面的な特性だけに注目して分類した結果になりやすく、また、目的論などの人間の自己認識を投影したものになります。







スピノザの部屋(レインスブルフ) 書き物机と
書棚でいっぱいになってしまうほど狭いこの部屋
で、10歳年下の学生カセアリウスと暮していた。






 しかし、「理性」は、個物を直接認識することができません。“種類”によって認識するほか、世界を理性的に把握する方法はないのです。そこで、「理性」は、自己中心、人間中心の“人為分類”になることを避け、対象それ自体の特性を、自己の身体にもある「共通する特性」によって同定しながら、細心に探究してゆくことにより、「十全」な認識に達しようとするのでした。

 当時勃興しつつあった自然科学(とくに、数学、物理学以外の、化学、生物学、天文学、…)は、そのような認識の努力であったと言えます。



「伝聞も推論も、人間と事物そのものとを繋ぐ糸ではなく、それゆえ、そうした間接的な認識に頼る限りの人間は、世界を手応えのある何かとして見出すことはなく、世界との関係において自分の位置や役割を確かめることも出来ないであろう。これに対して、経験は、事物の本質ではなく夥しい特性の一つ一つを相手にし、確かに無駄が多く、断片的であり、『切りがない』けれども、何と言っても事物そのものと直接的に接触するものであり、人間のうちに例えば好悪の気持を惹き起し、人間と世界とを何らかの仕方で結び付ける力を持つ。」

清水禮子『破門の哲学』,1978,みすず書房,p.174.



 こうしてスピノザは、、言語、書物(伝聞)による認識は「非十全」なものであるとしつつ、自らの身体と諸対象との接触(はたらきかけあい)による認識だけが、「十全知」となることができると考えたのです。

 このような直接体験の重視は、当時草創期の初々しい興奮のなかにあった自然科学研究の状況にも刺激を受けていたはずです。たとえば、今日“微生物学の父”と言われるレーウェンフック(⇒:『エティカ』(5)【21】)は、商人であり、余暇にレンズを研いて顕微鏡を自作し、さまざまなものを覗いていました。濁った池の水を観察した時に、微小な生物が蠢いているのを見いだし、その観察を始めたのが、微生物学研究の嚆矢となったのでした。レーウェンフックとスピノザは、隣り町といってよい距離に住んでおり、ジャン=クレ・マルタンは、2人のあいだに交流があったのはまちがえないと言っています(↓後述)。

 スピノザは、“種類”による認識が、ある場合には「理性知」となりうることを認めていました。ある「概念」は「偏見にとらわれない人にのみ明瞭・判明である」〔第2部・定理40・註解1〕と言っているのは、そのことを意味します(⇒:『エティカ』(9)【36】)。






 【39】「理性」のダイナミズム



 ここで、『エティカ』全体で、「理性」「理性知」に言及した定理を総覧してみたいと思います。内容的には「理性」を扱っていても、「理性」という言葉が出てこない場合は、原則として採っていませんが、それでもおおよその傾向は見ることができます。

 ↓これらのうち、〔第2部〕の諸定理は、《自然》世界を、「イデアル」または“種類”によって認識する「理性知」に関するものです。

 もっぱら人間の「感情」をテーマとする〔第3部〕には、「理性」に言及した定理がありません。

 これに対して、〔第4部〕には、ひじょうに多いことがわかります。あまり多いので、2項目に分類しました。〔第4部〕〔第5部〕の「理性」の諸定理は、社会ないし人間倫理に関するものです。



@ 第2部、定理29註解、定理37、定理38,系、定理39,系、定理40,註解1,2、定理41,42、定理44,系2.

「理性知」の対象は:「共通概念」、推論、(普遍概念)
「理性知」は、「十全」な認識、すべての人間に共通な認識。
「理性」の本性は:対象を「必然的なものとして=永遠の相のもとで見る」:個物ではなく、「イデアル」“種類”を認識する。

A 第4部、定理18註解、定理24,26,46、定理48証明、定理50,註解、定理65,系、定理66,註解、定理72註解;付録8,16,23,25.

理性の指図」の内容は:存在維持(自利追求)。理性的な利益追求は“認識すること”に等しい。
理性の指図」各論:憎悪には愛で報いよ、「買いかぶり・見くびり・あわれみ」の否定、秤量と次善選択、背信よりは死を選べ。
(付録):自然を開発する権利、「恐れ・恥辱」の否定、理性的生活のための技術。

B 第4部、定理35,系1,2,註解、定理36註解、定理37註解1,2、定理51,52,53,54,58、定理59,註解、定理60,61,62、定理63,系、定理66註解、定理73;付録3,4,5,9.

「理性の導き」の効果:本性上の一致、共同性、寛容と友情、自然状態から社会契約へ、感情の代行(感情的欲望は共同性に反する)、欲望の理性化、心の平安(“恐れによる善行”の否定)、自由、国家による自由。
「理性」から生ずる感情:「好意・名誉」、最高の「満足」;生じない感情:「謙遜・後悔」
(付録):理性的欲望、欲望の理性化理性知の完成は至福をもたらす、理性的生活=知的認識=「善」、共同性と教育の意義。

C 第5部、定理7、定理10註解、定理20証明(定理15)、定理38.

理性から生ずる感情」の強さ、「理性」の生活規則:寛容・憎悪に愛で報いよ、「十全」な自己認識と感情の認識→神への理性的愛、理性的認識の効果:感情と死の克服。




 「理性」とは理論的認識であるとする@と、「理性」による社会生活・人間倫理を述べたA〜とでは、「理性」の意味に違いがあるのでしょうか? 私は同じだと思います。カントなら、「理論理性(純粋理性)」と「実践理性」を区別するところでしょうけれども、スピノザには、そのような区別はありません。

 @でも、スピノザは、「理性」が、人間の陥りがちな“自己中心的認識”“人間中心的認識”を乗り越えることを述べており、このことが、A以下の社会倫理の場面での「理性」の働きにも、重要な意味をもっているからです。

 人間は、自己保存力(コナトゥス)を“現実的本質”としていますから、そこに「理性」が現れて合理的な助言をする場合でも、基調は、自己利益の合理的な追求――ということにならざるをえません。他人のために自己維持するなどというのは、それ自体矛盾です〔第4部・定理25〕。

 しかし、「理性」はその合理性によって“自己中心的認識”を乗り越えることができます。合理的思考によれば、人間にとって最も利益になるのは、「理性」に導かれた他の人間なのです〔同・定理35・系1、附録9〕。そこから、人間の理性的な共同社会、《自由》な共同社会への展望が生まれます。

 また、同じことから、理性的な利益追求は“認識”とイコールである、という・もうひとつの重要な帰結が生じます:



「〔定理26〕われわれが理性に従って努力することは、すべて認識するということである。精神が理性を用いるかぎり、精神は認識に役だつもの以外は自分にとって有益であると判断しない。

 〔定理27〕われわれは、認識にじっさい役だつものだけが善であり、また他方認識をじゃまだてしうるものだけが悪であると認める。

 〔附録4〕かくて人生でもっとも有益なものは、知性あるいは理性をできるだけ完成させることである。そしてこの点にのみ人間の最高の幸福あるいは至福がある。
〔…〕理性によって導かれる人間の究極の目的、言い換えれば最高の欲望は―――彼はこの欲望にもとづいてそれ以外のあらゆる欲望を統御しようとする―――、彼自身と彼の知的認識の対象となるすべてのものを十全に把握するように彼をかりたてる欲望である。〔第4部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.332-333.






 






「たとえばスピノザは自然のかぎりなく繊細な様相の奥にも“実体”がひかえていることを語っている。
〔…〕ひとつの川はひとつの流れであるが、しかしながら光が川の表面で、引き裂かれた無数の紙のように戯れ、一見奇妙な小さな金色の点がかぎりなく多様に乱舞する。

      
〔…〕

 もちろんスピノザは、血液の粒子的・血球的構成を確認したファン・レーウェンフック〔デルフト出身の生物学者で、はじめて顕微鏡で微生物の世界を見たとされる〕の血液に関する観察を知っていた。『人間の身体は(本性を異にする)多数の個体で構成されていて、その個体のひとつひとつもきわめて複合的に構成されている。』(『エチカ』第2部要請1)。」

ジャン=クレ・マルタン,杉村昌昭・訳『フェルメールとスピノザ―――〈永遠〉の公式』,2011,以文社,pp.4-5,50.



 レーウェンフックについては『エティカ』(5)【21】で見ましたが、マルタンによると、スピノザの友人あて書簡の中に、レーウェンフックによって行われた血液の観察について述べたものがあるそうです。

 「人間の身体は、異なった本性をもった多くの個体から組織されている」とし〔第2部・要請1〕そのため身体の各部分はそれぞれ異なった感情によって動かされているとした〔第3部・定理17・註解〕(⇒:『エティカ』(8)【35】)は、レーウェンフックの発見から触発されたインスピレーションだったことがわかります。スピノザは、さまざまな「本性」をもった血球が、体液の中で蠢きあっている状態が、人間の身体全体でおきていると考えたようです。

 したがって、“人間”という個体が全体としてまとまりをもって活動しているのは、“自我”“精神”といったような操縦士がいるのでもなければ、“神”のような存在が外部から統制しているのでもない。それは端的に、《神すなわち自然》全体が、外部からの統制も内部的な中枢権力もなくまとまっているのと同じことだ。スピノザは、そう考えていたのだと思います。

 それは、“有機体”が“有機体”としてまとまるしくみにほかなりません。身体内の「多くの個体」の内部相剋によって、分解しようとする傾向が進むと、逆に、各部分(個体)が、弱い部分を援助して“まとまり”を回復しようとする“個”の自己保全機能が働くのです。このダイナミックな働きが、「コナトゥス」という“個”の「現実的本質」にほかなりません。

 これを“個”の側から言えば、他を援助することは、(自分が困った時に援助してもらえる、といった功利的な考えより先に)それ自体が、自身の“活動力”を高める有益な行為なのです。

 じつは、私がこの着想を得たのは、最近新型コロナウイルスのために隣国で起きている現象を知ってからです。韓国の新型コロナ禍は、大邱に本部のあるオカルト宗教教団の中の感染が、大邱市とその周辺に広まったことから起きていますが、この大邱市は、同国の保守主義のメッカ、ないしナショナリズムの聖地と言ってよい場所です。邑城址の公園には、いつも白い民族服と鍔広帽の老人が、おおぜい屯ろしています。そのせいか、与党「共に民主党」の一部では、「大邱ウイルス」などと呼んで蔑み、大邱以外の場所は安全だからコロナ禍を気にする必要はない、などと差別的な言辞を公けにする人も多いほどです。しかしそれと同時に、いま顕著に見られるのは、大量の援助物資と人的資源が大邱に集まってゆく現象です。その流れに押されて大統領(もちろん与党所属)も、国民に向って、大邱を救おうと呼びかけています。

 あからさまな地域主義が止むわけでも批判されるわけでもないのに、誰が指示するでもなく援助の手が差し伸べられてゆく。東日本震災にさいして、「絆(きづな)」がどうのと麗々しく言われ、放射能を浴びた食品を進んで食べろ、というような“正論”がまかり通った日本とは対照的な状況が、隣国にはあります。

 もちろん、こうしたことは世界中どこの国にもあるのだと思います。ただ、ある国々(中国、日本、‥)の場合には、政治的イデオロギーや“公式見解”の陰に隠されて、見えにくくなっているのでしょう。













 【40】自然状態と共同社会



「この備考
〔第4部・定理37・註解2―――ギトン注〕の目的は『功績』と『罪過』、『正義』と『不法』の解明である。その解明は人間の『自然状態』と『市民状態』を対比して論じる論の進行を通して得られる。」
佐藤一郎『個と無限―――スピノザ雑考』,2004,風行社,p.135.



 ここには、スピノザの社会契約論、国家論が書かれていますので、すこし詳しく見ておきたいと思います。



「〔定理37・註解2〕
〔…〕人間の自然状態と国家状態について、2,3述べておかねばならない。

           各個人は自然の最高の権利によって存在している。したがって各個人は自分の本性の必然性から導きだされるものを自然の最高の権利にもとづいて実行する。このことから各個人は、自然の最高の権利にもとづいて何が善であり、何が悪であるかを判断し、しかも自分の意のままに自分の利益をはかり〔第3部定理19と20を見られたい〕、さらに復讐する〔第3部定理40・系2を見られたい〕。また自分の愛するものを維持し、自分の憎悪するものを否定しようと努力する〔第3部定理28を見られたい〕。

           もし人間が理性の導きによって生活していたら、だれでも、〔この部の定理35・系1より〕他の人にまったく危害を加えることなしに、このような自分自身の権利を享受することができたであろう。

           しかし人間は、〔この部の定理6より〕人間的能力と徳をはるかにこえた強い感情に隷従しているのであるから〔この部の定理4・系による〕、したがって〔この部の定理33より〕しばしば異なったほうへひきまわされる。すなわち、〔この部の定理34より〕たがいに敵対的になる。そのようなときこそ、たがいに援助しあうことが彼らには必要であるのに〔この部の定理35・註解による〕。

           したがって、人々が心を和して生き、たがいに助けあって生きうるためには、彼らの自然権を譲歩して、他人に危害を与えるようないかなる行為もなさないという保証をたがいにもつことが必要である。
〔…〕〔第4部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.350-351.



 まず、最初に出てくる「自然の最高の権利」という言葉ですが、あとのほうに出てくる「自然権」と同じ意味と思われます。しかし、「自然権」自体が、スピノザがそれをどういう意味で使っているのかが重要問題になるわけですから、少し突っこんで考えてみなければなりません。

 この〔定理37・註解2〕の、もっと前のほうの段落で、「権利」という言葉が出てくる箇所がありますので、そこを参照しましょう:



「〔定理37・註解2〕
〔…〕われわれの利益を追求すべしというこの原理は、〔…〕動物がわれわれにたいしてもっている権利と同じ権利を、われわれは、動物にたいしてももっていると教える。むろん各自の権利は各自の徳、あるいは能力によって規定されるのであるから、人間は、動物が人間にたいしてもっている権利よりもはるかに大きな権利を、動物にたいしてもっている。〔第4部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.349.



 ↑これは、「屠畜を禁ずる法律」に対する批判を述べた箇所です。スピノザの結論は、牛や豚の屠殺を禁ずべきでない、人間が「自分たちの利益をはかって、」動物を「自分の思うままに利用したり、……われわれに……好都合なようにとりあつかうこと」は許される、ということにあります。なぜかというと、「動物がわれわれに対してもっている権利」―――猛獣が人間を襲って食べるということでしょう―――「と同じ権利を」、われわれも動物に対して持っている。しかも、人間の能力は動物よりもはるかに大きいのだから、われわれが持っている「権利」のほうが、動物が持っている「権利」よりはるかに大きい、というのです。(「徳」は、〔第4部・定義8〕によれば、「力」と同じ意味です。)

 つまり、スピノザの言う「権利」とは、少なくとも・この〔註解2〕での使われ方では、ほとんど“実力”“腕力”と同じような意味になります。

 そうすると、「自然の最高の権利」と言い、「自然権」と言い、それらも、かなり実力的なイメージで考えざるをえません。ロックよりも、ホッブズの“自然状態”の、“万人が万人に対して戦う”権利―――といったものに近いかもしれません。






 






「各個人は自然の最高の権利によって存在している。したがって各個人は自分の本性の必然性から導きだされるものを自然の最高の権利にもとづいて実行する。このことから各個人は、自然の最高の権利にもとづいて何が善であり、何が悪であるかを判断し、しかも自分の意のままに自分の利益をはかり〔第3部定理19と20を見られたい〕、さらに復讐する〔第3部定理40・系2を見られたい〕。また自分の愛するものを維持し、自分の憎悪するものを否定しようと努力する〔第3部定理28を見られたい〕。」



 「自分の本性の必然性から導きだされるもの」とは、「自分の存在に固執しようとする努力」(第3部・定理6〜9)すなわち「コナトゥス」から導き出される「衝動」「欲望」「意志」などの「感情」でしょう。「善」とは、それぞれの人にとって「有益」であるもの〔第4部・定義1〕、「悪」とはその妨げになるものです〔同・定義2〕。

 そこで、「自然状態」では各人は「自分の意のままに自分の利益をはかり」「自分の愛するものを維持し……ようと努力する」。ここで〔第3部・定理19〕を見ると、「愛するものを維持」するとは、「愛するもの」を「保護」することであるのがわかります。ここまでは、いいでしょう。

 しかし問題は、「復讐」したり、「自分の憎悪するものを否定しようと努力」したりもする点にあります。というのは、次の段落で、



「もし人間が理性の導きによって生活していたら、だれでも、〔この部の定理35・系1より〕他の人にまったく危害を加えることなしに、このような自分自身の権利を享受することができたであろう。」



 と言っているからです。この「であろう」は、原文では接続法です。反実仮想と解釈すれば、「自然状態」には「理性の導き」はありえないことになりますが、そうとばかりは言えないかもしれません。むしろ、「理性の導き」のある「自然状態」というのは、一考に値します。“国家”の無い(いまだ無い?)・しかし平和な社会の可能性が考えられるからです。

 ともかく、「復讐」〔第3部定理40・系2〕も、憎悪の対象を「否定」することも、相手に危害を加えることになります。

 そうすると、人々が「理性の導き」に従わず、「感情に隷従して」「ひきまわされ」ている・まったくの「自然状態」では、“憎みあい”と「復讐」によって、際限なく危害を加え合うことになるでしょう。

 もっとも、「愛するもの」は庇護のもとに置くわけですから、それぞれ気に入った者が集められたグループ同士で、闘争することになります。

 人々が「理性の導き」に従っている場合―――「準自然状態」と呼びましょうか―――には、どうなるでしょうか? 「復讐」は、しないでしょう。そもそも、全員が「理性」に導かれていれば、対立することはありえないのですから〔第4部・定理35,系1,系2〕、危害を加える者はいないことになります。したがって、危害に報復することもありえない。「憎しみ」は? やはり同じ理由で、生じないのではないでしょうか。もっとも、“嫌いな人”というのは、いるものです。その場合でも、「理性」に導かれていれば、危害は加えないと言えます。というのは、「理性」に導かれた状態について、スピノザは、↓次のように言っているからです:



「〔定理18・註解〕
〔…〕人間には、自分の存在を維持するのにあらゆる人間があらゆる点で一致しているということ以上に、価値あるものを望むことは不可能である。人間のそのような望みによってあらゆる人間の精神と身体は統合して、あたかも一なる精神、一なる身体を形成し、しかもあらゆるものが、同時にできるだけ各自の存在を維持しようと努力し、またあらゆるものが同時に彼らのすべてに共通な利益を要求するようになる。

          以上のことから理性に従って生きようとする人間、いいかえれば、理性の導きに従って自分に有益なものをもとめている人間は、自分以外の人たちのために欲しないようなものを、自分たちのために努力してもとめることはない。〔第4部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.324.



 しかし、このように、社会の構成員全員が完全に「理性の導き」に従っている「自然状態」―――という想定は、あまりにも現実離れしているかもしれません。

 しかも、「あらゆる人間の精神と身体は統合して、あたかも一なる精神、一なる身体を形成」するというのは……、なんかウサン臭い。例外を許さないような、とてもいやな社会になるような気がします。。。

 そこで、やや現実化した状態を考えてみることにします。なるほど、「理性の導き」に完全に従う人もいるかもしれない。しかし、大部分の人は、さまざまな割合で「理性」にも「感情」にも従っている。また、なかには「感情」のおもむくまま、「理性」にはまったく従わない人もいる。そういう「自然状態」も考えられるでしょう。

 その場合には、「復讐」とか、「憎しみ」の対象を否定するとかいったことが生きてきます。生きてきます、というのも変ですが、ある場合には、そういったものも「有益」だと――自分としては「善」だと見ることになる。

 たしかに、「憎ま」れて「憎み」返すと、「憎しみ」は相互に際限なく増大する。「憎しみ」には「愛」で報いよ、というのが「理性の導き」です〔第4部・定理46〕。しかし、「感情」を変えるなどということは、簡単にできることではありません。「愛」に変えられたとしても、相手の「憎む」気持を変えさせるほどの「愛」にまでなるとは限らない。相手は気持を変える前に、こちらが無抵抗になったと思って、危害を加えてくるかもしれません。自分が危害を受けるのならよいが、相手は、自分の庇護のもとにある「愛する者」に危害を加えるかもしれない。

 そうした害を防ぐには、相手に小さな危害を加えるか、加える気勢を示して恐れさせるのが有効かもしれない。

 ただ、その場合に間違えてはならないのは、そうした手段がたとえ許されても、それは「正義」として行なうわけではないということです。あくまでもそれは、「憎しみ」の発露か、または「復讐」なのです。(たしかにその場合、相手へのリアクションが、「憎しみ」「復讐」という感情のままに行われるとは限りません。感情がなしうるすべては、「理性」によって行なうこともできるからです〔第4部定理59〕。しかしそれはあくまで「憎悪」行為や「復讐」を、「理性」が主導ないし代行して行なうのであって、行為の意味が「復讐」でなくなったり、「正義」「懲らしめ」に変化するわけではありません)













 「自然状態」「正義」は存在しません。各人が、自分の考えで「善」「悪」を決めているだけであって、普遍的に通用する「善」「悪」「正義」もありえないのです。スピノザが、↓次のように書いているとおりです:



「〔定理37・註解2〕
〔…〕

           このようなことから、自然状態のもとでは、善であれ、悪であれ、すべての人々の同意に支えられているものがありえないということを、容易に認識しうる。というのは、自然状態のもとにあるものはすべて、自分たちの利益だけを思いめぐらし、自分たちの気ままによって、ただ個人的な利益をもとめるという原理にたって、何が善か、また何が悪かを判定する。
〔…〕

           このことから、自然状態では、罪というものは考えられない。〔第4部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.352.



 さらに、自然状態では「所有権」は存在しない。なぜなら、《自然》の物には、誰かのものである、というような性質は無いからだ。



「むしろすべては、あらゆる人の所有物なのである。」



 したがって、窃盗とか、誰かのものを「奪う」ということは、ありえない。



「いいかえれば、自然状態では正義とか、また正義に反するとか言われるようなことは、まったく起こりえないのである。〔第4部・定理37・註解2〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.353.



 こうして、いわば「理性」「感情」の“混合状態”を考えることによって、スピノザの「自然状態」のイメージは、かなり具体化したものになったのではないでしょうか?

 ところで、スピノザの考える「自然状態」には、もうひとつ重要な特徴があります。それは、さきほど触れた、人々がグループをなしているという点です。独立した個人の集合というよりも、たくさんの種族が並び立っているような状態なのです。実力があり、ある程度は「理性の導き」を受けた長老のもとに、多くの、または少数の人びとが庇護を受けているイメージです。

 なぜ、「自然状態」の最初から、独立したバラバラの個人ではなく、このようにグループになっているのかというと、人間には“《自然》の脅威”があるからです。“《自然》の脅威”のもとでは、人間は孤立しては生きられない。そのことは、↓次の部分で、よりはっきりと述べられています:



「〔定理35・註解〕ところが人間が理性の導きに従って生活することは、まれである。むしろ彼らのあいだでは妬みあいが絶えないし、たがいに不和をまきおこすのが実情である。他方、それにもかかわらず、
〔…〕人間の共同社会からは、危害よりも、はるかに多くの利益が生まれているのが実情である。

 したがって風刺家には
〔…〕、人間的なことがらをあざ笑わせるのがよかろうし、また神学者にはその人間的なことを呪わせておくのもよかろう。また人間ぎらいな者にはできるだけ、〔…〕人間を侮蔑し、野獣をほめたたえさせるのもよかろう。ところが彼らは、自分たちの必需品を人間同士の協力によってきわめて容易に自分たちのために用意すること、そしてたがいに力をあわせること、これがなければ、いたるところから脅威となってせまる危険をさけることができないという事実を経験すればわかるであろう。〔第4部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.343-344.



 ↑この叙述を見ると、さきほど〔定理37・註解2〕の最初で見た「保護」ということも、人と人との間の不平等や支配を前提とするものではないことがわかります。グループの成員相互間には、格差はないのです。ただ、実力と智恵をより多く持つ者が、他の者のリーダーとなって「保護」している状態と考えるべきでしょう。






 






 このようなスピノザの「自然状態」のイメージは、注目に値すると思います。ただ、それは、社会としてはあまりにも不安定でしょう。

 グループとグループのあいだで、いつ闘争が起きるかわからない。「感情」的になって暴力をふるうグループを抑えるために行なった威嚇が、戦争になってしまうことは珍しくないはずです。のみならず、グループの内部でも、長老が指導のしかたを誤れば、分裂と紛争が起きるでしょう。長老が「理性の導き」に従って呼びかけた示威行動であっても、成員たちは、「復讐」の感情に動かされて残虐行為に及ぶかもしれない。そして、「復讐」は破壊を、破壊は「復讐」を呼び、グループは離合集散を繰り返す。いや、諸グループ全体が殺し合って消滅するかもしれません。

 そこで次回は、スピノザの考える“社会契約”を見たいと思います。“社会契約”によって、国家のない安定した社会をつくることは可能か? 私たちの関心は、そこにあります。





【必読書150】スピノザ『エティカ』(11) ―――につづく。   










ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: 必読書150

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