03/08の日記

08:47
【必読書150】スピノザ『エティカ』(8)―――「感情」による統制から共同性の《自由》へ

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ピーテル・ブリューゲル(父)「スケートをする人々と鳥罠のある冬景色」(1565)











 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【必読書150】スピノザ『エティカ』(7)からのつづきです。






 【32】「せわしく明滅」する「有機交流電燈」






「わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です

  (あらゆる透明な幽霊の複合体)

 風景やみんなといつしよに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です

  (ひかりはたもち、その電燈は失はれ)」

宮沢賢治『春と修羅』「序詩」

 1行空けの段落は引用者。



 スピノザが“感情の幾何学”によって描く人間の生は、外界から送られてくる電気信号に感応して「せはしくせはしく明滅」する1箇の電球のように、不安定で頼りない存在です。

 しかし、それでいてその「青い照明」は、「いかにもたしかにともりつづけ」ているのです:



「ひかりはたもち、その電燈は失はれ」



 スピノザによれば、人間は、自分の身体の「変状」を通じてしか、他の「身体」ないし「物体」を認識することはできないのでした。が、もしも、他の「身体」が、もうひとつの主体すなわち“他者”として把えられたならば――「有機交流電燈」の“無限の”連なりとして理解されたならば――、そのとき、何が見えてくるのか? ‥‥この詩人は、その極地を、超越的な直観によってとらえていたと言えます。

 さて、日常生活においてさまざまな「感情」にとらえられている私たちは、“真”なる認識から遠ざかってしまうだけでなく、たがいのあいだで不和や誤解を生み出し、無用な争いに人生の限られた時間を費やしてしまいがちです。

 これは決して、“そのようなことは、くだらないから切り捨てる”という姿勢で通り過ごせることではありません。むしろ真正面から問題にする姿勢が必要です。



「北ニケンクヮヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ」

宮沢賢治〔雨ニモマケズ〕



 などと言って済むことではないのです。



「〔定理14〕精神は、もし一度に2つの感情によって同時に動かされると、後で、その2つの感情のいずれか1つによって動かされるときは、また必ずもう1つの感情によっても動かされるだろう。

 〔定理15〕いかなるものも偶然に、喜び、悲しみ、あるいは欲望の原因となりうる。

    〔系〕われわれは、ある喜びの感情あるいは悲しみの感情のもとでものを観照しただけで、それを愛したり、あるいは憎んだりすることがありうる。
〔…〕

   〔註解〕このような観点にたって、意識された原因が何もないのに、いったいなぜ、〔いわゆる〕同感や反感によってのみ、われわれはあるものを愛し、あるいは憎むようになるかを知る。〔第3部〕」

工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,中公クラシックス,pp.198-201.


 〔定理14〕の場合、
「我々は実質的には一種の『感情の記憶』を持つことになる。(スピノザの証明は、我々が2つの物体から同時に変状されたことがあるなら、後でそのうちのひとつについて思惟すると、もう一方についても思い出す、という主張に依拠している)。〔…〕(感情はその対象に関する我々の思惟に紐付けられるのかもしれない)。だから、もし我々が後でそのうちのひとつについて思惟すると、単に我々はもう一方について思惟するだけでなく、我々は以前持ったのと同じ感想を持つことになる。

      
〔…〕

 だから、我々はある事物を間接的に、理由を理解することなく愛したり憎んだりできる」

チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,p.172.













 私たちは、誰かに初めて会った時の印象が、その相手以上に、その時の自分の心理状態や、場所のふんいきや、たまたまその時に起きた他のできごとによって、大きく影響されることを体験しています。そういった、相手自身にはまったく関係のない・その場の感情を、私たちは、その後その相手を思い出すたびに繰り返し想起しているのだ、とスピノザは指摘しているのです。

 つまり、私たちが、現実に出会う人や物の印象は、まったく関係のない偶然の感情によって作られてしまう。これは、私たちが思っている以上に、私たちの考えを左右していますし、避けがたいことでもあるのです。私たちは、



「意識された原因が何もないのに、いったいなぜ、〔いわゆる〕同感や反感によってのみ、われわれはあるものを愛し、あるいは憎むようになるかを知る。」



 坊主が憎けりゃ、袈裟まで憎い。



 という諺は、たしかに真実を語っています。逆に、立派な袈裟の印象から、坊主に対して“とくに理由のない”好感を持つことも、よくあることでしょう。

 NHKニュースなどが、国会中継のビデオを巧みに編集することによって(撮影角度、距離等に注意!)、大臣の支離滅裂な答弁を、あたかも正当な説明のように受け取らせ、一部の野党議員を、あたかも悪辣な攻撃を仕掛けているかのように受け取らせる印象操作も、こうした感情の性質を利用したものと言えます。



「〔定理46〕もしある人が、自分と階級、人種を異にするだれかによって喜びあるいは悲しみをうけ、しかもその喜びあるいは悲しみの原因として、階級や人種という普遍的な名称のもとで考えられるものを意識するならば、彼はたんに彼に動揺を与えたその当人ばかりでなく、またその人が属する階級や人種のすべてをも、愛しあるいは憎むであろう。〔第3部〕」

工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,中公クラシックス,pp.240-241.



 人種差別や、階級意識、マイノリティに対する偏見を作り出しているのも、多くの場合には、偶然的な感情の連合です。ただ、この場合には、まったくランダムに感情の連合が起こるのではなく、西欧人に対しては、たまたま受けた良い印象が記憶に残り、中国人、韓国人に対しては、たまたま受けた悪い印象が記憶に残る、というように、方向があらかじめ決められていると言えます。つまり、“はじめに差別ありき”なのです。

 しかし、「感情」は、たんに“差別”の結果なのかというと、必ずしもそうではない。「感情」は差別意識を強めるだけでなく、その被差別集団の具体的な構成員ひとりひとりに、くまなく偏見を向けさせる点で、“差別”を現実化・実質化する機能を果たしているのです。



「彼はたんに彼に動揺を与えたその当人ばかりでなく、またその人が属する階級や人種のすべてをも、愛しあるいは憎むであろう。」



 とスピノザが指摘しているとおりです。






 【33】分裂する主体






「〔定理36〕自分が一度楽しみを覚えたものを心に思いうかべる人は、はじめに彼が楽しんだのと同じ状況のもとでそれを自分のものにしようと願う。

    〔系〕したがって、愛する人は、もしその状況の一つでも不足していることを確認するならば、悲しみにつつまれるであろう。

   〔註解〕このような悲しみが、愛するものの不在に関係しているかぎり、思慕と呼ばれる。〔第3部〕」

工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,中公クラシックス,pp.228-229.



 「自分のものにしようと願う」感情は、おそらく「欲望」でしょう。「愛する人」の場合には、その「欲望」は強いだけでなく、対象の「観念」と深く結びついています。そのため、以前に対象を「楽しんだのと同じ状況のもとで」、また楽しみたいという思いも強いのです。

 以前に「楽しんだのと」違う点があれば、それを補いたいと強烈に希求します。とくに、対象が“現前していない”という不足は、大きく思いをとらえる、また行動をうながす不足のひとつでしょう。



「〔諸感情の定義1〕欲望とは、人間の本質そのものである。ただその場合、人間は与えられたおのおのの変様によってあることをなすように決定されていると考えなければならない。

      〔説明〕われわれは、すでにこの部の定理9の註解で、欲望とは意識をともなった衝動であるといった。また衝動とは、人間の本質そのものであるといえる。
〔…〕

          ここで欲望という概念によって私は、人間の努力
コナトゥス――ギトン注〕、潜在衝動、衝動、さらに意志などのすべてを意味する。またそれらは、同じ人間でもその感情の変化に従って多様化しており、むしろたがいに対立しないのはまれである。そのため人間は、無秩序に引きまわされ、しかも自分がどのような状態にあるのかを知らないのである。〔第3部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.265-266.


 つまり、ひとりの人間の「欲望」から派生したさまざまな「感情」――潜在衝動、衝動、意志、思慕、競争心、親切、怒り、復讐、残忍、勇敢、丁重、野心、…――どうしが衝突しあうことは、まれではない。

 たとえば、健康になりたいと思うのも「欲望」です。健康になるために、タバコをやめようと決心する「意志」も、「欲望」の一派生感情です。他方、禁煙に堪えられず、タバコに手を出して吸ってしまう「衝動」は、「欲望」が身体・精神の両面にわたった感情です。このように、私たちの中では、意識する・しないにかかわらず、同じ「欲望」から派生したさまざまな「感情」が、つねに衝突しあい、混乱を繰り返しているのです。






 






「〔定理17〕もしわれわれを習慣的に悲しみの感情に動かしているものが、さらに習慣的にわれわれを同じ大きさの喜びの感情に動かしている他のものと、いくらか似ていると想像されるならば、われわれはそのものを憎むと同時に愛するであろう。

   〔註解〕ところで、2つの対立する感情から生ずる精神のこのような状態は心の迷いと呼ばれる。
〔…〕私は、心の迷いが一般には、それら2つの感情の動力因であるような1つの対象から生ずることを、否定するものではない。

       一方、人間の身体は、〔第2部要請1より〕異なった本性をもった多くの個体から組織されている。このことから、〔第2部定理3につづく補助定理3の次の公理1より〕人間身体は、同一の物体から何回となく、異なった仕方で動かされうる。また
〔… ギトン注―――同一の物体は〕何回となく、異なった仕方で身体の同一部分を動かすことができるであろう。

       以上の諸点からわれわれは、同一の対象が多様で対立的な諸感情の原因となりうることを、かんたんに理解できる。〔第3部〕」

工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,中公クラシックス,pp.202-203.

青字は、原書のイタリック、訳書の傍点付き文字。


 
 私たちは、同じ対象に対して、さまざまな、たがいに矛盾した「感情」を向けるのがつねです。スピノザは、これを、人間の身体は複合体で、「異なった本性をもった多くの個体から組織されている」ために、各部分(個体)がそれぞれの本性によって、ばらばらにさまざまな「感情」をもつことから、きわめてたくさんの「感情」がからみあって生起するのだ、と説明しています。

 スピノザは、「多くの個体」として、臓器や体液のようなものを考えていたのか、細胞のようなものを考えていたのか、それとも、もっと微細な原子のようなものの複合として「身体」をとらえていたのでしょうか?



「〔要請1〕人間身体は、〔異なる本性をもつ〕きわめて多くの個体から組織されている。そしてそのおのおのの個体も非常に複雑な組織をもっている。

 〔要請2〕人間身体を組織する個体のうち、あるものは、流動的であり、またあるものは軟らかく、最後にあるものは硬い。〔第2部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.114.



 ↑ここからすると、どうやら、人間を構成する「個体」とは、体液や内臓や組織のようです。しかし、その「おのおのの個体も非常に複雑な組織をもっている」と言っていますから、細胞や原子まで考えていたかもしれません。そのそれぞれが「異なる本性」を持ち、各個ばらばらに「感情」を持つということですから、スピノザが見るところの人間の“「感情」構造”は、私たちが――また、現代の心理学や大脳生理学が――考える以上に複雑なものであったようです。






 【34】感情は社会統制の道具



 「愛」「憎しみ」に対して加えられた考察は、「希望」と「恐れ」に対しても適用することができます。スピノザによれば、「希望」も「恐れ」も、人間にとって有害な感情です。「恐れ」は、活動力を低下させて、災いを避ける力を奪ってしまい、むしろ自分から災いにとらえられてゆく感情だからです。「恐れ」という感情の・そのような性格は、迷信的な“凶兆”の場合に顕著です。“凶兆”にとらえられた人は、現実に迫っている災いをさける努力をまったく放棄し、“祈願”“祈祷”によって、「恐れ」の感情そのものへ没入することに専念します。

 しかし、「希望」の場合も、けっきょくは「恐れ」と同じことです。「希望」は、つねに「恐れ」(危惧)の感情をともなっており、けっきょく「希望」という感情が私たちにもたらすのは、不確実さを確実さのように思いこんでそこに固執する頑迷さでなければ、「希望」を掲げつつ本心では未来を怖れる迷妄でしかないのです。



「〔定理50〕いかなるものも偶然によって、希望あるいは恐れの原因となることができる。

   〔註解〕偶然によって希望あるいは恐れの原因となるようなものは、吉兆、あるいは凶兆と呼ばれる。
〔…〕ここから、人々の心をいたるところで困惑させる迷信が生じてきたのである。

 〔諸感情の定義12〕希望とは、不安定な喜びである。すなわちそれは、その結末についてある程度われわれが疑念をいだくような未来、あるいは過去のものの観念から生じてくる。

 〔諸感情の定義13〕恐れとは、不安定な悲しみである。すなわちそれは、その結末についてわれわれがある程度疑念をいだくような未来、あるいは過去のものの観念から生じてくる。
〔…〕

       〔説明〕
〔…〕恐れをともなわない希望は存在しないし、また希望をともなわない恐れも存在しない〔…〕〔第3部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.244,273.



「〔定理47〕希望と恐れの感情は、それ自体では善ではありえない。

   〔証明〕希望と恐れの感情にはかならず悲しみがともなっている。
〔…〕

   〔註解〕このことに加えて、この2つの感情は、認識の欠陥と精神の無力を表示している。そしてこのためにまた、満足、絶望、歓喜、さらに内心の痛みは心の無力の証拠である。
〔…〕このようにして、理性の導きによって生活しようと努力すればするだけ、希望に依存することをできるだけさけ、自分は恐れから解放されるよう、またできるだけ運命を支配するようにますます努力する。しかも、理性の確実な指図によってわれわれの行為の方向をきめるように、つとめる。〔第4部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.364-365.













「感情は我々を行動させる。したがって感情は社会統制の道具になる。恐怖
〔工藤訳「恐れ」に同じ――ギトン注〕は、もしかするとその最も強力な道具かもしれない。そのため、政治、宗教の指導者はしばしば恐怖を利用してきた。たとえば、おぞましい公開処刑は長らく異端信仰を含む犯罪の抑止に重要なものと考えられてきたし、永遠に続く地獄の業火に対する恐怖は(永遠に続く至福に対する希望とともに)いまなお宗教当局に対する遵奉の動機となっている。また、恐怖を有益と見ているのは世俗の政府も同じである。敵を鬼畜扱いするのは、戦争を準備する際の重要な一歩である。」
チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,p.155.








 【35】各自が最大の利益を追求する時に、たがいに最も有益である。





「〔定理32〕人間が受動感情に支配されているかぎり、彼らが本性上一致することはありえない。

 〔定理34〕人間が受動感情に動かされているかぎり、彼らはたがいに対立的でありうる。

   〔証明〕ある人間、たとえばペテロは、パウロが悲しみにつつまれることの原因でありうる。というのはペテロが〔第3部定理16より〕、パウロの憎んでいるものと何らかの類似点をもっているか、あるいはペテロがパウロ自身も愛しているものを独占しているか〔第3部定理32とその註解を見られたい〕、あるいはその他のいろいろな原因〔その原因の主要なものについては、第3部定理55註解で述べられているのを見られたい〕のためである。このことからパウロは、〔感情の定義7より〕ペテロを憎み、したがってまた容易に〔第3部定理40とその註解により〕、ペテロがパウロを反対に憎むということになって、さらに〔第3部定理39より〕たがいに禍をもたらそうと努力するようになる。
〔…〕

 〔定理35〕人間が理性の導きに従って生活しているかぎり、彼らは本性上、常に必然的に一致する。

   〔系1〕人間が理性の導きに従って生活している人間以上に人間にとって有益な個物は自然の中には見あたらない。

   〔系2〕すべての人間は、自分にとって有益なものをもっとも強く要求するとき、そのとき彼らはたがいにもっとも有益である。というのは、各人が自分にとって有益なものをより強く要求すればするだけ、また自分自身を維持しようと努力すればするだけ、〔この部の定理20より〕、
〔…〕〔この部の定義8より〕、自分の本性の法則に従って行為するためのより大きい力が、いいかえれば〔第3部定理3より〕理性の導きに従って生きるためのより大きな力が与えられる。ところが人間は、理性の導きに従って生活することによって〔前定理より〕本性上もっともよく一致している。ゆえに、〔前の系より〕人間が各自の利益を自分のためにもっとも強く要求するとき、彼らは相互にもっとも有益であろう。かくてこの定理は証明された。

  〔註解〕
〔…〕ところが人間が理性の導きに従って生活することは、まれである。むしろ彼らのあいだでは妬みあいが絶えないし、たがいに不和をまきおこすのが実情である。他方、それにもかかわらず、〔…〕人間の共同社会からは、危害よりも、はるかに多くの利益が生まれているのが実情である。〔第4部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.337-343.



 〔定理35〕とその2つの〔系〕には、スピノザの倫理観が、ひじょうにはっきりと表れています。

 人間の社会は、個々の成員が我欲を抑えることによって全体を幸せにすることができる、というのではなく、それぞれが、



自分にとって有益なものをもっとも強く要求するとき、そのとき彼らはたがいにもっとも有益である。



 と言うのです〔系2〕。しかも、この原理が妥当するのは、人びとが「理性の導きに従って」いる場合だけではない。大多数の成員が「感情」と偏見にとらわれて「妬みあい」、「たがいに不和をまきおこ」している場合にも、



「人間の共同社会からは、危害よりも、はるかに多くの利益が生まれている」



 と云うのです〔註解〕。なぜ個々人の我欲追及――どころか、「より強く要求」すること――の結果が、「たがいにもっとも有益である」といえるのか?‥その論証は、人間どうしは、



理性の導きに従って生活しているかぎり、……本性上……一致する。」



 こと〔定理35〕を根拠にしています。たしかに、論証は「理性」を根拠に――全体が幸福になる条件に?――しているのです。その証明の過程を図式化すると:



@「各人が自分に有益なものをより強く要求する」
 「各人が自分自身を維持しようと努力する」   →

A「自分の本性の法則に従って行為するための力(徳)」が増大する〔第4部定理20,定義8〕
 = 「はたらきをなす力(能動)」が増大する〔第3部定理3〕
 = 「理性の導きに従って生きるための力」が増大する →

B 人びとは「本性上もっともよく一致」する〔第3部定理35〕 →

C 人びとは「相互にもっとも有益」である〔定理35系1〕



 となるでしょう。

 @は、各人が自己の「本性」である「コナトゥス」を発揮することにほかなりません。しかし、ある人にとって有利なことが、ほかの人にとっても常に有利だとは限りません。限りのある資源の獲得が問題ならば、Aさんが獲得したために、Bさんの手に入らなくなることが多いでしょう。同じもの――たとえば食糧――を獲得したいという同じ「本性」がぶつかりあってしまったら、「相互に有益」だなどとは、とうてい言えない――それは、当然に予想できることです。




 




 ところで、〔定理20〕を見ると:



「各個人が各自の利益を追求すればするだけ、いいかえれば、各自の存在を維持しようと努力し、しかもそれが可能であればあるだけ、……」



 とあります。つまり、@の仮定は、ただがむしゃらに各人が自分に有利なことを要求するというのではなく、そうすることができるような条件がある、コナトゥスをよりよく発現できる条件がある、ということだと思います。そうすると、スピノザは、資源が潤沢で、取り合いが起きないような場合を想定しているのでしょうか?

 その点については、何も書かれていないのです。のみならず、仮に資源が潤沢だったとしても‥‥潤沢であればあるほど、自分では必要としないような大量の資源を独占しようとする人間は、必ずいるものです。もし、そうした独占行為が“「理性」に反する”、合理性に反すると云うのであれば、そこに格段の説明が必要でしょう。しかし、そうした説明は、少なくとも明示的には与えられていません。

 ともかくスピノザとしては、各人が「コナトゥス」を発揮することによって、各人の「能動」的な力が増大するが、それは、「理性の導きに従って生きるための力」が増大することにほかならないから、それが最も各人に利益をもたらす状態なのだ、と結論するわけです。

 ここには、「理性の導き」に対する根源的な楽観主義があるのでしょうか?‥あるいは、「人間」に対する根源的な信頼と言ってもよいかもしれません。

 ひとりひとりは「感情」「臆見」(想像知)に左右されやすく不安定で、たがいに不和と混乱をひきおこしやすい「人間」というものを、あれほど露わに解剖して見せたスピノザが、この「第4部」になると、どうしてこれほど容易に「人間」を信頼できるようになるのでしょうか?

 おそらく、スピノザとしては、最終的には、いかなる人間も《神すなわち自然》「様態」であって、各個のうちに、各個である“かぎりの《神》”が現れているという考えがあったのでしょう。しかし、そうだとすると、そこで彼の言う「理性知」「直観知」――これらの「十全」な認識は、どういうものなのか? 各個人の「コナトゥス」「欲望」や利益追求との関係は、どうなっているのか?‥‥そこを、もっと知りたくなります。

 各人の利益追求が、全体としての利益と幸福を増大させるというスピノザの考えは、約1世紀のちのイギリスで『道徳感情論』(1759年)『諸国民の富』(1766年)を著わしたアダム・スミスを想起させます。スピノザは、スミスの経済的《自由主義》の先がけになっているかもしれません。しかし、スミスとスピノザの大きな違いは、全体を“予定調和”に導くスミスの「見えざる手」のようなものを、スピノザは、カテゴリックに否定していることだと思います。

 スピノザは、彼の《神すなわち自然》から、人格神のような“とりなし”の力を、徹頭徹尾剥ぎ取ってしまいます。「第5章」でいうように、《神すなわち自然》は、人間のほうから積極的に、「直観知」によって求めて行かないかぎり、《神》のほうからは介入して来ないのです。《自然》は、ランダムな必然だけが支配する世界として描かれます。ですから、もしかすると、スピノザの場合には、“全体としての利益増進”“全体の幸せ”などは約束されていないのかもしれません。彼は、



「そのとき彼らは(各個が自分の利益を主張する人間たちは)たがいにもっとも有益である。



 と言っているだけなのですから。

 さきほど見た〔定理35・註解〕の最初の部分をもういちど見ると:



「ところが人間が理性の導きに従って生活することは、まれである。むしろ彼らのあいだでは妬みあいが絶えないし、たがいに不和をまきおこすのが実情である。」



 ここでスピノザは、「理性の導きに従って生活する」のは決してかんたんなことではなく、「大きな力」を必要とする、と言っているのかもしれません。そこで、人間が、「理性の導きに従って生活する」ためには、そういう生き方をするのに必要なエネルギー水準に移らなければならない。それには、まず「各人が自分にとって有益なものをより強く要求」し「自分自身を維持しようと努力」することが必要なのだ、と‥‥そのように読むこともできるでしょう。









 ところが、ここでさらに大きな疑問が生じます。

 「理性の導きに従って生活する」とは、けっきょく合理的に行動することだと思うのですが、そうだとすると、そもそも、スピノザが「第3部」までに描いてきた「感情」に動かされやすい人間は、自己を一個の“主体”として把握して、合理的に行動することができるのだろうか?‥という疑問が生じるのです。

 というのは、スピノザによると、人間の身体は複合体で、「異なった本性をもった多くの個体から組織されている」ために、各部分(諸個体)が、それぞれの本性によって、ばらばらにさまざまな「感情」をもつ――とされていたからです:



人間の身体は、〔第2部要請1より〕異なった本性をもった多くの個体から組織されている。このことから、人間身体は、同一の物体から何回となく、異なった仕方で動かされうる。また(同一の物体が)何回となく、異なった仕方で身体の同一部分を動かすことができるであろう。

 以上の諸点からわれわれは、同一の対象が多様で対立的な諸感情の原因となりうることを、かんたんに理解できる。〔第3部、定理17、註解〕」



 今日のふつうの考え方では――それ自体、デカルト主義に発する近代思想の思いこみで、スピノザとは相容れないのかもしれませんが―――、人は自分の中の諸感覚、諸観念を“統握”して、一個の“主体”として存立するからこそ、刹那刹那の気まぐれではなく、合理的個人として行動することができるのだ、ということだと思います。

 しかし、そうではなくて、ひとりの人間は、その「身体」を構成する多数の諸「個体」の集合体で、諸「個体」は、それぞれの異なる「本性」にしたがって動いているのだ、ということになると、合理的行為からはほど遠いように感じられます。そもそも、何もかもバラバラな「身体」は、行動することが―――たんに歩くにしろ、しゃべるにしろ―――できるのだろうか? とさえ思われてきます。

 スピノザの想定する「人間」には、デカルト的な“考える主体”“身体を操縦する主体”は存在しません。もし“主体”のようなものがありうるとすれば、それは「コナトゥス」以外には考えられないでしょう。ところが、「コナトゥス」とは、「各自の存在を維持しようとする力」で、それは「欲望」をはじめとする多数の下位感情に、これまたちりぢりに分裂しています〔第3部・諸感情の定義1説明〕。

 それでも、「コナトゥス」「能動」性として「はたらきをなす」場合には、自己を統握する力としても働くのでしょうか? スピノザは、その点にはまったく触れていないように思われます。

 もっとも、↑上で引用した〔定理17・註解〕は、もっぱら「受動」的に動かされて「感情」を生じる場合を扱っているようにも読めます。それと違って、「能動」的な場合には、体内の諸「個体」は、統一的なまとまりをもって「はたらく」のか?‥

 たしかに、スピノザによると、「十全」な観念(“能動感情”「理性知」、および「直観知」)だけが「能動」的なものだと、‥それらだけが「はたらきをなす」のだと、強調されます。そうすると、「コナトゥス」は、「理性」的に働くときには、“主体”として自己を統握する力を発揮するのでしょうか?



「スピノザは、『認識する』ということばをいろいろの段階で使いわけている。しかし一般的にいえることは、スピノザにおいては認識の核心は同時に行為である。すなわち人間の全体的な『はたらき』として考えられている。したがって、真の意味で知的認識をするということは、人間が自由に行為することであり、自由な行為は真の認識をともなわなければならないのである。ここで『認識する』ということは、本質的な深い意味での認識である。認識は行為として実現しなければならない。

      
〔…〕

 神を知るということは、
〔…〕体験と行為をとおして神を認識することである。つまり認識は同時に行為である。」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.330,334〔訳者註〕.



 このように、訳者・工藤氏によれば、スピノザの言う「認識」とは、「同時に行為」であり、「真の認識」とは「自由な行為」にともなって実現されるものです。つまり、「十全」な「真の認識」である「理性知」「直観知」は、社会や他人に「はたらき」かけることを含む社会的実践の中にあるというのです。

 これはおそらく碩学の卓見なのでしょうけれども、私たちとしては、『エティカ』のテクストから、そのような深遠な思想が直ちに読みとれるわけではありません。やはりあくまでテクストに則して進んで行かねばならないでしょう。

 それでも、「理性」と行動の関係、“統握”と社会化について、ひとつ思いつくことはあります。

 幼児の自己形成の過程においては、外界の事物の認識が重要な役割を果たします。ヘレン・ケラーが回想記の中で、サリバン先生から受けた指導について語っているように、彼女は、「水」「庭」「花」といった言葉を(指文字で)教えられながら外界の事物を体験することによって、「理性」を獲得し、“「感情」の嵐”から解放されて行ったのです。「理性」の獲得とは、“種類”の概念を獲得して行くことであり、それは、自己を“個”として統握してゆく過程でもあったのです。

 さらに、ヘレン・ケラーを離れて、一般の幼児の成長について考えると、幼児は、周囲に対してさまざまな「要求」をする“社会的行動”によって、そうした「理性」を獲得してゆくのがふつうではないでしょうか? その「要求」行動が、より強く、より積極的であればあるほど、「理性」の獲得も、より進展する。その結果、もっとも有用なものは他の人間であるということに目覚めてゆく―――スピノザにならって言えば、そういうことになるのではないでしょうか?






 






【必読書150】スピノザ『エティカ』(9) ―――につづく。   










ばいみ〜 ミ




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